◆◆◆くじょう みやび日録 第二期◆◆◆

 

第一期から断続的に楽しんでいる「女房気分de書写」。

現在は

『栄花物語』を読み、巻一から順にひとつずつ好きな場面を書写

という形で一人密かに進行中です。

 

本日は、巻三十六をご紹介いたします。

 

先日ご紹介したように、すでに全巻書写を終えて製本までしているので、これからあと最後の四十巻まで、毎週金曜日にUPする予定です。



巻三十六「根あはせ」:みやびな帝・後冷泉天皇の華やかな後宮

 

寛徳2年(1045)正月~康平4年(1061)ころ。
後朱雀天皇が崩御し、後冷泉天皇の御代となった。

亡き帝の母・藤原彰子や寵愛深かった女御・藤原生子の嘆きは深い。しかし生子は立后かなわず、父の藤原教通にとっても悔やまれる結果となる。一方、延子(頼宗女)に生まれた子は女子であった(正子内親王)。

東宮は禎子内親王所生の尊仁親王(のちの後三条天皇)。同腹の禖子内親王は斎院となるが、禎子内親王の子らは軽視されている様子。

 

巻名は永承六年(1051)の根合から。

直後唐突に(直前の巻で唯一の跡取り息子・通房を亡くしたはずの)藤原頼通の跡取り息子・藤原師実の元服(1053年)記事が登場し、以下瞬く間に中納言や内大臣となり子息が生まれ……などと展開する(前巻あたりから、年次表記はあやしくなっている)。


 

後朱雀天皇と藤原嬉子のあいだに生まれた後冷泉天皇の、みやびやかな治世が強調されていました。後宮も賑やかで、これまで章子内親王が唯一無二の存在として描かれこの巻でも早々に立后して中宮となっていましたが、教通女(上述の生子の同腹妹)藤原歓子、そしてこれまた唐突に登場する頼通女の藤原寛子が入内します(後半から登場する師実の同腹姉で、母の身分が高くないことが原因かと思われます)。

さて、後冷泉天皇の後宮です。

最後に入内した寛子ですが早々に立后。従来ですと章子内親王が皇后にスライド、寛子が中宮となりますが、内親王自身の希望で彼女の身分はそのまま(中宮)となっています(寛子が皇后に。これは興味深い)。

残る歓子はこの時点で(教通にとってはまたしても)女御のまま留め置かれています。彼女は後宮の一角をどっしりと占めているように書かれていたり、里居勝ちであるように書かれていたり一定しない印象。次巻では小野に隠棲している風情豊かな様子がしっとりと描写されます。



書写場面は、その三人のきさきたちで華やぐ後宮の様子。
万事立派で物慣れていて帝も尊重する中宮・章子内親王
●最も長い描写となっているのが皇后・藤原寛子

しかし彼女自身の話ではなく、女房がいかに高い出自かということがひたすら強調されているのみです。故小一条院の栄子内親王(顕光女・延子腹)まで出仕したとしますが、これは裏付けされていません。<身分高い女房を使役する摂関家の女>表現は繰り返されてきて(それ自体は事実なんでしょうが食傷気味)、ここに極まれりという箇所になっています。
●女御・藤原歓子は「重りかにゆゑゆゑし」(=重々しくたしなみ深い)と表現されていて、姉の生子の「ゆゑゆゑしき御方」(巻三十四)を思わせます。最後の一文は「四条大納言の名残をかしく、ゆゑある御方と人思へり」です。
 ※四条大納言とは、もちろん母方の祖父・藤原公任です!!

 

 

 

 

 

 

 

 

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