般若心経秘鍵 設題1「一般大乗で解釈される般若心経」 | 「明海和尚のソマチット大楽護摩」

「明海和尚のソマチット大楽護摩」

ソマチット大楽護摩は、古代ソマチットを敷き詰めた護摩壇
で毎朝4時から2時間かけ護摩を焚きカルマ浄化、種々護摩祈願を行なっている。

 一般大乗仏教で解釈される『般若心経』について述べなさい。

 

 二年以上写経を続けている。写経用紙の最終部分に為○○○○○○○と祈願文があり、その後に年月日と場所と名前を書く。この最終部分は『般若心経』を写経してから書くか、祈願文を書いてから写経するかの二通りがある。

 最初に祈願文を書く場合は、祈願内容を心に留め置き、写経を行いながら、空の三昧に入り阿頼耶識に祈願を落とし込み祈念する。逆の場合は、写経で空の三昧に入りきったところで、祈願文を書き祈念する。両方とも「掲諦掲諦」で始まる真言部分で空三昧の極みとなる。真言はサンスクリット語の音写であり、「往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に全く往ける者よ、さとりよ、幸あれ。」(注1)と訳されるが、「掲諦」自体の漢字の意味を見ると「つまびらかに掲げる」「真理を掲げる」と表音だけでなく、表意文字としても真言が成り立つことがわかる。

 また、写経によっては、二六二文字の各文字の下に蓮華が描かれ『般若心経』の一文字一文字が仏を意味し、書き手は一字一字仏に祈念しながら書き進むことになる。書の已逹になると写経の字を見ると、書いた人の人格、状態、過去の精神遍歴まで見通すことが可能になるという。これは、意味深長なことである。

 読誦に関しては、「神分 抑々理趣三昧、三密修行の處、滅罪生善の砌なれば法味飧受の為に冥衆定めて降臨影向し給ふ覧、然れば則ち外金剛部の金剛天等を始め奉て三界所有の天王天衆、日本国中の鎮守、諸大明神、天照大神、六十餘州大小神祇、殊には丹生、高野両大権現、百二十伴、勧請諸神、当年行役流行神等、乃至自界他方権実二類併しながら威光倍増の為に 般若心経」(注2)とあるように日本古来の地神に対し、『般若心経』を読誦し空を説き神々の威光倍増を図る。

 写経にしても、読誦にしても『般若心経』によりなんらかの効験、効果があることに関しては、多数の人々が昔から伝え述べている。どこにその秘密があるのだろうか。

 経題にある「般若波羅蜜多」の意味を見ると、「般若=人間が真実の生命に目覚めた時に現れる叡智=智慧」「波羅蜜多=完全に到達せること=完成」(注3)とあり『般若心経』の目指し、目標とするところは、この「般若波羅蜜多」にあることがわかる。

 これは、『般若心経』後半の「菩提薩埵は、般若波羅蜜多に依るが故に。心に罣礙なし。罣礙なきが故に、恐怖あることなく、(一切の)顚倒夢想を遠離して涅槃を究竟す。」更には、「三世諸仏も般若波羅蜜多に依るが故に、阿耨多羅三藐三菩提を得たまいり」(注4)とあることからも明らかである。

 では、この「般若波羅蜜多」とはどのような境地なのかを経文を頼りに探っていく。

 通常、経典は「時」「場所」「説法主」「受法者」が詳細に記載される。『般若心経』は、短い経典のため「時」「説法主」「受法者」が以下のように、

 「観自在(有情から観られ、有情を観、そして救う働きが自由自在であり、根源的な叡智を体得した)菩薩(全ての人間は、仏たり得ると確信し、悟りを求めて努力する者、即ち求道者)が、深遠な般若波羅蜜多を行じている時、舎利子(釈尊の弟子で智慧第一と言われる)よ、」と簡単に「説法者=観自在菩薩」「時=深遠な般若波羅蜜多を行じている時」「受法者=舎利子」と場所以外が述べられる。

 またこの部分で般若波羅蜜多は行じる(お釈迦様の事例に準ずると、深い瞑想に入ること)ことにより得られる境地であり、この後の文書に「五蘊(色・受・想・行・識)は皆、空なり。一切の苦厄(苦悩と災厄)を取り除く」(注5)と一つの般若波羅蜜多の境地が述べられる。

 つまり、五蘊が空であることを認知することにより、大乗仏教が成り立つ基本の一つである「慈悲」(苦しみを取り除き、幸せを与える)が成立すると、観自在菩薩が般若波羅蜜多を行じ、達成した結論を述べている。 

 もう一つの捉え方として、六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)を行じている時という考えもある。般若波羅蜜多=六波羅蜜の最終地点である智慧波羅蜜ということである。

