溝延城址公園、ここに「芸国太守溝延長老」と刻まれた慰霊碑があります。溝延の歴史の1ページを飾った溝延長老(コウエンチョウロウ)の慰霊碑のようです。


溝延城址公園内 溝延長老慰霊碑

 

 南北朝の内乱が終息し室町時代に入ると、寒河江氏は庄内と結び、白岩(寒河江市白岩)の防備を固めるようになりました。溝延四代城主 溝延(大江)教広の弟満教が白岩に入って強化したようです。溝延は時代の移り変わりとともに戦略的な重要性が薄れ、溝延には五代 溝延(大江)孝満を城主とし、城代安孫子紀伊が実権を持って采配を振るうようになりました。

 

 溝延長老縁起によると、溝延城代安孫子俊春の長男春時は若くして城代を弟春明に譲り、医王山南上院(現南泉寺)で出家して慈恩寺に帰依したとあります。彼こそが溝延長老で、溝延の発展と繫栄を陰で支えたカリスマだったのでしょう、村人はそんな春時を尊び敬っていたようです。

 

溝延長老は造山(現河北町造山)に居を構え、「溝延長老記(こうえんちょうろうき)」によると長老は、牛山、虎山という二つの山を築き、山の頂きを掘り、黄金の鶏雌雄二羽のほか、砂金壱千盃を奉納、一方の山には大日如来を祀り、更に二つの山をつなぐ太鼓橋を架けたそうです(天正年間(1573~1592)の頃)。そして、溝延地区はもちろん造山地区・畑中地区(溝延領)の開拓、発展にも大きく貢献しました。



造山の牛山と虎山 (河北町大字造山地内)

※今は大日如来が祀られている一つの山のみが現存します。造山の名前の由来にもなりました。

 

「牛」と「虎」は、丑寅=北東の鬼門の方向を意味しますが、溝延長老は郷土の繫栄を願い、造山にこの二つの山を築いたのでしょう。鬼門鎮守として築いたのでしょうか。

 

時は流れ、山形で勢力を拡大する最上義光に、ついに寒河江大江氏も滅ぼされ溝延城もその運命を共にすることになります。長老は慈恩寺の聞持院に移り隠住しますが、後に義光の詮議に遭い、天正18年(1590)慈恩寺にある最上院の境内で切腹し、その生涯を終えるのでした。

 

長老の墓は国史跡指定「慈恩寺」のほど近く(寒河江市慈恩寺字上の寺  聞持院跡付近)に設けられ、今も時代の変遷を見守りつづけています。



慈恩寺字上の寺 溝延長老の墓 道標 

※道標右側にある畑の小道をまっすぐ奥に50mほど進むと溝延長老の墓があります。


溝延長老の墓 

 

溝延城址公園内の墓碑は、溝延長老の慰霊のために建てられたもので、明治12年に村の有志によって再建されたものです。最初に建立されたのは明和9年(1772)で、五輪塔と、今も墓碑の前に建つ燈籠2基がその当時から残っています。

 

人は皆、時代のさざ波に翻弄されながら生きていくものですが、長老もまたその一人だったのかもしれないですね。郷土を愛し、支えたカリスマ長老の軌跡、これからも大切にしていきたいですね。

 


溝延長老の墓付近からの眺め 

東に広がる景色には真正面に溝延がくっきりと見え、今も静かに見守り続けています。。

 

※慈恩寺にある溝延長老の墓所は、慈恩寺観光パンフレットにも載っています。もしわからない場合は慈恩寺の方に聞いてみてはいかがでしょうか。

また、溝延山 南泉寺の本堂内には、溝延長老の像がお祀りされています。お姿を拝見できる唯一のスポットです。

 

本山 慈恩寺HP⇒http://www.honzan-jionji.jp/

 

溝延山 南泉寺(溝延のお寺巡り)⇒https://ameblo.jp/mz-fun/entry-12023283137.html

 

道の駅寒河江チェリーランド レンタルサイクル⇒レンタサイクル:寒河江市観光物産協会 (sagae-kanko.com)

 

「溝延長老墓誌」
「河北町の歴史」

「河北町観光協会HP」

「河北町町報」記事 参照

 

≪交通アクセス≫

 河北町路線バス 南部線 ※溝延城址公園

                                       「城址公園」バス停下車

                                      ※溝延山 南泉寺

                                     「研修センター」バス停下車

 山交バス 山形駅/寒河江駅行き/河北病院行き

             ※牛山虎山

             「造山」バス停下車