仏伝に見られるブッダの神通力の意味について論ぜよ。
ブッダが説く神通力は、パーリ語大蔵経の長部経典の第二経であるSamannaphalasutta『出家の功徳』、漢訳では『沙門果経』に説かれる。
日本では役行者の神通力が有名であり、通常六神通は下記のように理解されている。
①神足通(機に応じて自在に身を現し、思うままに山海を飛行し得るなどの通力)
②天耳通(普通では聞こえない遠くの音が聞ける)
③他心通(他人の心が読める)
④宿命通(自分の過去世がわかる)
⑤天眼通(衆生の過去世がわかる)
⑥漏尽通(輪廻転生から解脱したと悟る力)
しかし、『出家の功徳』の87節から98節に明示された六神通の内容は以下の通りであり、上記とは解釈が異なる。→以降は持論を記す。
87節 比丘は心が安定し---堅固な不動のものとなると、さまざまな超能力を(神通)に心を傾け、心を向けます。比丘はさまざまな超能力を体験します。すなわち、一から多になり。また多から一になります。あるいは姿を現したり隠したり、塀や城壁や山の向こう側へ障害もなく、まるで空中を行くように通り抜け、あるいはあたかも水中でするように大地にもぐったり浮かびでたり、また、地上を行くように、水の上も割ることなく歩み、また、羽のある鳥のように空中も足を組んで飛び歩き、また、かくも偉大な力をもち、かくも輝かしい威光をそなえた月と太陽に手でさわったりなでたりし、はては梵天の世界にさえ、肉体をもったままで到達します。
88節 87節の神通を熟練した陶工、象牙師、金細工師の例をあげて様々な超能力を体験することを説明する。
→三平等観(仏=自身=衆生)の境地で、密教でいう「阿字輪は万象を貫流する命息なり、我が命息は直ちに天地の万象に通じ我即法界を成づる也。」の三摩地に住した世界だと考える。また、「一から多、多から一」は広観斂観を彷彿とさせる。
89節 心が安定し---堅固な不動のものとなると、比丘は、神のような耳(天耳通)に心を傾け、心を向けます。彼は清浄で、超人的な神の耳によって、神々と人間との声を聞き、また遠近いずれの音も聞く事が出来ます。
90節 89節の神通を大通りの打楽器の音を聞く事を例にあげて清浄で超人的な神の耳によって、神々と人間と双方の声を聞き、また遠近いずれの音をも聞く事ができることを説明する。
→五智の功徳である「大円鏡智(神通力により全ての真実世界を映しだす)」の世界を意味すると考える。90節の具体的な事例により実は、非常にシンプルな神通だとわかる。眼耳鼻舌身の全てにあてはまると考える。
91節 心が安定し---堅固な不動のものとなると、比丘は、(他人の)こころを洞察する知(他心通)に心を傾け、心を向けます。彼は他の存在、他の人々の心を、(自分の)心で洞察して知ります。
情欲に満ちた心を、情欲に満ちた心であると知り、情欲を離れた心を、情欲を離れた心であると知ります。以下同形式で、「憎しみをいだいた⇔憎しみを離れた」「迷いのある⇔迷いを離れた」「集中した心⇔散漫な心」「寛大な心⇔狭い心」「平凡な心⇔無上の心」「安定した心⇔安定してない心」「解脱した心⇔解脱していない心」が説かれる。
92節 91節の神通をよくみががれて曇りのない鏡、あるいは澄んだ水のたらいに自分の顔の様子を映してみて、ほくろがあればほくろがあることを知り、ほくろがなければほくろがないことを知る、を例にあげて他人の心を洞察する知を説明する。
→92節の事例から五智の功徳の「平等性智(公正に映し出す)」と考える。88節の持論でも述べたが、「三平等」と「我即法界」が成立していれば当然の神通だと思う。
93節 心が安定し---堅固な不動のものとなると、比丘は、過去の生存の境涯を想起する知(宿住通)に、心を傾け、心を向けます。彼は過去の生存のさまざまな境涯を想起します。すなわち、一つの生涯、二つ、三つ、四つ、五つ、十、二十、三十、四十、五十、百、千、一万の生涯を想起します。そしてそれは幾多の生成の宇宙期(成刧)、幾多の壊滅の宇宙期(壊刧)、幾多の生成・壊滅をふくむ宇宙観を(通して)想起します。『あのときの生存において、自分の名前はこうであった。家系はこう、階級はこうで、こんな食物を食べ、こんな幸福や不幸を体験し、これこれの年齢まで生きた。そしてその世から消え去り、別の世に生まれ変わり、そこでも同じように、自分はこれこれの名前・家系・階級の者で、こんな食物を食べ、これこれの幸福や不幸を体験し、これこれの年齢まで生きた。そしてその世からいまのこの世に生まれ変わってきたのだ』というように、具体的な映像や、具体的な説明を伴って過去の生存の境涯を想起します。
94節 93節の神通をある人の一日の行動を事例に過去の生存の境涯を想起する知を説明する。
