密教では煩悩をどのように捉えるか、従来の仏教の考え方と対比しながら論じなさい。
密教では煩悩を菩提心の滋養としてとらえる。人間が本能として持っている三毒(貪、瞋、痴)、三大欲は人間としての証であり、これを否定、抑制するのではなく、菩提心の滋養となるよう良い動機(正見)に基づき活用する。良い動機とは慈悲心を持っていること。つまり、有情の苦痛、苦しみを除き、幸せにしなくてはならないという動機で行動することにより煩悩は菩提心の滋養となる。
ただし、上記の成り立つ条件として、十八道次第の最初にでてくる「即ち観ぜよ。吾が身は是れ金剛薩埵の身なるが故に歩歩の足の下に八葉の蓮華開敷せりと」がある。つまり行に入る前の凡夫ではなく、金剛薩埵であることが条件になる(三三平等)。
通常の煩悩に関する理解は、煩悩は百八個あり断除すべきものである。お釈迦様は煩悩の悪魔とたたかい降伏し覚者となった。煩悩が菩提心の滋養となるはずがない。煩悩(無明)をなくすために八正道(正見・正知・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)、十波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧・方便・願・力・智)を実践しなさいと仏陀は説かれた。というのが一般的である。
では、どのようにして煩悩が断除すべきものから菩提心の滋養となるに至ったのかを見ていく。
煩悩に関しては、初期仏教段階で徹底的に考察された。阿羅漢にとり輪廻からの解脱は煩悩の克服が唯一の道だからである。阿羅漢(縁覚)による煩悩論は世親の『阿毘達磨具舎論』、衆賢の『順正理論』に詳しい。以下が煩悩と随煩悩である(注1)。煩悩の語源は「執着する」「汚れる」である。
煩悩→五鈍使(貪・瞋・痴・慢・疑)、五利使(身見・辺見・邪見・見取見・戒禁取見)
随煩悩→小煩悩地法(忿・覆・慳・嫉・悩・害・恨・諂・誑・喬)
→大不善地法(無慚・無愧)
→大煩悩地法(無明・放逸・懈怠・不信・昏沈・掉挙)
→大地法(受・想・思・触・欲・慧・念・作意・勝解・三摩地)
不定地法→(尋・伺・睡眠・悪作・貪・瞋・慢・疑)
世親、衆賢、両者の論法は相違するが、結論として煩悩は果であり、煩悩を生み出す原因は別にあるとし、因である煩悩の本質は随眠であるとする。随眠は微細、二種の随増、随逐、随縛の四種で説明され、これを基本に住・流・漂・合・執の五作用が起きる。この作用が煩悩を生み出し、煩悩により業が作られ、その結果、輪廻の世界が出現すると分析する。煩悩を断除するには、三学の慧による。最終地点は阿羅漢果の灰身滅地であるが、大乗から見れば習気の煩悩が残っていて法無我ではないとされる。
大乗仏教になると煩悩に関し次の三つの論理が出てくる。
1、瑜伽行唯識学派による阿頼耶識への展開→第八識の阿頼耶識を見いだし、その中で虚妄分別の心(依他起性)が虚妄な雑染(遍計所執性)の迷いの姿から清浄(円成実性)の悟りの姿へ煩悩を転換する論理を打ち出す。
2、如来蔵思想の自性清浄心→有情は本来清浄(善)であり、煩悩(悪)は客塵である。菩提心の修練により煩悩の払拭は可能である。煩悩障に加え所知障(菩提に対する障害)も出現する。
3、中観による空の論理→空性は煩悩にもある。中道の論理(不生不滅・不垢不浄・不増不減)と空性により煩悩即菩提を唱える。
密教は、上記論理を果からの教えとし、三業を三密に昇華し、煩悩を三密観、浄三業、被甲護身、四無量心観、五相成身観、等により菩提心の滋養に転化する。顕教により煩悩即菩提の論理はほぼ完成したが、更なる飛躍と実践に結びつけたのが密教の叡智である。
(注1)佐々木現順『煩悩の研究』第1節煩悩の本質 清水弘文堂 昭和50年発行