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こんにちはマダムサトコです。 本日も イースターにまつわるお話をしていきたいと思います。

 

本日は「十字架にかかるイエスに葛藤はなかったのか」というお話をしたいと思います。

 

聖書を読んだことがない人も「イエスキリストが十字架にかかった」という部分は 皆さん何となく知ってるかと思います。 そして 「罪のないイエスが十字架にかかった」という言葉をどこぞでなんとなく聞いたことがあるんじゃないでしょうか。

 

すると 「ちょっと待って、 何の罪もないのに十字架にかけられるっておかしくない?」と思う人もいらっしゃるかと思います。 なぜ何も 罪のないイエスが十字架にかかったかというお話はこちら

 

 

 

 

の記事で、犠牲の子羊の意味からイエスが十字架にかけられ 命を捧げたことの意味を説明しておりますので、こちらをご覧ください。

 

イエスキリストというのは 人間の形をした神様、という言い方も皆さん どこぞで聞いたことがあると思います。 そうすると 人間として思うのは 「十字架にかけられるのって嫌じゃない? しかも 自分に何の悪いこともないんでしょ? なんかこう、 話聞いててすっきりしないんだよね。 なんかこう 矛盾を感じるんだよね。 もしくは混乱を感じるんだよね。」 という方も多いかと思います。

 

本日はイエスキリストが十字架にかけられる前に人間として 「なぜ 罪のない私が死ななきゃいけないのか」というような 葛藤があったかもしくは 悩みがあったとか、今の時代で言うと「何かしらの圧を受けていた」とかそういうことがあったかどうかを皆さんと一緒に見ていきたいと思います。

 

箇所はマルコの福音書14章33節からです。 イエスは深く 恐れてもだえ始めた。

 

 

 

この箇所は非常に人間的な感情が書いてありますね。 深く恐れ、 そしてその恐れからもらえ始めた 苦しんでいたということですね。

 

 十字架にかかるその苦しみ、 人々の前で公開処刑にされるという 恥、 その当時は自分がかかる十字架を自分が担いで

 


エルグレコ作/十字架を運ぶイエス/ティッセン美術館所蔵

 

 小高い丘の上まで持っていかなければならなかったのでその肉体的な苦しみ、 自分が神様の言葉を伝えるという正しいことをしているのによしとされない この苦しみ、 様々な感情がここにあったかと思います。

 

34節 そして彼らに言われた 「私は悲しみのあまり 死ぬほどです。 ここから離れないで、目を覚ましていなさい。」

 

 

その感情がここに書いてありますね。 私は悲しみのあまり 死ぬほどですと、 この悲しみ という言葉には何が入っていたのか。 神の言葉を伝えても自分が有罪とされる悲しみだったり、 神の言葉を伝えても伝わらない人々だという 諦めだったり。 また自分がもうそこで命が絶たれると知っているからこその 悲しみ。 この悲しいというのも 様々な感情があったと思います。

 

そしてもう一つ 気になるのが「ここを離れないで目を覚ましていなさい」という言葉ですね。 人間の罪を救うために命を差し出す イエスを、 目が覚めていて目が開いていて視力としては 認識していても『見るべきものを見ていない』という状態にはならないように、しっかりと覚醒してそれを見ていなさいという意味だと私は捉えています。

 

35節 それから、 イエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、もし できることならこの時が自分から 過ぎ去るようにと祈り、

 

 

ここにもイエスの苦しみや 葛藤が現れていますね。 私たちも 何か苦しんでいたり悩んでいる時って結構 伏せて悩んだりしませんか。 多くは机に顔を伏せたり、ソファーに座ってクッションなんかに顔をうずめながらアウウと唸ってみたり、 ベッドの中で丸まって布団をかぶって「なんとか この問題が なんとか終わるように」と祈る。こういった私たちの姿とこの35節の姿っていうのは本当に似てるんだなと思います。

 

そして「できることならこの時が自分から 過ぎ去るように」と祈っていますけれども、 これも反語表現ですね。 できることなら、 いやしかし できない。ということです。

 

もうよく知ってるんですね、 これが過ぎ去るわけにはいかないと。自分から 取り去られることはないと。

 

しかしそれでも「できることなら 取り去ってください」と祈る。 人間的な心情がここに書かれています。

 

36節またこう 言われた。「アバ、 父よ。あなたにおできにならないことはありません。 どうぞこの杯を私から取り除けてください。 しかし私の願うことではなく、あなたの御心のままを、なさってください。」 

 

 

ここも非常に人間らしいところですね。「 この嫌なことを何とかしてくださいよ お父さん、 あなたは神様だったら取り除けることできるでしょうがー。

 

でも私はその苦しみを避けたいと思っても避けられないことも知っています。 どうか神様が人間を救うために、私イエスを十字架にかけて 犠牲の子羊とすると決めたのだったらそのようにしてください」 という 祈りですね。

 

人間ではなかなか このようには 祈れません。 言えません。 もし 皆さんが誰かの身代わりとして こういう目に遭うとしたら、私たちは 職場の誰かや兄弟の身代わりに叱られるのだって嫌なのに、十字架にかけられて苦しみを受けながら死ぬのが分かっているのに、十字架に向かう このイエスの心境を イエスの人間的な面を皆さんと共有しました。

 

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それでは今日はここまでです。 ご視聴 誠にありがとうございました。

 

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