→「如実知自心」そのものである。現代においては遺伝子情報はじめ自身の個々の細胞の中に過去からの情報を持っていることが解明されている。外に求めるのではなく、自分自身を灯明とし、自身の遺伝子からの情報群を知る事が出来れば宿住通は可能である。
95節 心が安定し---堅固な不動のものとなると、比丘は、生命あるものの死と生に関する知(死生通)に心を傾け、心を向けます。彼は清浄で超人的な神の眼によって、生命あるものが、いかに死に、またいかに生まれ変わりつつあるかを見て、生命あるものは(すべて)、その行為に応じて、劣ったものともなり、優れたものともなり、美しいもの、醜いもの、幸福なもの、不幸なものにもなることを知ります。(すなわち)『実に、これらの生命あるものは、身体による悪行、言葉による、心による悪行を身につけ、聖者たちについて悪口を言い、邪悪な考えをいだき、邪悪な考えによる(邪悪な)行為にふける。(ゆえに)肉体が崩壊してその死後、彼らは悪趣・悪道・破滅・地獄(などという苦悩の生存)に再生する。他方また、これこれの者は、身体による善行、言葉による、心による善行を身につけ、聖者たちの悪口をいわず、正しい考えを持ち、正しい考えによる(正しい)行為を行う、(ゆえに)肉体が崩壊してその死後、彼らは善趣・天界(という幸福な生存)に生をうける』と。このように(比丘は)清浄で超人間的な神の眼によって、生命あるものが、いかに死に、また生まれ変わりつつあるかを見て、生命あるものは(すべて)その行為に応じて、劣ったものともなり、優れたものともなり、美しいもの、醜いもの、幸福なもの、不幸なものにもなることを知ります。
96節 95節の神通を、四つ辻の真ん中に家があり、その露台に眼のいい人が立って、人々が家に出入りするのを、あるいは車道や人道を往来するのを、あるいは広場のまんなかに座っているのを見るとします。彼はこう考えます。『あの者たちは家に入っていく。あの者たちは家から出て行く。あの者たちは車道・人道を往来している。あの者たちは四つ辻の真ん中に座っている』と示す。
→「因果応報」「業と輪廻」に関してはブッダが出現する前からのヴェーダにも説かれていることである。しかし、身口意の善悪部分は、三密加持の源流ではないだろうか。96節の例は文面通りとらえると何を意味するかわからないが、「妙観察智(各々の特性を神通により観察する)」を意味していると考える。
97節 心が安定し---堅固な不動のものとなると、比丘は汚れの滅尽に関する知(漏尽通)に心を傾け、心を向けます。彼は、『これが苦しみである』『これが苦しみの原因である』『これが苦しみの消滅である』『これが汚れの消滅に通ずる道である』とあるがままに知ります。このように知り、このように見る人の心は、欲望の汚れからも解放され、生存の汚れからも解放され、無知の汚れからも解放されます。解放された者には『解放され(解脱を得)た』という自覚が生まれる。そして彼は『再生(の可能性)は断たれた。純潔の修行は完遂された。なすべきことはなされ、もはや(再び)この(迷いの)世界に生をうけることはない』と知ります。
98節 97節の神通を、澄んで透明で穏やかな池が山間に横たわっている。その岸辺に立てば、眼のいい人ならば牡蠣や貝殻、砂利や小石、そして魚の群れが泳ぎまわったり止まったりするのを見るでしょう。彼はこう考える。『これは澄んで透明で穏やかな池である。そのなかには牡蠣や貝殻、砂利や小石、そして魚の群れが泳ぎまわったり止まったりしている』と例をあげて汚れの滅尽に関する知を説明する。最後に、「これまた、アジャータサット大王よ、前に述べた果報よりもさらにすぐれてより霊妙な、目に見える沙門の果報であります。大王よ、これよりもさらにすぐれてさらに霊妙な、目に見える沙門の果報はありません」で神通力の説明が終わる。(注1)
→97節は四諦(苦・集・滅・道)を明確に知り実践し解脱すること、すなわちナーディー村での法話「これが戒である、これが三昧である、これが智慧である、戒に充たされて、三昧は大きな効果を持ち、大きな功徳を持ち、三昧に充たされて、智慧は大きな効果を持ち、大きな功徳を持ち、智慧に充たされて、心は正しく漏れ込むもの(漏)から解脱する」(注2)である。98節の例は、濁った水では何も見えないが澄んで透明で穏やかな水であれば全てが見えるという比喩だと思う。密教でいう「円鏡力」であり、「實覺智」でであると考える。
神通力は凡人から遥か遠くにある得体の知れないものではなく、本来から自身に具わる力であることが理解出来る「本来具足薩般若」。また、釈尊の言葉に密教の教え(五智等)をあてはめたが違和感はない。
(注1)『世界の名著1 出家の功徳』長尾雅人訳 中央公論社 1979年発行
(注2)『ブッダの伝記』谷川泰教 高野山大学通信教育室 2008年発行