密教の原理(3) | 「明海和尚のソマチット大楽護摩」

「明海和尚のソマチット大楽護摩」

ソマチット大楽護摩は、古代ソマチットを敷き詰めた護摩壇
で毎朝4時から2時間かけ護摩を焚きカルマ浄化、種々護摩祈願を行なっている。

 

  2章 浄厳和尚の密教実践

  

  2-1 浄厳和尚の戒

 

 浄厳の思想の柱が戒のなかに具体的にあると思われる。浄厳の戒に関する著作である『受法最要』『三昧耶戒印明等秘訣 草本』『妙極堂教誡』『真言行者初心修行作法』の4本に関し原文を意訳しながら内容を把握し考察する。 

 1、『受法最要』42歳(延宝8年1680)撰(38)。三節目に修瑜伽者四威儀用心事として、凡そ真言を修せん者は、先ず外の威儀を修めて、次に内の心垢を浄めよとある。

 1、早起きして顔及び手を洗い浄くせよ。

 2、楊枝で牙歯の熱を除き、穢れを除き、舌の上の穢れを去れ。

 3、衣を著せん時は、浄衣印言を以て加護せよ。

 4、浄衣は毎時に取換え若し垢あらば時々浣濯して浄くせよ。

 5、夏の暑い時には、しばしば沐浴して垢汗を去れ。又は香を塗れ、或は香湯を用いて洗浴せよ。

 6、髪を長くし爪を鋭くして垢穢を貯える勿れ。

 7、平常時の服も時々洗濯して臭穢ならしむること勿れ。

 8、顔、手、足、身体を拭うのに同じタオルを使う勿れ。タオルも時々洗濯して浄くせよ。

 9、×××の家に往くべからず。又彼の家の食を受くべからず。

 10、新産、新死の家に往く勿れ。彼の家の食を受くべからず。久しく時間が経過すれば問題ない。

 11、諸の簟菜(五辛之類)は食すべからず。

 12、肉を食すべからず。肉を食べる者は、大慈大悲の性種子を断ずるが故に不浄の気分なるが故に真言の悉地成就せざるが故に、諸の天神等、及び諸の有情遠ざかり捨て去るが故に。

 13、酒は飲むべからず。酒は是れ本心を迷失し諸罪を発起す。修行者の所応に非ざるが故に、凡そ一切の味の人を酔わすべき者の皆な受けべからず。(酒粕、奈良漬け等)

 14、自余の諸戒各其の所応に従って之を謹み護るべし。

 15、残食は食べるべからず、及び宿食、触食を受くべからず。

 16、蟲有る物の諸の菌蕈(きのこ)等、或は又毒有て人を殺し病しむるの食を用ふべからず。

 17、山厳の険阻(険しい所)、風雨の中での舟行等諸の険処に往くこと勿れ。

 18、下は牛馬鶏犬に至まで戦斗を観聴せず、見聞せず、若し避けること能わず之見聞せば則ち之和解せよ。若し和すること能わざるんば但し慈念を生すべし。

 19、音楽、舞踏、相撲、撃剣等の一切の耳目を惑わし耳を迷わし心を動するの事皆観聴すべからず。

 20、戯論、雑語すべからず。心を動かし念を増して事を障げ、観を妨ぐこと甚だせざるべからず。

 21、日月星等の諸天鬼神及び諸の仙等をば礼拝恭敬し承事すべからず、また軽慢すべからず。若し軽慢すれば則ち瞋害を為すが故に、時より法施を以てし弁に飲食及び香花等を施して彼の歓喜して衛護して与え事を願うべし。

