仏伝における神と魔の役割・性格について論ぜよ。
仏伝における神と魔という限定したテーマを論ずるのに『サンユッタ・ニカーヤ』(Samyuta-nikaya)というテーマごとに整理された教えの集成がある。
この原始仏教聖典はもっとも古い聖典とされる『スッタニパータ』と並ぶものであると言われている。特に第一集の「詩句をともなった集」がそれにあたる。中村元訳者によれば、「この仏伝を解明することによって、歴史的人物としてのゴータマ・ブッダが、どのような生活をし、どのような思想をもっていたか、ということを、かなりの近似度を以て、じかに知り得ると思う。」と述べている。
神と魔の役割・性格を把握するため各第1章の節題を考察(→以降が私見)する。
第1篇 神々についての集成(注1)
第1章 葦 (第10節の最後の語句が題名となっている。)
第1節 激流 (神)「あなたは激流をどのようにして渡ったのですか?」(尊師)「友よ。私は立ち止まる時に沈み、あがくときに溺れるのです。私は、このように立ち止まることなく、あがくことなしに激流を渡ったのです。」→精進(立ち止まらない)と信心による安心(あがくことのない状態)を説く。
第2節 解脱の道 (神)「あなたは、有情の解脱、解き放たれること、遠ざかり離れる事を知っていますか?」(尊師)「歓喜の愛にもとづく生存が尽き、表象や意識作用も尽きるが故に、感受作用が死滅するが故に、静止がある。」→解脱に至る手段(深い禅定)および解脱の境地(三摩地)を説く。
第3節 死に導かれるさだめ(神)「生命は死に導かれる。寿命は短い。老いに導かれていった者には救いがない。死についてこの恐ろしさに注視して、安楽をもたらす善行をなせ。」(尊師)「安楽をもたらす善行をなせ。ではなく世間の利欲を捨てて、静けさをめざせ。」→老死の苦に対しては、安楽で対処するのではなく、我執を離れた三摩地を目指せ。
第4節 時は過ぎ去る(神)「時は過ぎ去り、昼夜は移り行く。青春の美しさは、次第に捨てて行く。死についてこの恐ろしさに注視して、安楽をもたらす善行をなせ。」(尊師)第3節に同じ。
第5節 どれだけを断つべきか?(神)どれだけを断つべきか?どれだけを捨てるべきか?その上にどれだけを修めるべきか?どれだけの束縛を超えたならば、修行僧は、(激流を渡った者)と呼ばれるのであるか?(尊師)「五つの下位の束縛を断て。五つの上位の束縛を捨てよ。さらに五つの優れた働きを修めよ。五つの執著を超えた修行僧は激流を渡った者と呼ばれる。」→五上分結(色界の貪・無色界の貪・掉挙・慢・無明)、五下分結(欲界における貪・瞋恚・有身見・戒禁取見・疑)を断捨し、貪り、怒り、迷妄、高慢、邪しまな見解という五著から解脱したら阿羅漢果を得られる。
第6節 覚醒している(神)「ものどもが目覚めている時に、幾つが眠っているのであろうか?他のものどもが眠っているときに、幾つがめざめているのであろうか?どれだけによって塵にまみれるのであろうか?どれだけによって清められるのであろうか?」 (尊師)「五つが目覚めている時に、五つが眠っている。五つが眠っている時に五つが目覚めている。五つによってひとは塵にまみれる。五つによってひとは清められる。」→五根=信・精進・念(憶念)・定・慧、五蘊=欲望・嫌悪・気のめいり・心のざわつき・真理に対する疑い、と正反対の内容を対比させ悟りの道を説く。
第7節 知りぬいていない(神)「真理を知り抜いていないので、異教に誘い込まれる人々は、眠っていて、めざめていない。今こそ彼らを覚醒させるべき時である。」(尊師)「真理を知り抜いていて、異教に誘い込まれることのない人々こそ、正しく覚り、正しく知り、平らかでない難路を平らかに歩む。」→正法の大切さを説く。
第8節 いとも迷える 第7節と同じ。「知り抜いて」が、「迷い」に置き換えられている。
第9節 高慢を愛する人 (神)「高慢を愛する人は、この世で心身を制することがない。心を統一しない人には沈黙の行がない。独りで森に住んでいても、ふしだらで怠けているならば、死の領域を超えて彼岸に達することはできないであろう。」(尊師)慢心を去り、よく心を統一し、心うるわしく、あらゆる事柄について解脱していて、独り森に住み、怠ることのない人は、死の領域を超えて、彼岸に渡ることが出来るであろう。」→戒、定、慧による解脱を説く。神、尊師とも否定文、肯定文で解脱を説く。
第10節 森に住んで(神)「森に住み、心静まり、清浄な行者たちは、日に一食を取るだけであるが、その顔色はどうしてあのように明朗なのであるか?」(尊師)「彼らは過ぎ去ったことを思い出して悲しむこともないし、未来のことにあくせくすることもなく、ただ現在のことだけで暮らしている。それだから、顔色が明朗なのである。ところが愚かな人々は、未来のことにあくせくし、過去のことを思い出して悲しみ、そのために、萎れているのである。―刈られた緑の葦のように。」→過去未来に惑わされることなく今に集中して修行に励みなさいと説く。
