人間の世界では、知っている世界と、知らない世界とが同居している状態にある。
また、目に見える範囲の理解と、目に見えない世界の理解。
或いは、気づいている事と、気づいていない事の違いもあるのがわかるだろう。
それらのそれぞれに視点を置いて、初めて知る事もあれば、解らなかった事が、或る時に見えて来たりする場合もある。
何も考えなければ、そのままの状態であり、成長も進化もないままの平行線だ。
そこで、我々に必要な、きっかけ というものが現れる・・・。
その きっかけ は、偶然であり、必然でもある。 その きっかけ が現れた時、気づき という状態になる訳であるのだから・・・。
私は、『論理』 を知るには、先ず、その前に 『道徳』 を知る事が必要だと、以前に言った事がある。
それは、何故か? と言えば、『人間としての在り方』 を先ず知っておく必要性があるからだ。
それを知った上で、『論理』 がどのように必要であるのかが理解出来る様になり、自分と、自分以外の全ての在り方が理解できる様になって来るからだ。
仏教の教えなどは、仏様が居るのではなく、救ってくれるのでもない。 むしろ、救いなさい という教えと言えるだろう・・・。 『仏陀(ブッダ)』 というのは、<悟ったもの>という意味であり、それを<教えたもの>である。 つまり、<仏陀> の <教え> = 【仏教】 だからである。
本当の意味で、この 『仏教』 を理解したものは、救う事が出来るであろう。
仏教は、教えとしては、とても良いのだが、教えの範囲を越えると、おかしくなる。
これは、仏教に限らない事でもあるが、仏教だから<ありがたい>と思い込んだり、坊さんだから<ありがたい>と思ったりするのは、間違っている。 何が有り難いのか? である。
つまり、それを 『気づく』 事、 それを 『知る』 事、 それを 『理解』 する事、が重要であり、そしてどうするか? である・・・。
何でもそうであるが、ある程度、解って来ると、それを利用しようとする者が現れたりする。
そして、仏教に似たような新興宗教を立ち上げて、教祖様は、まるで神仏の様に崇められる様になるが、そんな事をする為に教えがある訳ではない。
{教え} というものは、偉くなる為のものではなく、自慢するものでもなく、優越感に浸るためのものでもない。
また、仏教とはこういうものだ とか、神仏とは、こういうものです などと言っている者も居るが、
そういう事は、一体 誰が決めたのだ?
そういう事を言っている自分を鏡で見て貰いたい。 きっと神仏は、こういうだろう。
『勝手に決めるな・・・』
神仏の事は、人間が決める事ではないのだ。 もっとよく目を開いて、物事を見なければならない。
さらに述べれば、理解しているつもりになっている事を知る必要がある。
誤解している事に対しては、気づかなければならない。 そして、その事を知ることが肝要なのだ。
SECRET・GATE 『新たなる叡智』