5月24日東京 東部星野文昭さんを取り戻す会 | ミュウタントのブログ

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 雨模様の日曜日、午後1時から星野文昭さんを取り戻す会の総会が、葛飾区で開かれた。閉会時までには雨も上がって、いい天気になっていたが。
 再審請求弁護団の山本志都弁護士に来ていただいて、奥深山さんの免訴請求に関する山上皓鑑定人(裁判官の職権で採用)の鑑定が以下に杜撰なものであったか、精神科医として患者に接する態度、言葉遣い、方法論、鑑定結果提出までのタイムラグなどいかに杜撰であったかを明らかにしたことが説明されました。
 もう公判に絶えられない、心神耗弱状態であり、これは免訴適当という判断をはじめから否定するような質問を奥深山さんに浴びせていたことが明らかになっています。これが、医者のやることでしょうか。山上皓という人の権威がどんなにあろうとも、医者としてやってはいけないことをやった医師失格の人です。
 星野文昭さんの第一次再審請求は、東京高裁によって退けられ、特別抗告は最高裁のとんでもない作文によって却下されたのが、昨年の7月14日でした。 事件当日(1971.11.14)に渋谷に向かっていた中野方面からのデモ隊を指揮していたのが、星野さんでした。沖縄返還協定の欺瞞性を世に訴えるために渋谷に各地からデモ隊が集結しようとしていました。集まってきたデモ隊が、悉く機動隊の阻止線を破ることができなかった中、星野さんが率いるデモ隊は、渋谷に唯一突入できたデモ隊でした。
 そのなかで起きた巡査殴打焼殺事件。デモに参加した多くの学生労働者が検挙されていく中で、星野さんはこのとき検挙されずにすんでいました。
 星野さんが渋谷事件の殺人罪で指名手配を受けたのが、年が明けてからの2月21日でした。不当にも逮捕されたのが、75年の8月6日でした。
 第一審は懲役20年、二審が一審判決が破棄され、無期懲役、最高裁は高裁判決を支持し上告を棄却したのが、1987年7月17日でした。
 その逮捕有罪の根拠となったのが6人の目撃証言でしたが、5人は公判廷において、すべて取調べ中に書かれたことで、自白ではないことを証言したもしくは証言を翻したのですが、Kさんはなぜか証言を拒否したので、『後姿であったけれど犯人=殴打していた人間が着ていた服装=きつね色の背広上下』の供述証拠を採用し、共犯者供述として事実認定の柱としていたのです。
 これが、検察側が公判を維持するためにでっち上げたことだったことが再審請求していく中で明らかにされました。『警視庁公安部の総括捜査報告書は、デモ隊の指揮者が『薄青っぽい背広』を着ていたと明記していたことを新証拠として提出されたのです。
 これに追い詰められた最高裁は、あろうことか『薄青色の上着』であったことを認めたにも拘らず、色に関しては記憶違いがあったとしても殴打していたという供述は信用できるとして再審請求を棄却したのでした。
 逮捕監禁、起訴有罪の根拠としてきた服装の「色」、それを事実認定の柱にしてきていたにも拘らず、ここであっさりと色は捨て、記憶違いであったとした最高裁のでたらめさを、第二次請求では追及していかなければなりません。
有罪だということをひっくり返すだけの新証拠を突きつけられて、権力の慌てぶりが手に取るように分かります。
 私達は星野さんの無罪を信じて30数年闘ってきましたが、これで終わったわけではありません。33年間不屈の戦いを貫いてきた星野さんの声に応えるためにも、この再審請求に勝ち、無罪を勝ち取るために新たな取り組みがなされること、青年労働者が次々と星野さんに続けと声を上げてきていること、その勢いも借りて、私達の訴え、『真実は唯一つしかなく、正しさは我々の側にある』ことを確認しました。
 会則の新たな提起と人間が人間らしく生きられる社会を実現するためにもこの再審請求の勝利を確信し、星野さんを取り戻すことが確認されて散会しました。