北方領土、なぜ千島列島全部じゃないんだろう | ミュウタントのブログ

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 北方領土日本政府は、知床半島に近い4島を日本固有の領土だと方針転換してきた。

  サンフランシスコ条約にソビエトが、アメリカ自由主義陣営に日本が加わって独立をしようとしていたことを嫌って、サンフランシスコ条約に
参加しなかったから今に北方領土問題が残ったと解説していたテレビがあった。

 事実は、日本がサンフランシスコで単独講和条約を締結することを選んだからです。あの時国会で参議院議員だった南原(元東大総長)に向かって吉田茂首相は、曲学阿世の徒と罵声を浴びせています。

 

 サンフランシスコ講和条約(日本国との平和条約)
第二章 領域 第二条(c) (和訳原文)

日本国は、千島列島並びに日本国が千九百五年九月五日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。


日本はこの条約でソ連の調印のないまま千島列島を放棄したのです。条約では千島列島の範囲は明確になっていませんが、国会議事録によると、政府は、日本が放棄した千島列島に国後・択捉が含まれると説明しています。また平和条約は、放棄した千島列島に国後・択捉が含まれるとの認識のもと、国会承認されています。
 後でまずいと思ったのでしょう、この説明は国内的に1956年2月に正式に取り消され、その後、日本は「北方領土は日本固有の領土であるので、日本が放棄した千島には含まれていない」として今日に至っています。
 参加させなかったのに、ソビエトがサンフランシスコ条約に参加しなかったからというテレビ朝日、学べるニュースショーの解説は間違っています。参加させなかったのですから、訂正すべきです。

 

 昭和26(1951)年9月8日、サンフランシスコ会議(9月4日-8日)の最終日に、日本と、ソ連・支那・インド等を除く旧連合国48ヶ国との間に調印された講和条約。正式には「日本国との平和条約」(対日平和条約)だが、調印された都市の名を採って、「サンフランシスコ平和条約」と通称されています。この条約は、ソ連・支那・インドと言った諸国の反対を無視する形で、米英だけで草案を作成し、会議も討議も一切認めない議事規則で強行。調印の翌年、昭和27(1952)年4月28日に発効した。本条約の最大の特徴は、日本の個別的・集団的自衛権を承認し、日本の再軍備と外国軍隊の駐留継続を許容した点で、日本の再軍備は「自衛隊」(警察予備隊→保安隊→自衛隊)、集団的自衛権と外国軍隊駐留継続は、本条約調印同日に調印された「日米安保条約」として具現化しています。吉田茂首相の思惑は昭和天皇の二重外交によって無残にも切り崩されてしまっていました。屈辱的な日米安全保障条約によって、沖縄はまだ米軍の占領下にあると行っても過言ではありません。
 又、沖縄・小笠原諸島におけるアメリカの施政権継続も謳(うた)われており、多分にアメリカの極東戦略が色濃く反映された条約だったと言えます。(小笠原諸島・沖縄諸島の返還はありましたが、沖縄返還をめぐる裏協定があったことが米国の公文書、また北海道新聞のスクープで当時のアメリカ局長が、その存在を認めていましたが、日本政府はいまだに「そのようなものは存在しなかったと聞いております」と否定し続けています。)

 しかもこの条約の後、日米安保条約の締結を呑まされた。植民地的な方向で、米軍基地のほぼ永久使用を認めたような条約であった。今もその条約は新安保条約として生きている。

日本はいまだにソ連という国家を受け継いだロシアと平和条約を締結していません。このことが一番北方領土返還に大きく響いています。また千島列島全域が日本領だとなぜ主張しないのか不思議である。

 樺太南部と千島列島は交換したのではなかったでしょうか。