twitterが気軽に使える分、まとまった文章を書く機会が無くなった。良くないと思う。
おりにふれて昔自分の書いたものを見返すことがある。1年前のいまごろの日記だとか。大抵は青臭すぎて身の毛さえよだつほどだ。でもそのよだった身の毛から確かな成長の軌跡を見て取れるし、今の自分が忘れてしまっていた価値の重要性にも、多分に気付かされて軌道修正することもある。だからある程度の頻度でまとまった文章は書いておきたい。
先月22歳になった。mixiやらfacebookで誕生日を知った何人かが「おめでとう」と言ってくれた以外は何事もなく、普通に学校に言って、家の近くの定食屋で、いつも通りの豚の生姜焼きを一人で食べた誕生日だった。今まで21回あった誕生日は、何かしら普通の日とは違うことがあって、例えばケーキを食べなかった誕生日は、少なくともここ10年はなかったはずだ。
でも、今年の誕生日が今までのものと違ったのは、ケーキやパーティーの有無だけではないと思っている。ケーキやパーティーが無かったことに対して、特になんとも思わず、晩ごはんにいつもの定食屋を選んだ自分の内面の変化だ。(もちろん、若干寂しかったことは否定しない。)そしてその変化を、自分なりにはポジティブに捉えている。
☆ ☆ ☆
非常に、ありきたりな流れ。就活をはじめた。黒いスーツを買って将来のことを考える。「しあわせってなんでしょう」と考える。グル―プ面接のお題がそれで話し合ったりもするらしい。就活生の友達に「おまえだったらどう答える?」と聞かれた。
多分、自分のしあわせ観はここ数年変わってなくて、奇妙なことにスラスラ答えることができた。スラスラ答えられたということは、多分穴だらけ間違いだらけなんだと思う。だけど同時に、自分がしあわせに関して固まった考えを持っていることが面白かった。それを文章にして未来の自分がみたらどう思うんだろうかと興味が湧いて、今回はそんな彼に向けて書いてみる。22歳ごろの僕はこんな考え方をしていました。
☆ ☆ ☆
幸せを考えるにあたって、一番重要な概念は「期待」だと思う。ただし、一般的に遣われている「期待」よりも広い意味だ。
「息子の将来に期待する」、という大それた期待だけではない。例えば、コンビニでかっぱえびせんのパックを見た時に、その中にお菓子のかっぱえびせんが入っていることを、当然に予測すると思うけど、
そんな当たり前の「予測」も含んだ、ひろーーい意味での「期待」。英語のexpectationに近い概念だと思う。
「しあわせって何ですか」
という新興宗教チックな質問に、誰にでも通じるような一般的な答えを与えろと言われればどうするだろうか。
僕は端的に、幸せとは「自分の期待に、まわりがどれくらい見合っているかの尺度」だと考えている。自分がまわりに対して抱いている期待。かっぱえびせんの袋には当然かっぱえびせんが入っている、という期待。中にハーゲンダッツが入っていればしあわせで、中にうまい棒が入っていれば不幸でしょう。(もちろん うまい棒 < かっぱ < ハーゲン として。)
ガードレールのない歩道を歩いていて、不意に考えることがある。自分と数十センチの距離で、車がどんどん走りぬけてゆく。真横を通り過ぎていく、何十台、何百台という鉄の塊とその運転手たち。その運転手が一人でも、ハンドルの角度を若干変えるだけで轢き殺されてしまうのに、誰一人そうしないだろうと確信して歩き続ける自分。「だれ一人としてハンドルをきって、おれを轢くことはないだろう。」世の中って、よくよく考えればそんな脆い期待によって成り立っているんだなと不思議な感覚を覚える。
あるいは、アマゾンで本を頼めば2、3日待てる。一方ネットでどこかリンクをクリックして、その表示に5分かかるだけでイライラしてくる。アマゾンの配送は2日で来ると期待し、ネットは瞬時に次のリンクに移行することを期待しているからだろう。
