仲良し女子グループ貸切散歩 11月12日(日)  | 東京散歩道

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「東京お散歩教室」主宰、小島信康が綴る身近な街の素敵発見探訪記。

お散歩ナビゲーター小島信康です。

 

今回は11月12日(日)に久しぶりに催行しました貸切散歩の様子を簡単にご紹介します。

 

お客様は学生時代からずっと仲良しの女性グループ7名様。

 

夜の食事会の前に軽くお散歩がしたいということで、岩本町から御茶ノ水まで、界隈の見所を3時間ほどかけてご案内してきました。

 

ということで、出発は岩本町駅から。

 

まずは、繁栄お玉稲荷大明神へ。

 

 

繁栄お玉稲荷大明神は、千代田区岩本町2丁目にある倉稲魂命を御祭神として祀る稲荷神社。

かつてあったお玉が池の畔に勧請され、太田道灌の崇敬をはじめ、足利義政の祈願、伊達政宗の参詣など、人々から崇拝されていましたが、安政2年(1855)の大地震による火災で焼失。

本社は明治4年(1871)に、分社の於玉稲荷神社(葛飾区新小岩)へ遷座されました。

 

繁栄お玉稲荷大明神の次は、柳森神社へ。

 

 

柳森神社は、千代田区神田須田町2丁目にある倉稲魂大神を御祭神として祀る神社。

長禄2年(1458)、太田道灌が江戸城の鬼門除けとして、多くの柳をこの地に植え、京都の伏見稲荷を勧請したのがはじまりとされ、万治2年(1659)の神田川掘割の際に、神田川北岸から現在地に移りました。

また江戸時代には、椙森神社、烏森神社と共に江戸三森の一社に数えられ、商売繁盛の神様として多くの信仰を集めましたが、大正12年(1923)の関東大震災で全てを焼失。

その後、復興事業によって、昭和5年(1930)に現在の社殿が再建されました。

境内には、徳川綱吉の生母桂昌院が崇拝していたものを移したとされる「おたぬきさん」と呼ばれる福寿神が祀られています。

これは、「たぬき=他に抜きんでる」という意味からで、立身出世や勝負事、金運向上にご利益があるとされ、土製の親子狸のお守りも人気を集めています。

 

柳森神社の次は、mAAch ecute 神田万世橋へ。

 

 

mAAch ecute 神田万世橋は、千代田区神田須田町1丁目にある旧万世橋駅のホームや階段遺構と一体化した商業施設。

神田川に沿って外堀通りまで続く煉瓦造の万世橋高架橋内に、カフェなどの飲食や物販のショップが入っています。

また旧万世橋駅時代のプラットホームにデッキを設け、フリースペースやカフェとして利用できる「2013プラットホーム」、駅開業時に造られた階段で、ホームから鉄道博物館に直接入館できる特別来館口として利用された「1912階段」、昭和10年(1935)に設置され、駅休止まで万世橋駅の階段として使われた「1935階段」といった再生された遺構が、見どころとして注目を集めています。

 

mAAch ecute 神田万世橋の次は、出世稲荷神社へ。

 

 

出世稲荷神社は、千代田区神田須田町1丁目にある倉稲魂命を御祭神として祀る稲荷神社。

伏見稲荷の分祠、柳森神社の境外摂社として、連雀町創立の頃から町内の鎮守神として祭祀。

一説には、出世した青果商人が、奉賽として建立したともいわれています。

その後、延享年間(1744~1748)に、火災のため柳森神社に合祀。

明治7年(1874)、連雀町に社殿を造営し、遷座しました。

そして、大正12年(1923)5月、今度は社殿改築の議が起こり、再び柳森神社に遷座。

9月に新築竣工となる予定でしたが、関東大震災が発生し、新宮は町内とともに壊滅。

神璽は柳森神社の神璽とともに、神田川いなり河岸に係留されていた「稲荷丸」という船に奉遷して、猛火の中、河口に脱出し、難を逃れました。

現在の社殿は、昭和3年(1928)に遷座・建立されたもので、その後、戦火も免れ、町内に火災・災厄がないことから、火防・商売繁盛・学業成就の神様として崇敬を集めています。

 

出世稲荷神社の次は、近江屋洋菓子店に行って、お土産購入タイム。

 

 

私はサバランとベイクドチーズケーキを買いました。
フランス伝統菓子のサバラン、初めて食べましたが、とても美味しかったです。

 

近江屋洋菓子店の次は、WATERRASへ。

 

 

WATERRASは、千代田区神田淡路町2丁目にある安田不動産が運営する複合施設。

統合で廃校になった旧千代田区立淡路小学校の跡地を中心に整備し、平成25年(2013)4月12日に開業。

敷地は主に、高層ビル「WATERRAS TOWER」と別棟「WATERRAS ANNEX」、「水と緑」をテーマにした庭園で構成され、建物内には、オフィス・商業施設・住居の他、コミュニティ施設や学生マンションもあります。

 

WATERRASの次は、御茶ノ水ソラシティへ。

 

