元城下町溝延。その発展を支え、歴史を育んできたのが溝延城ですが、今は住宅地が広がっており残念ながらその遺構をほとんど感じることができなくなってしまいました。平城の宿命ではありますが、そんな溝延の魂と歴史の原点になった溝延城とは、一体どのような形の城だったのでしょうか。

 

 

溝延城の構造

溝延城は、鎌倉幕府の政所初代別当 大江広元の後裔、寒河江城主大江時茂の嫡男茂信によって1350年頃に築かれ、南北朝時代から戦国時代末期までの230年から40年の長い間存在していました。

溝延地区内本丸(現在の溝延城址公園付近)を中心に築かれた平城で、三の丸まで構成された規模的にはけっこう大きなお城でした。溝延地区がほぼ堀に囲まれるくらいの大きさだったようです。



溝延古城復元図(清野家蔵古絵図)

 

本丸の規模は東西145m・南北160m、二の丸は東西312m・南北300mでほぼ方形をなしていました。

三の丸の堀跡は、北側は柏川沿いにあり、南側は残念ながら明確な跡づけが出来ていません。

二の丸・三の丸の南西角、同じく三の丸北西角には土塁跡が認められ、本丸北東にも戦後まで土塁跡があったようです。

一の堀は堀幅20m前後と広いが直線的で、二の堀・三の堀は折りを附したり食い違いを施された構造になっています。

 

溝延城が構築された当初は、本丸だけの単郭式方形館だったと考えられていますので、時代の流れとともに城郭を強化し、少しづつ拡大していったのでしょうか。

 

7代続いた(安中坊系図)国人溝延氏の繁栄がうかがえます。

 

 

(名所旧跡 溝延城址公園 ※本丸に位置します)

 

※二の丸土塁跡は溝延八幡神社の東側鳥居を抜け八幡小路に出るとすぐ左手に見えます。

 


 (二の丸土塁跡 南側から撮影)

 

(二の丸土塁跡 東側から撮影)

 

「夏草や兵達(つわものども)が夢のあと・・・」 

城の遺構を見て回っていると、時代を必死に生き抜いた先人達の想いや儚さを感じます。ロマンありますね。。。

 

 

溝延散策に役立つカモビックリマークmachi歩きMAP(参考)』爆弾

 

道の駅寒河江チェリーランド レンタルサイクル⇒レンタサイクル:寒河江市観光物産協会 (sagae-kanko.com)
 ※溝延へは寒河江川沿い下流へ片道10分程度の道のりです。サイクリングロードをご使用ください。

 

 

 ≪交通アクセス≫

高速道路   山形自動車道 寒河江ICより 10分程度

       東北中央自動車道 東根ICより 8分程度

                天童ICより 15分程度

 

おいしい山形空港(東京・大阪・名古屋・札幌線)

                                              車で10分程度

 

最寄り駅    左沢線 寒河江駅 車で10分程度

        山形新幹線(奥羽本線)

        さくらんぼ東根駅/天童駅 車で20分程度

 

バスストップ 仙台⇔寒河江線 寒河江高速バスストップ

                                                          車で10分程度

 

河北町路線バス 南部線 ※本丸城址公園方面散策

             「城址公園」バス停下車

            ※二の丸八幡神社方面散策

             「溝延南口」バス停下車

                         

『寒河江市史 上巻』

『山形県中世城館跡調査報告書(村山地区)』

 

 

 

 

 

行きたくなる近くの名店☆