 次に、舎利子に対し、五蘊が何故空であるのかが説かれていく。

 まず、「色不異空 空不異色」と五蘊のうち色(物質的現象)を取り上げて説明する。「色には実体がないのであり、実体がないからこそ、物質的現象である。実体がないといっても、それは物質的現象を離れてはいない。また、物質的現象は、実体がないことを離れて物質的現象であるのではない。」(注6)これは、諸行無常と物質の相互関係=縁起を説き、空の境地を捉えようとしている。私自身の物質的存在である肉体を観察すると、六十兆の細胞があり、何千万というウイルスと同棲し、新陳代謝により皮膚は二八日周期、心臓は二二日周期、胃腸は五日、長い周期の筋肉、骨でも三ヶ月周期で細胞は入れ替わる。また、体重が日々変化したり、病気になったり、一秒と同じ状況でないことは一目瞭然である。先祖から受け継いだ遺伝子情報、外部からの様々な影響、放射能、汚染物質、遺伝子組換え食品の悪影響、良い面では家族愛、隣人愛に支えられた生活、森林浴、海水浴と自然のパワーを満喫する時、等自分が存在する生活環境で、物質間の影響を多大に受けている。しかし、一秒たりとも同一でないのにも関わらず、私という存在は成立する。(龍樹、天台智顗の説いた即空・空諦、即仮・仮諦の段階)

 またこの関係は、受(感受する感覚)、想(了解する想、表象)、行(意志的形成力)識(眼耳鼻舌身意の六識を認識するする働き、知識)もまた同様であると説く。

 次に「色即是空 空即是色」が説かれる。これは、龍樹、天台智顗の説いた即中・中諦、の段階であり、「色不異空 空不異色」が理論的世界であるのに対し、これは生きた体験として実感の上で確実に掴まれた世界であり、「色不異空 空不異色」とは千里を隔てている境地である。(注7)私が、体験した実感では、圧倒的エネルギーの中で自身が無色透明になり身体がなくなり、樹々、清流、鳥の声、風、雲、太陽の光、等外部環境と自身が同化し、宙を漂う感じである。多分、空の扉に少し触れただけだとは思うが。

 再度、観自在菩薩より舎利子よと声をかけられ、諸法(全ての存在)には空相(空という特性)がある事を説明される。即ち「不生不滅 不垢不浄 不増不減」の六種の不二が説かれる。

 一句目は、全ての実体は空であり実体がないため相関的であり、中論の説く「不滅不生なる縁起」という特性が説かれる、生を離れた滅はなく、滅を離れた生はないとも解釈可能である(=不二)。

 二句目は、同じく汚れを離れた清浄さはなく、清浄さを離れた汚れはない。(=不二)

 三句目は、存在を渾沌たる主客未分の一なる世界とつかむ時には、増すことも、減ることもないととく。(注8)

 この三句の空の特性の故に、五薀(色・受・想・行・識)十二処(六根=眼・耳・鼻・舌・意、六境=色・声・香・味・触・法)十八界(十二処を界とし、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識を加える)全てを否定する。

 次に「無明もなく、また、無明の尽くることもなし。乃至、老も死もなく、老と死の尽くることもなし」と十二因縁(無明↓行↓識↓名色↓六入↓六触↓受↓愛↓取↓有↓生↓老死)も否定する。

 次に釈尊が唱えた四諦=苦(生・老・病・死の四苦+愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦)、集(苦は迷いによる業が集まって原因となっている)、滅(迷いを断ち尽くした永遠な平安な境地が理想である)、道(理想の地に達するには八正道(正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)等を実践すべきである)も否定する。

 釈尊が説いた苦の発生要因、その要因を詳細に分析、看破し、八正道、六波羅蜜による正定、智慧波羅蜜による苦からの対処法を全て否定尽くすのである。

 更に、「智もなく、また、得もなし。得る所なきを以ての故に。」と説く。智は観るもの(能観)の智、得は観られるもの(所観)の智という能所の関係もなく、知られた理法もないが故に。(注9)で否定部分は終了する。

 そして、「菩提薩埵は、般若波羅蜜多に依るが故に。心に罣礙なし。罣礙なきが故に、恐怖あることなく、(一切の)顚倒夢想を遠離して涅槃を究竟す。」及び「三世諸仏も般若波羅蜜多に依るが故に、阿耨多羅三藐三菩提を得たまいり」と肯定に転ずる。

 この「釈尊の教え」の全否定と、「般若波羅蜜多」に依る肯定が、「不生不滅 不垢不浄 不増不減」の六種の不二と、同様の関係なのではないだろうか。つまり、「釈尊の教え」と「般若波羅蜜多」は不二である。釈尊の教えに則った実践と智慧は決して離れるものではなく、そこから湧出する智慧は「一切の苦を除き、真実にして虚ならざるが故に。」となる。

 最後に「ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ スヴァーハー」と真言が唱えられ「般若波羅蜜多」の功徳が賛嘆される。真言は音韻にこそ重要な秘密(宇宙根源の音)があるとされるのであえて原音に近いカタカナ表記とした。

 以上より『般若心経』を写経、読誦することにより得られる効験、功徳は、

 一、五蘊が空であることを認知することにより、大乗仏教が成り立つ基本の一つである「慈悲」(苦しみを取り除き、幸せを与える)が成立する。

 二、「色不異空 空不異色」が理論的世界であるのに対し、「色即是空 空即是色」は、生きた体験として実感の上で確実に掴まれた世界であり、「色不異空 空不異色」とは千里を隔てている境地である。

 三、釈尊の教えに則った実践と智慧は決して離れるものではなく、そこから湧出する智慧は「一切の苦を除き、真実にして虚ならざるが故に。」

 により裏付けられる。またこの三点はまさしく大乗仏教の基本であると考える。

 

(注1、3、4、5、6、7、8、9)『般若心経・金剛般若経』中村元 紀野一義訳 1960年岩波書店発行

(注2)『理趣経法』「一法界ソリヤ法に就く五種別行立、但し自行用」次第 三井英光