 

御茶ノ水ソラシティは、千代田区神田駿河台4丁目にあるオフィス・教育関連施設・商業施設などからなる複合施設。

大成建設・ヒューリック・安田不動産・大成有楽不動産の4社が出資する特定目的会社が事業主となって旧日立本社ビルの跡地を整備し、お茶の水の新たなランドマークとして、平成25年(2013)4月12日に開業しました。

施設内には、お茶の水界隈のお気に入りスポットを探してオリジナル散歩地図を作成したり、街の歴史を古地図と古写真から振り返ることができる、まち歩きの起点と情報発信の拠点「お茶ナビゲート」や、書籍商の書庫蔵として大正6年(1917)に上棟し、その後「淡路町画廊」を経て、ギャラリーとして移築された「Gallery 蔵」といった見所もあります。

 

御茶ノ水ソラシティの次は、東京復活大聖堂へ。

 

 

東京復活大聖堂は、千代田区神田駿河台4丁目にある日本ハリストス正教会教団の大聖堂。

イイスス・ハリストス(イエス・キリスト)の復活を記憶する大聖堂で正式名称は「東京復活大聖堂」、「ニコライ堂」は日本に正教会の教えをもたらしたロシア人宣教師ニコライにちなんだ通称です。

緑青を纏ったドーム屋根が特徴の、日本初にして最大級の本格的なビサンティン様式の教会建物は、明治24年(1891)に完成。

聖堂の原設計はロシア工科大学教授で建築家のミハイル・シチュールポフが、実施設計・監督はジョサイア・コンドルが担当しました。

また建築工事は、長郷泰輔が請負い、清水組(清水建設)が施工をしました。

大正12年(1923)の関東大震災では、煉瓦造の鐘楼が倒壊してドームを破壊、またこのとき発生した火災によって、内部や木造部分の多くを焼損しました。

その後、建築家岡田信一郎の設計により、昭和2年(1927)から昭和4年(1929)にかけて修復工事が施され、外観の一部が変更。

戦時中の空襲被害は免れ、昭和37年(1962)に、国の重要文化財に指定されました。

(堂内も見学しましたが、撮影禁止のため外観のみ掲載)

 

東京復活大聖堂の次は、聖橋に行って、橋上から鉄道ウォッチング。

 

 

聖橋は、千代田区駿河台4丁目と文京区湯島1丁目を結ぶ、本郷通りが通る神田川に架かる橋。

関東大震災後の震災復興橋梁の1つで、昭和2年(1927)に完成した鉄筋コンクリートアーチ橋です。

橋名は東京市が公募し、両岸に位置する2つの聖堂(湯島聖堂とニコライ堂)を結ぶことから「聖橋」と命名。

平成29年(2017)には土木学会選奨土木遺産に選奨されました。

 

聖橋の次は、湯島聖堂へ。

 

 

湯島聖堂は、文京区湯島1丁目にある史跡。

歴史は、5代将軍·徳川綱吉が儒学振興のため、上野忍ヶ岡にあった幕府儒臣·林羅山の邸内の孔子廟「先聖殿」を元禄3年(1690)にこちらに移し、先聖殿を「大成殿」と改称して孔子廟の規模を拡大・整理したのが始まり。

この後、寛政9年(1797)、第11代将軍·徳川家斉の時代に規模を拡大し、幕府官立の直轄学校「昌平坂学問所」となりました。

明治維新を迎えてからは、新政府の所管となって引き継がれましたが、明治4年(1871)に閉鎖。

以後、聖堂構内には、文部省、国立博物館(現在の東京国立博物館)、東京師範学校(現在の筑波大学)、東京女子師範学校(現在のお茶の水女子大学)などが一時置かれ、日本の近代教育発祥の地としての栄誉を担い、大正11年(1922)、国の史跡に指定。

大正12年(1923)の関東大震災では、宝永元年(1704)築造の入徳門と水屋を残し、全てを焼失。

しかし、斯文会が中心となって復興活動に力を注ぎ、昭和10年(1935)、東京帝国大学·伊東忠太教授の設計と大林組の施工のもと、鉄筋コンクリート造の大成殿が再建。

大成殿には、孔子像の他、孔子の高弟たち、四賢像(顔回・曾子・子思・孟子)が祀られています。

また、構内にある孔子の立像は、昭和50年(1975)に中華民国台北ライオンズクラブから寄贈されたもので、青銅鋳造では世界で一番高い孔子像(高さ4.57m)です。

 

 

湯島聖堂の閉館時間16時(冬期)を迎えたところで見学を終え、仰高門の前で記念写真。

皆さん、撮影ご協力有難うございました。

 

この後、再び聖橋を渡って新御茶ノ水駅前で私の務めは終了。

 

皆さんとお別れしました。

 

東京お散歩教室では、お友達グループや小規模な団体様などのお散歩ツアーも承っております。

 

ご興味ある方、いらっしゃいましたら、お気軽にご相談ください。

 

どうぞよろしくお願いいたします。

 

東京お散歩教室

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