NEO・SOPHIA No.5 | 天空の鷹 (URIEL)

天空の鷹 (URIEL)

天と地の和合を祈り、陰と陽の調和を願う・・・。
 
天地に、きゆらかすは、さゆらかす
  神我がも、神こそは、きねきこゆ、きゆらかす
神の御息吹、天のみあらし、地のまくしき、
  きゆらかす・・・

人間の世界では、知っている世界と、知らない世界とが同居している状態にある。

また、目に見える範囲の理解と、目に見えない世界の理解。

或いは、気づいている事と、気づいていない事の違いもあるのがわかるだろう。

 

それらのそれぞれに視点を置いて、初めて知る事もあれば、解らなかった事が、或る時に見えて来たりする場合もある。

何も考えなければ、そのままの状態であり、成長も進化もないままの平行線だ。

 

そこで、我々に必要な、きっかけ というものが現れる・・・。

その きっかけ は、偶然であり、必然でもある。  その きっかけ が現れた時、気づき という状態になる訳であるのだから・・・。

 

                        

 

私は、『論理』 を知るには、先ず、その前に 『道徳』 を知る事が必要だと、以前に言った事がある。

それは、何故か? と言えば、『人間としての在り方』 を先ず知っておく必要性があるからだ。

それを知った上で、『論理』 がどのように必要であるのかが理解出来る様になり、自分と、自分以外の全ての在り方が理解できる様になって来るからだ。

 

仏教の教えなどは、仏様が居るのではなく、救ってくれるのでもない。 むしろ、救いなさい という教えと言えるだろう・・・。 『仏陀(ブッダ)』 というのは、<悟ったもの>という意味であり、それを<教えたもの>である。 つまり、<仏陀> の <教え> = 【仏教】 だからである。

本当の意味で、この 『仏教』 を理解したものは、救う事が出来るであろう。

 

仏教は、教えとしては、とても良いのだが、教えの範囲を越えると、おかしくなる。

これは、仏教に限らない事でもあるが、仏教だから<ありがたい>と思い込んだり、坊さんだから<ありがたい>と思ったりするのは、間違っている。 何が有り難いのか? である。

 

つまり、それを 『気づく』 事、 それを 『知る』 事、 それを 『理解』 する事、が重要であり、そしてどうするか? である・・・。

 

何でもそうであるが、ある程度、解って来ると、それを利用しようとする者が現れたりする。

そして、仏教に似たような新興宗教を立ち上げて、教祖様は、まるで神仏の様に崇められる様になるが、そんな事をする為に教えがある訳ではない。

 

{教え} というものは、偉くなる為のものではなく、自慢するものでもなく、優越感に浸るためのものでもない。

 

また、仏教とはこういうものだ とか、神仏とは、こういうものです などと言っている者も居るが、

そういう事は、一体 誰が決めたのだ?

 

そういう事を言っている自分を鏡で見て貰いたい。 きっと神仏は、こういうだろう。

 

『勝手に決めるな・・・』

 

                   

 

神仏の事は、人間が決める事ではないのだ。  もっとよく目を開いて、物事を見なければならない。

さらに述べれば、理解しているつもりになっている事を知る必要がある。

誤解している事に対しては、気づかなければならない。 そして、その事を知ることが肝要なのだ。

 

SECRET・GATE  『新たなる叡智』