 22、大小便の時には切によく用心すべし、毘那夜迦其の便を得る時は則ち其の悉地を障ふ。

 23、行往座臥并びに香花飲食等の物を献ずるに皆な以て護身結界せよ。是れ毘那夜迦の障碍を除くなり。皆な阿闍梨に就て之授かり了て行せよ、慎んで容易にすること勿れ。

 24、凡そ供養の物は必ず先ず清浄に之を洗って真言を以て除垢せよ。其の力分に随て多少麁妙唯須く誠を至すべし。これ惰慢を生じて事の供は実に非ずと言う事勿れ。

 25、念誦時に睡眠昏睡せば、念を本尊に繋がちて或は光明或は持物或は相好等、明了に之を縁じて其の昏睡を除け。若し強て則、座を起きて経行せよ。経行の時心散動すること勿れ。浮ならず自を沈ならず安適なることを得る。又除睡の真言あり。

 26、念誦の時心散動する事勿れ。心若し散動せば、念を臍輪に繋げ、或は真言の字を観じて念を一境に摂せよ。復散乱心を除く真言有り。

 27、もし好相を得ば阿闍梨に諮啓してその好相の真実かあるいは魔作かを尋ねよ。慎んで他人に語ること勿れ。

 28、阿闍梨より伝習するところの印真言観法儀則は本受法の師のほかはたとい同法の行者なりとも説くことを得ず。これに背けば悉地を得ず殃禍を招く。また未灌頂者に向って秘密事を説きまたこれを授受するを得ず。その失上に同じ。

 29、阿闍梨の教命するところを如説奉行せよ。秘密の法要は専らこれを師より受く。成仏得果の功ことごとく師に由る。もし師を軽慢し違乖瞋恨せばその罪もっとも重し。

 30、常にすべからく菩提心を捨離せざるべし。凡そ自宗所発の菩提心は常途の謂に非ず。凡夫と佛と本来不生にして一如平等なりと解知して、此の平等の心地に住して二利広大の心を発起するなり。是故に瑜伽教の中には先ず利他を勧む。所以者何れば凡夫は我に著す、自利を思うことは則本と熏習する所なり。若し自利を励むなば恐は我執を増せん事を。故に一ら利他を教える也。是の故に真言行者は自を忘れて他の為すべし。

 31、如来の所説の正法を捨離することを得ざれ。乃至二乗の法なりとも復受持して棄捨する事を得ざれ。本不生の理の上には一の非法も無きかたの故に。皆佛法なるが故に。

 32、一切の法を慳悋すべからず。

 33、諸の衆生に於いて不饒益の行を作すべからず。

以上諸事は、皆其の大なる物なり。猶其の委悉は諸を蘇悉地蘇婆呼毘那奈耶等の経に求めよ。斯に具に出さず。

 1~16までは衣食に関する諸注意。

 17~19は娯楽の禁止。

 20~22は日常の注意点。

 23~29は勤行に関すること。

 30~33は四重禁戒となっている。

 これを見ると、真言行者が日常気をつけておかなくてはならない些細なことから、実践を積んだ真言行者までが必要となる戒(行動指針)であり、保育園から大学院までの内容を網羅している。1つ1つの真意を真剣に受け止め生活する必要がある。 

 25の念誦時の睡眠を防ぐ方法、26の念誦時の心散動する時の対処法等、浄厳の懇切丁寧な心遣いがわかる。また、30の四重禁戒のひとつである菩提心を捨てることなかれ。の後に三平等観、菩薩道の基本である利他行を説くという一歩ふみこんだ解説も和尚の細やかさが感じられる。 

  2、『三昧耶戒印明等秘訣 草本』49歳(貞享4年1687)撰(39)。

 空海の『三昧耶戒序』を理解したうえで、さらに菩提心戒、三昧耶戒の戒相、印言義、オン字義、三昧耶戒体に関し記述している。空海の『三昧耶戒序』は、『秘密曼荼羅十住心論』を使用し各階梯における教理と戒に触れ、『菩提心論』の勝義心、行儀心、三摩地の菩提心を明かし、再度十住心の階梯を四恩をみることにより戒としている。