要は、人は生活を営むために、あらゆる事柄に対して一定の期待を抱いている。日常の出来事が、その期待のラインを超えれていれば幸せを感じるし、下回っていれば不幸である。
それだけ。
☆ ☆ ☆
とすれば、幸せになるために2つの方向がある。ひとつは、自分の設定した期待のラインを、努力して超える方向。もうひとつは、期待のライン自体を下げてしまう方向。前者は向上心を持って、何事かにチャレンジして達成していくような動的なイメージのしあわせ。後者は道端に咲く花を愛でて幸せを感じるような静的イメージ。
この二つは二者択一ではない。生活にはある程度の刺激が欲しいのが普通だし、逆に刺激だけでは精神の平衡が保てない。要はバランスの問題で、例えば仕事に対しては向上心を持っている人が、毎日白米が食べられることをしあわせと思うことは可能だ。
日常対面することがらは無数にあるけれど、大抵のものは期待を裏切らない。トイレにいけばトイレはあるし、冷蔵庫に入れたものは電源さえ入っていれば冷えている。その中でも日常自分のことを苛立たせるものをピックアップしてみる。それは仕事や学校の勉強かもしれないし、信号待ちの時間かもしれない。
イライラすることは、端的に不幸である。それが自分の期待に見合っていないからイライラする。じゃぁどうすればいいかというと、信号の場合は比較的簡単だ。信号待ちには長い時間がかかることを受け容れること。信号のハードルを下げてあげること。それに応じて自分の時間割を再構成すること。
ただ、仕事や学校の勉強だとそうはいかないかもしれない。目標があって、それが達成されないからといって、安易に目標は下げられない。そこは、妥協せずにストイックな幸せを追求していけばよい。期待に見合う自分をつくること。あるいは、目標を考え直すことも重要な選択肢だろう。医者になろうと拘っていたけれど、うまくいかない。いや、医者になることは本当に自分にとって幸せか?向上心は常に人を幸せにするわけではない。
普通の人の人生は、本業とそれ以外で構成されている。本業は、何も仕事や学校とは限らない。その人が追求したいもの、例えば趣味の絵かもしれない。老子や荘子はどうか知らないけれど、社会のしがらみにまみれている普通の人は、やっぱり何か本業をもって、その失敗や成功に一喜一憂して刺激を得て行かねば幸せにはなれない。そういうものには自らハードルを設定して、それを超えて行くことを繰り返す。
でも、本業以外は、少し期待のラインを下げてあげる。信号が長いくらい、花粉症が治らないくらい、外が寒いくらい、そういうもんだと受け容れていれば、精神的な余裕がでる。本業にも良い影響が出る。
☆ ☆ ☆
と、頭で考えことと、実践することはやっぱり違う。20の頃から考えてとしては持っていたけれど、2年前の当時はしょうもないことに過度な期待を抱いていたと思う。一人暮らしをはじめて、部屋はひとりでに綺麗にならないという事実を受け容れられずに、ひとえに自分のせいで汚れた部屋にキレていた。
そんなダメ男の自分でも、一人暮らしにも慣れてきて、1年間外国で揉まれたりで自律する力がついてきた。まだまだだけど、少なくとも以前よりは。そして、自分なりに目標、つまり本業もやっと固まってきたのかなと思う。
だから、22歳の誕生日は、あれでも問題なくて、成長したんじゃないかなと思った。多分自分は幸せだと思う。最近は来月5日の大学間交渉コンペの準備につきっきりで、単調な毎日だけど。
外だけに刺激を求めていたころの幸せは、その度合いは大きいけど持続性がなくて麻薬みたいな感じだった。内側の安定した幸せを積み上げていくことは、見た目は地味だけど、長期的にはとても大事なように思う。今頃やっとその価値を体感できるようになってきた感じがする。
30歳、40歳の誕生日は何を思いどうすごしているんだろうか。それ以降は気にならない。43歳で死ぬと思ってるから。
