百済 ( BC.18~AD.660年)
十済(シプチェ)という小国が母体
高句麗と同じ扶余族の国家
始祖:温祚王(オンジョ) 在位…BC18~AD28
郁里河(ウンニハ)…現在の漢江…の上流に、王都として
南慰礼城(ナムイレソン)を定めた
十済は馬韓に属していたが、次第に大きくなって伯済(ペクチュ)と改名
341年
高句麗や※辰韓とともに帯方郡を滅ぼす
※辰韓…後の新羅と重なる場所にあった
馬韓は、国の中心的存在であった伯済が他の小国と連合して建てた
百済国によって滅んだ
371年
第13代・近肖古王(クンチョゴワン) 在位…346~375年(29年間)
が王都を漢山城(ハンサンソン)に移し
高句麗の平壌城を攻め滅ぼす
この時、故国原王(コググオンワン)…サユ王 が殺されたことで、
高句麗と百済の覇権争いは滅亡の日まで続いた
この戦いで、百済の存在が大きくなり、
近肖古王は東晋から 『鎮東将軍領 樂浪太守』に封じられた
近肖古王時代、百済の領土は最大、国際的地位も向上
392年(近肖古が逝去して…17年後)
高句麗の廣開土王(太王四神記・タムドク)に攻められ、
漢江以北の領地は奪われた
高句麗の攻撃はその後も続き
第17代阿莘王(アシン)…倭国に太子を送って、友好関係を結ぶ
第21代蓋鹵王…ライバル・新羅にまで救援を求める
第22代文周王(ムンジュ) 熊津(現:公州 コンジュ)に遷都
第25代武寧王(ムリョン)の時代、高句麗をしばしば破るほど国力を回復
武寧王は百済人に勇気を与え士気を高めた優れた王だった
1971年 偶然発見された公州の武寧王陵の素晴らしい遺物で分かる
その後、高句麗に圧され、更に西に下がっていき
529年
泗沘(サビ) 現在の忠清南道 扶余に遷都
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