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こんにちはマダムサトコです。 本日は父と子の葛藤 、ある意味 真剣な親子の会話でもある。というお話をしていきたいと思います。

 

本日は 創世記 22章6節から読んでいきましょう。 

アブラハムは全焼のいけにえのために薪を取り、それをその子 イサクに負わせ、人 刀と自分の手に取り、 2人は一緒に進んでいった。

 

 

このシーンも非常に多くの伏線を含んでいます。 このチャンネルでは 伏線はすぐにネタバレするというのが コンセプトですので、 ここで一つ一つまた ご紹介したいと思います。

 

まず全焼の生贄というのが 何かと言いますと、人間と神様の間に人間の罪を代わりにおった 小羊 もしくは 子牛を全焼 にして捧げる、という儀式がありました。子羊や仔牛に罪を負わせるというのはこの記事を見ていただきたいんですけれども、

 

 

 

 

まあ 言ってみれば 子羊や 子牛を捧げて 盛大なバーベキューパーティーをするというような感じでしょうかね。 

 

ちなみに イタリアなんかは 顕著なんですけれども、 大きな 大司教の所在する大聖堂のある街というのはおしなべて 肉料理 そして 革細工製品が非常に有名なところがほとんどです。 代表的なところで言いますと イタリアのフィレンツェですね。 フィレンツェは鞄工房で有名な町です。 またビステカ フィオレンティーノ という非常に大きな牛 ステーキ が名物料理 なんですけれども、

 

この2つはどちらも大きな 大司教のおられる 大聖堂のあった場所、 つまり多くの犠牲が捧げられてきて、 それらの皮や肉を用いて そのような地場産業 地場 文化が発展した。まあそれはこのアブラハムの時代からかなり後のことではあるんですけれども、 この全焼の生贄というのが まあそのような意味もあったということを簡単にご紹介させていただきました。

 

話を戻しまして、 この薪を取りそれをその子 イサクに追わせとありますけれども、 この自らを捧げる道具を負わせるというのはイエスキリストが十字架を抱えて ゴルゴダの丘を登っていった その姿

 

エルグレコ作

十字架を運ぶイエス

プラド美術館所蔵

 

をここでまた予言しているわけですね。 そして火と刀を自分の手に取り、という箇所ですが

 

この火というのは先ほど出てきた 全焼の生贄のための日ですね。 その当時は 今のように100円ライターでどこでも火を起こせるというわけではなかったので、 火種というものを持ち歩かなくてはいけなかったんですね。 

 

そして刀というのは 前述しました 生贄を屠るための刀、 つまりこ この火と刀というのは父が愛する子を神の名によって 捧げる道具、 それが神の愛するひとり子であるイエスキリストが神の命令によってその命を差し出す、その父もこのイエスの命を差し出して人間の罪を救った。 この辺りが この章で予言されてるわけですね。

 

そして2人は一緒に進んでいったというこの箇所については、 ひとり子を捧げようとする 神、 捧げられる 愛する子 キリスト イエス、 そしてここには書いていないんですけれども その2人を守って 共に進む 聖霊が存在する。つまり ここで 父と子と聖霊の三位一体の姿が表されてるわけですね。

 

この箇所も知らず知らずに読んでたら 「ふーん 焚き火。 ふーん」と呼んでしまうところなんですけれども、 一つ一つ解説して読んでみるとかなり深い意味のある場所だと思います。

 

7節 イサクは父アブラハムに話しかけていった。「お父さん」 すると彼は「何だ イサク」と答えた。 イサクは尋ねた「火とたきぎはありますが、全焼の生贄のための羊は、どこにあるんですか。」

 

 

この箇所も非常に壮大な 伏線ですね。まずこのお父さんと話しかけたという箇所ですけれども、 これはキリスト イエスが十字架にかけられ 「父をどうして私を見放されたのですか 」と十字架の上でこのようにイエスキリストは父である 神に訴えるんですけれども、

 

 

 その姿をここで予言してるわけですね。 次に何だ イサク と答えたとありますけれども、 この時のアブラハムの心境はいかなるものでしたでしょうか。 自分のひとり子を捧げなければならないという非常に大きな心の痛み、 できることならこのシチュエーションでは何も答えたくなかった。 もしくは大いにイサクに返事をしたかったか 私には分かりません。 

 

けれども この時の心の痛みや葛藤、 これが神様が自身の愛するひとり子である キリストイエスを人間の罪のために犠牲にした時の父の心境というものが現れているかと思います。

 

そして イサクは訪ねてますね 「火と 薪はありますが全焼の生贄のための羊はどこにあるんですか」これはやっぱり2つの考え方がありますね。

 

イサクは本当に単純に聞いていた。本当に「礼拝に行くって言ったのに 羊 いないね」と 子供らしい単純な気持ちで聞いていた。

 

そしてもう一つが「なんかおかしいな。 なんで羊も牛もいないんだろう。 なんで俺は薪を背負ってるんだろうか。 もしかして まさか自分が?いやそんなはずはない。 俺はこの父親に十分に愛されてきて大切にされてきた。自分のはずがないと思うんだが..?」 このような葛藤の気持ちで聞いていたかもしれませんね。

 

本日は アブラハムの行動や心境 またイサクの行動や心境を通しながら、キリスト イエスが十字架にかかる時の神 またイエスの心の葛藤というものが読める箇所ですね。

 

ハリウッドだけでなく世界中の国々の映画というのはこのような心のひだを 心の細微に踏み込むような伏線を張って表していくという手法が取られてますけれども、 それはまさにこの聖書の書き方を模写して作っている、 話の構成を組み立てているのかもしれませんね。

 

聖書というのはあらゆることの基礎 あらゆることの知恵袋 それに沿っておけば大丈夫というようなイメージの言葉で 「これをバイブル として行動する」というような言葉にも使われますけれども、 全ての人間の基準 基礎 また 行動規範がこういったところに現れているのかなという気もします。

 

ということで 本日の箇所が面白かった 興味が持てたという方はアメブロでのフォロー、youtubeでの 高評価チャンネル登録 お知り合いへの拡散をよろしくお願いいたします。その他 Twitter や Instagram なども行っておりますので覗いていただけると嬉しいです。

 

それでは今日はここまでです。 ご視聴 誠にありがとうございました。

 

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