テキスト(『仏陀の伝記』)を熟読した上で、伝統的仏伝と大乗仏教的仏伝の異同を指摘し、なぜその違いが出てきたか、何が分岐点になったかを論ぜよ。
伝統的仏伝と大乗仏教的仏伝の違いが明確に出るのは、転法輪への勧請の在り方である。
伝統的仏伝『律大品』での転法輪の勧請は、
「苦労して証得したものを、今説くことはない。愛欲と憎悪に負けているものたちには、このダルマは理解しやすくはないのだから。(中略)このように世尊が思案している間に、心は説法に向かわずに、無気力へと傾いた。」
ここで梵天が現れ世尊に合掌、礼拝してダルマを説くことをお願いする。
世尊は、梵天の要請を知り、衆生への憐れみによって、仏眼によって世間を観察する。衆生には汚れの多少、能力の優劣、容姿の良悪、教化の難易、恐れの有る無し、青蓮・紅蓮・白蓮の池の蓮華の喩えを元に世間を観察する。梵天により転法輪の懇願が3度行われたあとに世尊は、「不死への門は開かれた。耳を持つものたちは信を起こされんことを。わたしは危害を与えると思って、滋味豊かで、精妙なダルマを人々には語らなかったのだ、梵天よ。」と初転法輪を行うことを決意する。
伝統的仏伝では、「心は説法に向かわずに、無気力へと傾いた。」という消極的な言葉が述べられ、勧請に際しては、ヒンズー教の最高神であるブラフマン=梵天が司るという形が取られる。仏教興隆前の状況では他宗教の神が勧請を司るのも致したかない感じもするが、「無気力へと傾いた。」は言葉の力(影響力)を考慮すると禁句ではないだろうか。
大乗仏教的仏伝での勧請の事例を示すと、
『ラリタヴィスタラ』では「私が得た法は甚深、止寂、離染、光浄、不死、無為で、もし私が説いても、他の人はわかってくれない、だから黙っていよう。(中略)ただ、過去仏に奉仕した衆生であれば、この法を聞いて、信じるであろう。(中略)もし梵天を信仰する人々がいて、彼が懇請すれば、私は輪を転じるであろう。」法を説くことに対して、未だ消極的であるが、「過去仏に奉仕した衆生」と過去の因縁を強調すると共に、「彼が懇請すれば」の表現で、諸仏は懇請されなければ説法しないという大乗的解釈がなされるようになる。このあり方が大乗に至る分岐点だと考える。
そして、世尊が説法を決意するに至った要因を、梵天勧請という外部の要請によって説明するのではなく、過去世物語、授記思想にもとづく法輪の授受による法灯の継承という儀礼化に発展させる。『阿闍世王経』に説かれる、「誰か新たに発心した者がいると、魔につけ入る暇を与えず、即座に法輪を転じて教化する」という菩薩、『華手経』に説かれる「発心即転法輪菩薩」を登場させる。『法華経』では、勧請者が十六王子と十方の大梵天であり、その中の十六人目の王子が釈尊であるという転法輪解釈まで出てくる。
『初会金剛頂経』では転法輪を司る菩薩が纔発心転法輪大菩薩となる。世尊大日如来は纔発心転法輪大菩薩の三昧耶より生じた法加持金剛と名づける三昧に入って、一切如来の心真言を唱え金剛輪を出現させる。この金剛輪から無数の如来の身が出現し、一切諸仏の神通力の神変を現じてから、一つになって纔発心転法輪大菩薩の身となる。さらに世尊は一切如来輪金剛という三昧に入り、一切如来の大曼荼羅の三昧耶としての不退転輪を得、その金剛輪を纔発心転法輪大菩薩に対して授ける。すると一切如来たちは、金剛場という金剛名灌頂をこの菩薩に授ける。金剛場は金剛輪を以って一切如来を不退転の境位に安立させる。
転法輪の灌頂のあり方は、初期の「無気力・・・」から「不退転の境位」まで大きく進化する。これが伝統的仏伝と大乗的仏伝の転法輪勧請の違いである。つまり原始仏教から後期密教までの各時点での仏教解釈のあり方の違いである。(注1)
(注1)参考文献 谷川泰教著『ブッダの伝記』 高野山大学通信教育室 2008年発行