空海とその転機について説明しなさい。
空海の転機について述べるにはまず、伝記を確かめるのが先決である。
弘法大師空海の伝記として、最も信憑性のあるものとして、『御遺告』がある。
1、住山の弟子等に遺告す 承和元年(834)十一月十五日(六十一才)
2、諸の弟子等に遺告す 承和二年(835)三月十五日(六十二才)
3、真然大徳等に遺告す 承和二年(835)三月十五日(六十二才)
4、諸弟子等に遺告す 承和二年(835)三月十五日(六十二才)
『御遺告』には、右記四種類があり、いずれも空海自身が書いたもの、あるいは側近の弟子に空海が口述して書かせたものである。また、各々冒頭に略伝が空海により記載されている。
他にも『御手印縁起』高野山の登記簿。『三教指帰』二十四才の時に自身の青年求道の頃の煩悶や思索を文学的に記したもの。『精霊集』・『高野雑筆集』・『拾遺集』空海の撰文・随感・随想・消息等の集録。『御請来録』空海が三十一才で入唐して、恵果和上より密教の一切即ち経典儀軌やその他の法宝物等を受けて三十三才の秋に帰朝し、その受法請来の模様や教義の概要及びその経等一切の目録を朝廷に上奏した書状。等がある。
まず、『御遺告』(1)を読んだ後に、テキストである『即身成仏義を読む』(2)ならびに『入定留身』(3)を読み進め弘法大師空海の転機に関し探っていきたい。
最初に『御遺告』を読んで自分なりに感じたお大師様の転機部分を記載してみる。
①『三教指帰』三巻を作り、近士と成りて号を無空と称す。(中略)心に観ずるとき、明星口に入り、虚空蔵の光明照らし来りて、菩薩の威を顕はし、仏法の無二を現ず。
②爰に大師石渕贈僧正、召し率いて和泉の国槇尾の山寺に発向し、此に於て髻髪を剃除して沙弥の十戒・七十二の威儀を授け、名を教海と称し、後に改めて如空と称しき。(中略)一心に祈感するに、夢に人ありて告げて曰く、此に経あり、名字は『大毘盧遮那経』といふ、(中略)此に於て一部緘を解いて普く覧るに、衆情滞ありて憚問する所なし。
③更に発心を作して去んじ延暦二十三年五月十二日を以て入唐す。初めて学習せんが為なり。(中略)爰に吾れ書様を作って大使に替って彼の洲の長に呈す。披き覧て咲を含み、船を開き問を加ふ。(中略)即ち、少僧、上都長安青龍寺の大徳内供奉十禅師恵果大阿闍梨に遇ひて、五智灌頂に沐して胎蔵金剛両部の秘密法を学び、及び『毘盧遮那』『金剛頂経』等二百余巻を読む。並びにもろもろの新訳の経論、唐梵合存せり。
④少僧、大同二年を以て我が本国に帰る。(中略)帝四朝を経て、国家の奉為に壇を建て法を修すること五十一箇度、また神泉薗の池辺にして御願に法を修して雨を祈るに霊験それ明らかなり。
⑤また灌頂を授くる者、蓋し以て員多し。具にこれを注さず。もし灌頂の流を存せる者は、我が身より始まり、秘密真言この時に立つ。夫れ師資相伝し、嫡嫡継来するものなり。(中略)凡そ付法を勘ふるに吾が身に至るまで相伝八代なり。
⑥また去んじ弘仁七年、表して紀伊国の南山を請ひ、殊に入定の処となす。(中略)彼の山の裏の路の辺に女神あり、名づけて丹生津姫命と曰ふ。(中略)冀くは永世に献じて仰信の情を表すと云々。(中略)吾れ去んじ天長九年十一月十二日より深く穀味を厭ひて専ら座禅を好む。みな是れ令法久住の勝計、並びに末世後生の弟子門徒等の為なり。(中略)吾れ入滅せんと擬するは今年三月二十一日寅刻なり。
岡村先生は、右記①②の時期を第一の転機とし、空海における密教との出会いは、一つには山林修行、とりわけ求聞持の体験、いま一つは、「秘門」との衝撃的な出会い、いいかえると真言三摩地の体得、もしくは密教的修行の原点、そして密教経典、最極最妙の法との稀有なる出会いとなるであろうとしている。
三井先生は、①②部分を更に詳細に述べられている。十五才の時に讃岐より「青丹よし、奈良の都は咲く花の匂うが如く今盛りなり」の平城京から遷都の地、長岡に上京する。一七才になるまでの三年間、叔父の阿刀大足の家に寄宿し儒教の修学を続ける。今でいえば高校時代である。一番多感な時期に阿刀家、佐伯家の政府高官の近親者にも恵まれ「貧道幼にして表舅に就いて頗る藻麗を学ぶ」特に詩や文章を研鑽している。十八才の春に大学に入学し、「二九にして愧市に遊聴す。雪蛍の猶怠るに取り拉ぎ、縄錐の勉めざるに怒る」とあるよう寒暖昼夜を問わず勉学に研鑽している。一年後「我が習う所の上古の俗教は眼前にしてすべて利弼なし。真の福田を仏の教えに仰がんには如かじ」と火の燃えるような仏教への志願が心底に動き「軽肥流水を見ては即ち電幻の歎き忽ちに起り、支離懸鶉を視ては因果の悲しみ休せず。眼に触れて我れを勧む。誰れか能く風を係がん」とお世話になった親族父母には申し訳ないがと『聾瞽指帰』を書き、出家求法の道に出る。勤操大徳より授かった「求聞持法」を大峰山、阿波の大竜ヶ嶽、土佐室戸の神明窟・御廚戸、伊予の石鎚山、播磨の国を通り伊豆の修善寺と苦修練行を行い、二十才の時、和泉国槇尾山寺において勤操大徳に就いて出家得度し教海、後間もなく如空とする。