 浄厳は、菩提心の義を法相(二利広大の菩提心)、三論(菩提有情も皆空無自性)、天台(中道に於いて菩提を発す)、華厳(無礙融即の菩提)、密教(菩提を以て菩提を求めるを菩提心とする)の5階梯で説く。菩提心戒、三摩耶戒は、仏道に参入する前に阿闍梨より授けられる戒である。特に密教においては、この2つの戒を理解しておかないと、今後なされるであろう修法全てが、野干(狐)の獅子吼えになると浄厳は厳しく指摘する。詳細に説いているが、ここでは最低限理解して身につける内容を考察する。

 浄厳は菩提心の相に関し自心、阿字本不生、六大本有を用い説く。

 ・密教の菩提心は、自心に菩提と一切智を求め尋ねること。

 ・真言宗はア字諸法本不生を宗旨とするので、六大本有にして無始なるを、心とも菩提とも云う。

 この2文を合体すると、菩提を以て菩提を求めるを菩提心とするになる。次に、自心に菩提を発し即ち心に萬行を具し、心の正等覺を見て、心の大涅槃を証し、心の方便を発起し心の仏国を嚴浄すると、三種の菩提心が現れてくるとする。

 ・自利勝義心 五相、三密の修行を日夜に鍛錬して自身即仏の器を成せんと求める。つまり、自己自心(衆生)すなわち六大理(身)智(心)金(心智)胎(身理)両部の曼荼羅(仏果)なりと知って菩提心を求める。

 ・利他行願心 一切衆生の心身、すなわち六大理智法身なりと言えども、衆生無始よりこの方この理に迷って自己の仏体を知らざるが故に、行者今、勇猛の心を起こして一切衆生を連れてこの自心即仏の理を証せんと願う心を菩提心という。

 ・三摩地の菩提 自心の生仏一如なる所に安住して不動なるを言う。さらに別法無し、ただこれ一切衆生の自性清浄心なり名付けて大円鏡智とする。上諸仏より下蠢動に至るまで悉く皆同等にして増減あることなし。この意を以て知るべし、この心を始めて発すは修生なりといえども本有の生仏一如の理を一分も動せずして解知するを以て本有(胎)修生(金)全て一物なり。

 ・三摩地の心(平等心)はいつも勝義、行願を離れないので、体性という。生仏一如というも全て泯絶する訳でなく生仏二界、宛然としてしかも各々万徳を具せりと知るを以てこの一如の知見発起する時、この三心は不二にして而二なり。畢竟両部不二の三心なりと知るべし。

 次に具体的に菩提心印明について浄厳の考え方を考察していきたい。

 印は金剛合掌。左の五指は衆生の迷の五大なり。右の五指は仏界の五智なり。すなわ ち五仏なり。五指の頭を交合するは生仏二界不二なる義。左右の手異なりといえども(而二の義)合して一印なるが(不二の義)生仏の十界皆本有にして不変なること金剛の如くなる義を彰す。また是れ即身成仏の密印なり。生界に即してすなわち仏界なるが故にこの印と三摩地の菩提心と事異にして義同じ。 

 次に菩提心真言に関し次のように説くが、浄厳は特に我を三三平等で捉えている視点が重要である。

  ヲン(帰命)ボウヂ(菩提)シッタ(心)ボダハダ(発生)ヤミ(我今)

 総の句義は、我れ今菩提心を発生す。我は自分ではなく、十界の依正を皆、我が身心の六大と一体なりと見る我れ。法界の我にして無我の大我なり。

 発生とは本有平等の菩提心を修生顕発すること。修生といえども生仏本有の具徳と開見するが故に唯これ本有のみなり。

 菩提心とは、平等の心地なり。故にこの真言も印も三摩地たる菩提心も全て一体なり。是れ三密平等の故なり。

 三昧耶戒についても浄厳は、菩提心と同様に相、印明、真言で捉えている。三昧耶戒の相について、浄厳は第1に決して菩提心を忘れることなかれと説く。

 ただ前に発起しつる菩提心の堅固に決定して成仏に至るまで改転してはいけない。例をあげれば、諸仏、菩薩、昔因地に在して是の心を発しおわって勝義、行願、三摩地を戒とす。ないし成仏に至って時として暫くも忘れることなし。