そうすれば43歳超えたら生きてるだけで幸せでしょう。
キマった
おりにふれて昔自分の書いたものを見返すことがある。1年前のいまごろの日記だとか。大抵は青臭すぎて身の毛さえよだつほどだ。でもそのよだった身の毛から確かな成長の軌跡を見て取れるし、今の自分が忘れてしまっていた価値の重要性にも、多分に気付かされて軌道修正することもある。だからある程度の頻度でまとまった文章は書いておきたい。
先月22歳になった。mixiやらfacebookで誕生日を知った何人かが「おめでとう」と言ってくれた以外は何事もなく、普通に学校に言って、家の近くの定食屋で、いつも通りの豚の生姜焼きを一人で食べた誕生日だった。今まで21回あった誕生日は、何かしら普通の日とは違うことがあって、例えばケーキを食べなかった誕生日は、少なくともここ10年はなかったはずだ。
でも、今年の誕生日が今までのものと違ったのは、ケーキやパーティーの有無だけではないと思っている。ケーキやパーティーが無かったことに対して、特になんとも思わず、晩ごはんにいつもの定食屋を選んだ自分の内面の変化だ。(もちろん、若干寂しかったことは否定しない。)そしてその変化を、自分なりにはポジティブに捉えている。
☆ ☆ ☆
非常に、ありきたりな流れ。就活をはじめた。黒いスーツを買って将来のことを考える。「しあわせってなんでしょう」と考える。グル―プ面接のお題がそれで話し合ったりもするらしい。就活生の友達に「おまえだったらどう答える?」と聞かれた。
多分、自分のしあわせ観はここ数年変わってなくて、奇妙なことにスラスラ答えることができた。スラスラ答えられたということは、多分穴だらけ間違いだらけなんだと思う。だけど同時に、自分がしあわせに関して固まった考えを持っていることが面白かった。それを文章にして未来の自分がみたらどう思うんだろうかと興味が湧いて、今回はそんな彼に向けて書いてみる。22歳ごろの僕はこんな考え方をしていました。
☆ ☆ ☆
幸せを考えるにあたって、一番重要な概念は「期待」だと思う。ただし、一般的に遣われている「期待」よりも広い意味だ。
「息子の将来に期待する」、という大それた期待だけではない。例えば、コンビニでかっぱえびせんのパックを見た時に、その中にお菓子のかっぱえびせんが入っていることを、当然に予測すると思うけど、
そんな当たり前の「予測」も含んだ、ひろーーい意味での「期待」。英語のexpectationに近い概念だと思う。
「しあわせって何ですか」
という新興宗教チックな質問に、誰にでも通じるような一般的な答えを与えろと言われればどうするだろうか。
僕は端的に、幸せとは「自分の期待に、まわりがどれくらい見合っているかの尺度」だと考えている。自分がまわりに対して抱いている期待。かっぱえびせんの袋には当然かっぱえびせんが入っている、という期待。中にハーゲンダッツが入っていればしあわせで、中にうまい棒が入っていれば不幸でしょう。(もちろん うまい棒 < かっぱ < ハーゲン として。)
ガードレールのない歩道を歩いていて、不意に考えることがある。自分と数十センチの距離で、車がどんどん走りぬけてゆく。真横を通り過ぎていく、何十台、何百台という鉄の塊とその運転手たち。その運転手が一人でも、ハンドルの角度を若干変えるだけで轢き殺されてしまうのに、誰一人そうしないだろうと確信して歩き続ける自分。「だれ一人としてハンドルをきって、おれを轢くことはないだろう。」世の中って、よくよく考えればそんな脆い期待によって成り立っているんだなと不思議な感覚を覚える。
あるいは、アマゾンで本を頼めば2、3日待てる。一方ネットでどこかリンクをクリックして、その表示に5分かかるだけでイライラしてくる。アマゾンの配送は2日で来ると期待し、ネットは瞬時に次のリンクに移行することを期待しているからだろう。