その後、大安寺学徒の一人として三論、法相唯識、具舎、成実、律、華厳、法華天台などを学び、二年後の二十二才、延暦十四年四月九日に南都東大寺の戒壇で具足戒を受け名を改めて空海と名乗る。この時、南都六宗では満たされない「求聞持法」による神秘体験をどこに求めるべきかを決し、東大寺大仏殿に籠って大誓願を発し、至上の妙法を示し給えと祈請する。②にある通り『大日経』を見つけるが「弟子空海、性薫我れを勧めて還源を思いと為す。経路未だ知らず。岐に臨みて幾度か泣く。精誠感ありて此の秘文を得たり。文に臨んで心昏うして赤県に尋ねん事を願う」という状況であり、入唐への準備を始めることになる。
岡村先生は第二の機転として、③の恵果との出会いをあげている。私は、入唐前の準備期間も含め、第二の転機としてとらえたい。何故なら長安に入京したのが、八〇四年三十一才の暮れも迫った十二月二十三日、翌年の二月十日に西明寺に移り六月に恵果和上に拝謁し、六月十三日に胎蔵界、七月には金剛界、八月十日に阿闍梨位の灌頂、十二月十五日恵果和上遷化とあり一年弱で全てを伝授、法灯を継承するには、いくら天才でもそれなりの準備期間は必要である。
二十二才から三十一才までの間の入唐準備の結果として、
第一に語学。奈良天平時代には鑑真和上はじめ盛唐の文化が日本に押し寄せています。シナ語、梵文も学べる環境がある。③の「大使に替って彼の洲の長に呈す」にもある様に語学のスペシャリストとなる。
第二に入唐以前の日本に伝来された密教の修得・習得。空海は、『御請来目録』の冒頭で、聖教をはじめとする唐から請来したさまざまな品目を以下の六種に分類している。
1新訳および旧訳の聖教一四二部二四七巻 2梵字で書かれた真言・讃・儀軌など四二部、四四巻 3論書・疏・その他の注釈類三二部、一七〇巻 4曼荼羅・諸尊図、伝法阿闍梨の影像などの図像一〇鋪 5法具九種一八品目 6師恵果阿闍梨から付囑された品一三点。
更に、この内の聖教類を新訳経と旧訳経に分け、
1新訳経
a不空三蔵により訳出されたもの一一八部、一五〇巻
ⅰ「貞元新定釈教目録」に記載されているもの一〇五部、一三五巻
ⅱ「貞元録」に未だ記載されていないもの一三部、一五巻
b般若三蔵他による訳出経九部、七五巻
2旧訳経二四部、九七巻とする。
高木しん元氏の研究によると、空海の請来経は、日本ですでに書写された経との重複がわずか三点しかないことが明かにされている。
空海はどのような知識と方法で請来経の重複を避けることができたのだろうか。空海は経典類を新訳経と旧訳経に二分する。これは、玄肪によると見られる大規模な聖教の請来や光明皇后の写経事業など、奈良期の一切経の収集と書写の基準となった七三〇年に長安崇福寺僧智昇が編集した一切経目録『開元釈教録』二〇巻が基となる。『開元録』に記載されている経を旧訳経とし、『開元録』以降訳出された聖教を新訳経としていること。また、八〇〇年に長安西明寺僧円照が編集した『貞元新定釈教録』を使用し最新の密教経典を把握し既存の請来経との重複を避けたものと推測される。(4)
以上より空海は入唐前の期間に当時の密教を充分に修得・習得していたと思われる。その結果、恵果和上より「我れ先きより汝の来るを知り相待つこと久し。今日相見る太だ好し。太だ好し」「私の報命はまさに尽きなんとするに法を伝える人がいない。速やかに香花を弁じて灌頂壇に入るべし」また、呉殷の書いた『恵果和上の伝記』に「今、日本の沙門空海あり、来って聖教を求む。両部の秘奥、壇儀、印契悉く心に受け瀉瓶の如し(中略)是れ此の六人は我が法灯を伝うるに足る。吾が願い足んぬ」と言わしめたのであろう。凡人には理解しがたい仏のなせる技である。成るべくにして成った必然の世界である。
第三の転機は恵果師僧からのお言葉から始まる。「今此の土の縁尽きぬ、久しく住すること能わず。宜しく此の両部の大曼荼羅三蔵転付の物等を以って早く本郷に帰り海内に流伝すべし、わずかに汝が来れるを見て、命の足らざることを恐れぬ。今や即ち授法の在るあり。経像功畢んぬ。早く郷国に帰りて以って国家に奉り蒼生の福を増せよ。これ即ち仏恩を報じ師徳に報ずるなり。義明供奉は此処にして伝えん、汝はそれ行いて此れを東国に伝えよ。努めよや、努めよや」
結果は④⑤⑥にある通りである。今、ここに私が高野山に居れるのもお大師様のおかげである。
(1)『弘法大師空海全集』 第八巻 筑摩書房 昭和60年9月15日発行
(2)『即身成仏義を読む』岡村圭真著 高野山大学通信教育室 2005年3月1日発行
(3)『入定留身 大師の生涯』三井英光著 法蔵館 昭和56年5月21日発行
(4)奈良期の密教の再検討ー九世紀の展開をふまえてー阿部龍一(奈良仏教と在地社会
岩田書院 2004 編者 根本誠二、サムエルc モース P105~P153)