 次に三昧耶に4義あることを説く。最初の2つが重要であり、最初の生仏平等の平等を菩提心の意味であると説く、全ての存在は皆菩提心を持っている(六大本有の菩提心)という考え方である。また、本誓の義は、生仏平等の理に常に住して金輪際忘れてはならないということを戒とすると説く。三昧耶戒を菩提心戒とも言う意味がよくわかる。

 ・生仏平等の理

 ・本誓の義、密の三昧耶戒は生仏一如平等と見て而二の悪を断し一如の善を修し而二別執の衆生を度せんという誓願なり。故に三昧耶戒の時、印明より前に受けるところの三聚浄戒も皆この意に住して受けるなり。況や三昧耶平等の戒を受けんをや当に生仏平等の理に住して未来際に至るまで動転すべからざる是を三昧耶戒とする。

 ・驚覚の義、平等の法門を以て生仏隔歴の迷酒に酔眠せる衆生を驚覚するなり。

 ・除障の義 平等の法門を示して衆生の隔執の障を除く。

 初めの2つが肝要なり。二義の中に平等とは菩提心なり本誓とは戒なり。是れを以て三昧耶戒とは唯始の菩提心の分域を出ざることを知るべきなり。

 三昧耶戒の印明を浄厳は具体的に示す。

 普賢三昧耶の印。二手外縛して二中指竪て合するなり。八指外縛は八葉の蓮華(胎)八分の肉団(凡心)凡人心如合蓮華、是れなり。掌中の虚にして円なるはすなわち月輪(金界)シッタ心(仏心)、仏心満月のごとし。中指は火大なり。心の臓は火を主が故に左の中指は衆生の心、右の指は仏心なり。二中合わせ立て一股の形にすることは生仏二界不二なるはすなわち独一法身(六大一實)の智体なることを表す。

 三昧耶戒の真言に関しては三三平等間での入我我入を説き平等が融通無礙という働きを持つことを示す。

  ヲン サンマヤ サトバム

 ヲンとは帰命、サンマヤとは平等の義。三昧耶は平等摂持を義とする。すなわち入我我入得名と釈す。サトバムとは(不空)に入我我入の義と釈す。謂く生仏本来平等の故に我れ本尊の身に入り、本尊我が身中に入り罣礙あることなし、猶し乳を水に加るが如し。

 以上、浄厳による菩提心戒、三昧耶戒を確認した。ただし一番重要なのは、覚悟の度合いである。生死の境にある人間が生きる望みをかけ唱える発菩提心と何の苦労もなく平々凡々と暮らしている人間が唱えるのでは覚悟が違う。逆に言えば、日々の行法で毎日唱える真言なので、その真言をいかに深い意味合いの中で唱えるかが問われている。

