今日はエッセイです。

キリスト教の牧師である沼田さんが感じたあれこれです。

聖職者としてみてしまう牧師。それは学校の先生とかもそうですが、その職業以前に1人の人間でもあります。


だからこそイメージの聖職者として生きることはとても難しい。自分の葛藤や喜怒哀楽がそこに生じ、あるべき自分との乖離に苦労することになるからです。


もちろん宗教者としてそれは生き様であり、ある種の修行のようなものでもあるのかもしれません。


この本では1人の社会に生きる人、1人の未熟な人として、出会う人たちとのことや考えたことを描いています。


彼の前著は閉鎖病棟に入院したときのものでした。

教会が運営する幼稚園の園長業務が多忙を極め、心身ともに限界を迎えたとき、妻から病院に行こうと勧められたのでした。


そこで精神科医との対話を通じて、自身を見つめ直すことになります。


そのあたりのことは今回のこの著書にも書かれています。

入院した際主治医は「これまで大変ご苦労なさったのですね。ほんとに頑張ってこられたのですね」とは言いませんでした。

いかにも言いそうなセリフですけど笑


主治医は彼にこうなったのもすべてあなたのこれまでのことの積み重ねで、逃げて逃げた結果であることを現実として突きつけます。

彼が癇癪を起こして、周りがうんざりすることで仕方なくその通りに動いてくれるということをこれまで繰り返してきたのだと。


入院中に自省することや自身の適切な見方を理解し、退院します。


退院後、配属された教会にもいろんな人が来ます。牧師なんだからとどこか期待して近づく人のなかには、こちらが受け入れがたい人もいます。

距離感が適切に取れない人や、詰め方がとても極端な人もいます。


そこに拒否感をもち、拒絶することもします。

でも一方で思うのです。こういう人にこそ、本来キリスト教が寄り添う人なのではないかと。



このあたりの難しいひとたちへの関わりは、私も日常仕事でのかかわりで嫌というほど考えてるからか、自分の話のように読んでいました。

ただ私と彼が違うのは、彼は職住が一緒であることです。

私のように職場を出たらオフになれるわけじゃないところが大きな職業人としての違いでしょう。


それはとてもキツイだろうなぁとおもうのです。

ただでさえ職場を出てもケースのことを考えることはわりとよくあるのに、オフの時間帯に当事者がプライベート空間に来るわけですから、それも24時間いつ来るかもわからず。


誰かが誰かを支える仕事の本音と同時に、それによって自身が磨かれてる部分にも気づき、しんどいけどなにができるかを希望のもとに見出したいと思う読後でした。


キリスト教の視点からの記述が、決して一般の人との壁にならぬように、視点の一つとして描かれてるのも読みやすかったです。


この本とご縁のある方がいることを望みます。




〈Amazonより〉

「並外れた悩む力を持っている牧師だからこそ、 人の悩みを受け止められるのかも。 」
──帯文・末井昭

ネットで誰もが石を投げあい、誰もが傷つけあう時代に、牧師の祈りはいのちとつながっている。
かつて精神を病み、閉鎖病棟での生活も経験した牧師。何度もキリストにつまずき、何度もキリストと繋がってきた牧師が営む街のちいさな教会は、社会の周辺で生きる困難な事情を抱えた人たちとの出遭いの場でもある。宿を求めて夜の街で男をラブホにさそう少女、大人たちから裏切られ続け人を信用できなくなった青年、完治が難しい疾病で苦しむ患者、「いまから死にます」と深夜に電話をかけてくる人……。本気で救いを必要とする人びとと対話を重ねてきた牧師が語る、人と神との出遭いなおしの物語。

「本書のなかで、わたしは自分が遭遇し、巻き込まれてしまったイエス・キリストの話を語っていくだろう。それはキリスト教についての神学的な叙述にはならない。なぜなら、わたしがこれから話すことは、そのほとんどすべてが、目の前に現れた他人たちとの出遭いについてだからである。わたしにとって神について語ることはすなわち、目の前の人と出遭い、そこで生じた共感や対立、相互理解の深まりや訣別、その喜びや怒り、悲しみなどの、生々しい出来事を語ることだからである。」(まえがきより)


前著はこちら


こちらはaudibleにも入っています



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4月に長編だそうです。

楽しみすぎます