宮本武蔵 (其之壱) | 天空の鷹 (URIEL)

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天と地の和合を祈り、陰と陽の調和を願う・・・。
 
天地に、きゆらかすは、さゆらかす
  神我がも、神こそは、きねきこゆ、きゆらかす
神の御息吹、天のみあらし、地のまくしき、
  きゆらかす・・・

不敗の剣豪・・・ 宮本武蔵。 生涯に60回以上の剣の勝負をし、一度も負ける事が無かったと言われる剣の達人・・・
その武蔵が晩年に残したと言われるのが 「五輪書」。

月の光・・・-1
 ささいなことから 大局を判断せよ・・・

 水を手本とし、心を水のようにせよ・・・


実は武蔵は 「五輪書」 を書く前に別の秘伝書を書いていた。
<兵法三十五箇条> 五輪書の原型になったと言われているものである。 武蔵は何故、この書を書き直さなければならなかったのか?


 息子よ、別の道を行け・・・


武蔵と小次郎の名勝負として知られる巌流島(がんりゅうじま)。

月の光・・・-片岡千恵蔵と月形龍之介
                    (片岡千恵蔵と月形龍之介)

「武蔵の剣は百発百中、対戦相手は逃避することあたわず」 そう書かれた石碑が巌流島に今もある。
慶長5年(1600) 武蔵=17歳 関ヶ原の合戦に参加。 敗れた西軍に味方した為、立身出世できなかった・・・。
関ヶ原の合戦の後、武蔵は数々の剣豪と対戦した。
慶長17年(1612) 武蔵=29歳 巌流島で佐々木小次郎と対決。 武蔵は細川藩に迎えられることなく巌流島を去った。

慶長19年(1614) 武蔵は大阪の陣に参加する。徳川方として出陣。 大阪夏の陣で豊臣家滅亡。 武蔵に目立った報償はない。 月の光・・・-2

徳川家康は 「元和」という理念を唱えた。 つまり、平和の始まりを意味し、武器を置く事を唱えたという事である。 そうして世の中が平和になる流れの中に武蔵は活動の場を失って行くことになる。
武蔵は仕官の為に各国の大名を訪ね始める・・・。

大名家をまわっては御前試合を繰り返した・・・。世の中が平和になり、道を失った武士たちが巷に溢れかえる時代である。 武蔵の噂が将軍家に届き、江戸に招かれる。
しかし、当時の将軍家では柳生が剣術指南役を務めていた。 武蔵が招かれた本当の理由は、将軍家によって飼いならす意図があったのだ。 それを感じた武蔵は「柳生の下になるくらいなら仕官を御免こうむりたてまつる、」と申告した。或いは大名家にわざと三千石という高い要求をしてみせた。

月の光・・・-3
40歳の頃、武蔵は養子をとり 「伊織」 と名付けた。 武蔵は幼少の頃は父=無二斎から剣の教えを受けていたが結局出世の役には立たなかった事から伊織には学問を学ばせる事を考えたのであった。自分は変えられないが、時代が変わっていた影響もある。
伊織は小笠原家の家臣となり、順調に出世して行く。

寛永14年(1637) 武蔵=54歳。 島原の乱の鎮圧軍に参加する。
寛永17年(1640) 武蔵=57歳。 熊本の細川藩に召し抱えられる。 細川藩での武蔵は主君忠利の剣術指南や政治談議の相手をつとめる。 また書画にも才能を示していた。

「自分は兵法の道理にしたがって、それを諸芸の手本としているので、万事に渡って師匠は要らない、」

武蔵は主君細川忠利から兵法書を書いて欲しいと頼まれる。


               <兵法三十五箇条> つづく・・・