  3、『妙極堂教誡』50歳(元禄元年1688)撰(40)。

 この教誡は、教興寺に安居して門徒のために制定されたとあるが、霊雲寺、延命寺、大染寺など僧伽を営む際の規則である。今でいう会社規則にあたる。59の教訓が記載されている。菩提を求むる者は、菩提心を発て、菩提行を修す。から始まり、自利利他、三平等、受持三聚、八斎戒、三昧耶戒をはじめ宗義を等しくする者が僧伽に参加するための最低条件を、実例をあげながら説く。前述の『受法最要』の内容も当然含んでいる。「佛法僧事」には毎年初めの17日乃至、二三七日は大法秘軌を勤修して、毎月21日は高祖のために誦経法施して、等行事が明示され、心得として観心無き咒は意味がない、大仏頂大随求の二大総持は暗記すること等、受者が疑問に思うところを先手で記載している。「擇其大僧」には、『梵網戒経』、『即身成仏義』、『理趣経』、住心品及び疏、顕教の法華経、四教儀、唯識論、具舎論、五教章、三論、玄儀に通じて講義出来れば、其の進具を許すべしとある。「簡住持人」には更に、前記に加え、『菩提心論』、『聲字實相義』、『吽字義』、『悉曇字記』、『十住心論』或は『秘蔵宝鑰』、『辯顕密二教論』、『般若心経秘鍵』、『大日経疏』、諸の密教儀軌、供養儀式の一々の深義に通じ二教に達し三学に通づる者を住持和上とする。とある。この教誡は現在の真言行者にも当てはまるのではないだろうか。つまり真言行者の必須科目を和尚が明示したと言う事になる。また、「俗士受法」「受習契明」「初心修供」に民衆教化の作法が説かれる。俗人には真言を伝授することになるが、僧侶にも言えるが、皆、口誦のみにて観修を要せず。これでは何年やっても哀しいかな、ダメである。と念誦のやり方をしっかり学びなさいと注意喚起する。特異な教訓として、「禁供聖天」がある。つまり富貴を願い聖天法を修すことを禁ず。密教は師資承襲が肝要で、法流を涸らしてはならない。黄金を堆めて何の益があろうか。吾は軍荼利尊に帰依して彼の妨礙を破す。もし、資材が必要な者は、宝生佛、虚空蔵、持世如意輪、地蔵、毘沙門、或は、地天、吉祥天、宝蔵天、大弁才天を修しなさいとある。最後に、尼僧用に六教誡を記載している。元禄時代の女性の待遇がどのような状況であったのかは理解しがたいが、興味を引く教誡として、「守口如瓶」がある。諺に、禍ひは口従り生ずる。云々と、更に事例を出し最後に女人の性たる殊に口過多し。故に尼は最も之を慎みなさい。とある。なるほどなと思わさせる。伝記によると和上は女人が大の苦手であるが、観察は満遍なく行われていることがわかる。 

  4、『真言行者初心修行作法(41)』58歳(元禄9年1696)撰の第10 通論3則 。

 1、真言行人は初て佛乗に入る時、三昧耶戒を受るが故、諸経軌の中に縦ひ俗人なりと難ども必ず五戒・八戒を持せよと言へり。是れ則ち先ず四衆の本戒を堅持するに則ち三昧耶戒成し難い故也。此の故に出家の真言行者は必ず八斎を持せよ。若し持齊戒を持たざらん者は是れ出家に非ず。則ち三密の法を行せ使むべからず。

 2、真言の字義に通達しその枢鍵たる本不生義を解せざれば両部の大法を許可すべからず。

 3、三密平等、生仏不二、諸法本不生の実義を知らざれば三密行を修しても真言行者とは称せない。

 原文には浄厳和尚の三則の意図する理由が詳細に記載されている。戒には間違いないのだが、戒が戒に終わらず、これから菩薩道を歩む真言行者への教えであるように思える。また、この三則は定・悉地・三摩地に至る為の指針であり、事教二相が高度に融合しないと果たせない戒である。

 

  2ー2 浄厳和尚の定・慧

 

 浄厳の定・慧に至る道(条件)を探るとやはり『真言行者初心修行作法』通論3則 に尽きると考える。特に下記の2点である。

 第1に真言の字義に通達すること。

 第2に本不生の義を解すること。

 この内容を確認していく為に、第1については『悉曇三密鈔』。第2については『真言修行大要鈔』を元に検討を加えて行きたい。最初に真言の字義に通達することに関して『悉曇三密鈔(42)』43歳(天和元年1681)撰を検討する。『三密鈔』に関し、和尚の考えが『浄厳大和尚行状記』蓮体録に記載されている。