要は、人は生活を営むために、あらゆる事柄に対して一定の期待を抱いている。日常の出来事が、その期待のラインを超えれていれば幸せを感じるし、下回っていれば不幸である。
それだけ。
☆ ☆ ☆
とすれば、幸せになるために2つの方向がある。ひとつは、自分の設定した期待のラインを、努力して超える方向。もうひとつは、期待のライン自体を下げてしまう方向。前者は向上心を持って、何事かにチャレンジして達成していくような動的なイメージのしあわせ。後者は道端に咲く花を愛でて幸せを感じるような静的イメージ。
この二つは二者択一ではない。生活にはある程度の刺激が欲しいのが普通だし、逆に刺激だけでは精神の平衡が保てない。要はバランスの問題で、例えば仕事に対しては向上心を持っている人が、毎日白米が食べられることをしあわせと思うことは可能だ。
日常対面することがらは無数にあるけれど、大抵のものは期待を裏切らない。トイレにいけばトイレはあるし、冷蔵庫に入れたものは電源さえ入っていれば冷えている。その中でも日常自分のことを苛立たせるものをピックアップしてみる。それは仕事や学校の勉強かもしれないし、信号待ちの時間かもしれない。
イライラすることは、端的に不幸である。それが自分の期待に見合っていないからイライラする。じゃぁどうすればいいかというと、信号の場合は比較的簡単だ。信号待ちには長い時間がかかることを受け容れること。信号のハードルを下げてあげること。それに応じて自分の時間割を再構成すること。
ただ、仕事や学校の勉強だとそうはいかないかもしれない。目標があって、それが達成されないからといって、安易に目標は下げられない。そこは、妥協せずにストイックな幸せを追求していけばよい。期待に見合う自分をつくること。あるいは、目標を考え直すことも重要な選択肢だろう。医者になろうと拘っていたけれど、うまくいかない。いや、医者になることは本当に自分にとって幸せか?向上心は常に人を幸せにするわけではない。
普通の人の人生は、本業とそれ以外で構成されている。本業は、何も仕事や学校とは限らない。その人が追求したいもの、例えば趣味の絵かもしれない。老子や荘子はどうか知らないけれど、社会のしがらみにまみれている普通の人は、やっぱり何か本業をもって、その失敗や成功に一喜一憂して刺激を得て行かねば幸せにはなれない。そういうものには自らハードルを設定して、それを超えて行くことを繰り返す。
でも、本業以外は、少し期待のラインを下げてあげる。信号が長いくらい、花粉症が治らないくらい、外が寒いくらい、そういうもんだと受け容れていれば、精神的な余裕がでる。本業にも良い影響が出る。
☆ ☆ ☆
と、頭で考えことと、実践することはやっぱり違う。20の頃から考えてとしては持っていたけれど、2年前の当時はしょうもないことに過度な期待を抱いていたと思う。一人暮らしをはじめて、部屋はひとりでに綺麗にならないという事実を受け容れられずに、ひとえに自分のせいで汚れた部屋にキレていた。
そんなダメ男の自分でも、一人暮らしにも慣れてきて、1年間外国で揉まれたりで自律する力がついてきた。まだまだだけど、少なくとも以前よりは。そして、自分なりに目標、つまり本業もやっと固まってきたのかなと思う。
だから、22歳の誕生日は、あれでも問題なくて、成長したんじゃないかなと思った。多分自分は幸せだと思う。最近は来月5日の大学間交渉コンペの準備につきっきりで、単調な毎日だけど。
外だけに刺激を求めていたころの幸せは、その度合いは大きいけど持続性がなくて麻薬みたいな感じだった。内側の安定した幸せを積み上げていくことは、見た目は地味だけど、長期的にはとても大事なように思う。今頃やっとその価値を体感できるようになってきた感じがする。
30歳、40歳の誕生日は何を思いどうすごしているんだろうか。それ以降は気にならない。43歳で死ぬと思ってるから。
そうすれば43歳超えたら生きてるだけで幸せでしょう。
キマった