以下第8章まで第1章と同様に(神)と(尊師)の対句で真理が明かされる。
神の役割、性格であるが、上記の神と尊師のやりとりを見る限り、我々日本人が定義する神(①我国開闢より神武天皇以前までの代に存在した方々②天象・地儀・鳥獣・草木等人に驚異の感を懐かせる物を畏敬していう語③人間以上の威力を備えた霊的存在④天皇⑤人の死後、神社に祀られた霊)とは大分違う。ブッダ自身の内なる神との自問自答のように感じる。神から質問が発せられ、尊師が回答するパターンであり、ブッダの立ち位置の方が高い。ただし、第4章のサトゥッラパ群神では、「或る神が、」「他の或る神が、」と複数の神々が登場し、尊師の教えを受ける。しかし、尊師の回答を導くための質問でありどうしても自問自答の感がする。
更に、文書が紀元前の言葉であり現代人の感性では理解できない表現が多々あるため各文書の真意を見いだすのが困難である。例を、次の悪魔の第1節に中村元訳と谷川泰教訳[ ](注2)で示す。訳者により同じ単語、文でも捉え方が違う。ブッダの対機説法の必要性、難しさがわかる。
第4篇 悪魔についての集成(注3)
第1章
第1節 苦行と祭祀の実行(尊師)悟りを得たばかりで、独り静かに瞑想していた時、「私は、もはや苦行[難行の実践]から解放[開放]された。私が、あのためにならぬ苦行から解放されたのは、善いことだ[よかった]。私が安住[安定]し、心を落ち着けて[念を保って]、さとりを達成したのは、善いことだ。」「人々は苦行によって浄められるのに、その苦行の実行から離れて[捨てて]、清浄に達する道を逸脱して、浄くない人が、みずから浄しと考えている。[おまえは清められてもいないのに、清められたと自ら思いこんでいる。清浄への道から外れているのだ。]」(尊師)不死に達するための苦行なるものは、すべてためにならぬものであると知って、乾いた陸地にのり上げた船の舵や艪のように、全く役に立たぬものである[おまえは矢が的を外れるように私が清浄への道から外れたのだと避難するけれども外れているのはおまえの言う苦行の方だ。不死という的を苦行という矢でいくらねらったところで、当るはずもない。それは船の艪櫂を弓につがえて的をねらうようなものだ]。さとりに至る道、戒めと、精神統一と、智慧とを修めて、わたしは最高の清浄に達した。破壊をもたらす者[夜叉]よ。お前は打ち負かされたのだ。」(悪魔)「尊師は私のことを知っておられるのだ。幸せな方は私のことを知っておられるのだ」と気づいて、打ち萎れ、憂いに沈み、その場で消え失せた。→悪魔は尊師に対し既存概念(解脱するには苦行しかない)で尊師を破壊しようとするが、戒・定・慧の教えで打ち負かされ消え失せる。
以下、要点を記す。
第2節 象→(悪魔)大きな象王(悪形)によっての恐怖 (尊師)輪廻を説く
第3節 きよらかなもの→(悪魔)輪廻による嫌らしい姿による恐怖(尊師)身・口・意の統制を説く。
第4節 わな(1)→(悪魔)悪魔の縛りによる因縁(尊師)因縁からの解脱
第5節 わな(2)第4節と同じ。
第6節 蛇→(悪魔)大きな蛇王の恐怖(尊師)深い禅定
第7節 眠る→(悪魔)まどろみと眠気を指摘する。(尊師)有余を滅した賢者はまどろむ
第8節 歓喜→(悪魔)執著が喜びを生む(尊師)執著がないから憂いがない
第9節 寿命(1)→(悪魔)寿命は長い、死はこない。(尊師)寿命は短い、死は必ず来る
第10節 寿命(2)→(悪魔)人の寿命はめぐり回転する。(尊師)人間の寿命はつきる。小川の水のように。
以下、第3章まで悪魔と尊師のやりとりが続く。
悪魔の役割、性格であるが、通常凡人が思うことは、悪魔=煩悩(心の作用)である。ところがこれらの悪魔は、象王、蛇王、大きな岩石、牡牛、大きな恐ろしい声、バラモン・資産家に憑依、農夫の姿、恐ろしい大音響、煙のような朦朧としたもの、愛執と不快と快楽という悪魔の娘、等様々な姿を見せる。
文章形式は次のようである。尊師が真理を語る→悪魔が考えを読み取り様々な形で出現し邪魔をする→尊師が更に真理を説く→悪魔は「尊師は私のことを知っておられるのだ。幸せな方は私のことを知っておられるのだ」と気づいて、打ち萎れ、憂いに沈み、その場で消え失せる。
神で見られた自問自答(意識重視)よりも、悪魔はより五感に訴えるようになっている。解脱の妨げとなる煩悩は五感(眼耳鼻舌身)と密接に結びついていると考えられる。
神にしても悪魔にしてもその役割は、ブッダの教えをより具体的にわかりやすく説くための喩えだと考える。
(注1)『神々との対話 サンユッタ・ニヤーカⅠ』中村元訳 岩波文庫 1986年発行
(注2)『ブッダの伝記』谷川泰教 高野山大学通信教育室 2008年発行
(注3)『悪魔との対話 サンユッタ・ニヤーカⅡ』中村元訳 岩波文庫 1986年発行