 和尚は真言の字義に通達するため、32歳の時に悉曇、声明を学び25巻の本書を悉く研究した。和尚が常に言うには、故徳言う、悉曇を知らない者は半真言師であると。私は言いたい。悉曇を解しない者は真言師ではないと。それ密教が諸宗に超過して勝れているのは阿字本不生義を宗旨としているからではないか。阿字は悉曇の字母である。故に疏家(善無畏三蔵)は処々に阿字門に入ると釈し、「自心を覚するに本より已来生せず。即ち是れ成仏にして而も実には覚もなく成も無し」と説き、本不生を覚れば即ち是れ仏であると釈されている。これは悉曇の字母阿字の釈ではないか。また灌頂の大事、諸尊の種子真言なども悉曇を解しなければその深義を知る事が出来ない。だから大師は、顕教の人は字相字義などの重々の義を知らないと釈しておられる。いわんや大師の大悉曇章、御請来の悉曇字義、大師御著作の声字義、吽字義等の意趣は悉曇を肝心とされておられるではないかと。このように言って常に徒弟のために悉曇の字義句義について敷演されるありさまは旋転無窮にして、あたかも無礙自在の弁才を得て思いのままに説法されているご様子であった。三密鈔の中で字義門を祥悉に釈されているのはこのような理由によるのであ(43)。

 悉曇を知らないものは、半真言師どころではなく、真言師ではない。と言い切ると共に、疏家の説く阿字本不生、祖師の教えの中での悉曇の位置づけ、行法のなかでの悉曇の重要性を説く。空海が入唐した大きな理由として、大日経に記されている悉曇を学び、密教の真髄を知りたいという事があげられる。悉曇が理解できないことは、密教が理解出来ないことを意味する。

『三密鈔』の第八に字相字義門として四重秘譯を展開している。

  浅略:字相とは童蒙の知る所。字義とは法性の実義。

  深秘:一字能く一義を詮するを字相とす。一相を除遣して無相に證入するを名付けて字義とす。

  秘中深:字相とは不可得義。字義とは圓明の心体なり。

  秘秘中深秘:能所不二圓明の字体を名付けて事相とし、還って能所を在して字体能く義用を詮するを各々字義とい(44)。

 字相字義と共に各門各章において発音に関しても詳細に説かれる。つまり字相(身)・声明(口)・字義(意)の悉曇三密を説く。この悉曇の能力は儀軌の校合、及び『通用字輪観口訣』に説かれる無分別観による大空三昧の境地に至る重要なポイントになる。

 次に、本不生の義を解することに関して『真言修行大要鈔(45)』52歳(元禄3年1690)撰を検討する。本不生の義を解する事。この大要鈔は、問、答の形式で真言修行の大要を述べている。第一問で阿字観に関し問答があり、1阿息観(聲)、2阿字観(字)、3阿字本不生(実義)が説明され、以下のように本不生の実義が説かれる。

 あらゆる天地の間の万物は本有にして始めもなく終わりもない。常住にして動転することなく遷変することなしと知る。是を本不生の実義と言う也。但し此の義は甚深幽玄にしてかりそめに知らるる處にあらず。唯、佛のみ能く此の真実を明め玉へり(46)。

 最後から2問目の問答で、本不生の義をどうしても理解できない者は、どのように修行すべきかとの問いが発せられる。答えとして、日常常に、万事着衣喫飯までも節りに触れる事に随いて是れにはかぎらずと念ずべし。中道により喜怒哀楽愛悪欲等の境界に我心を動かされず、逆に我が心が能く諸法を使って自由自在を得て、煩悩即菩提、生死即涅槃、即身成仏の位となる。実に貴くべき事であるとする。六大を本体として万法皆此れ六大を体とす六大の處に万法挙げて有りと立てるなり。此の故に一微塵までも万法を具して本有常恒なり(47)。

 そして以下の三密加持の徳用を説く。

 真言には一字に無量の義を具し一印に無辺の徳をあらわし一心の中に諸尊を観想す又纔に両手の十指を以て無量無辺の密印を結顕し一の舌を動かして恒紗の真言を唱うるに其印其真言に亦各無辺の徳用を備えたり(48)。

 本不生の義を体得するには、教理を学ぶだけでは理解できない。本不生の義を体得するため日々の密教行法を継続し行い、教理・事相の説くところを信じて行法を研鑽し向上させ大空位の境地を目指すことである。

 

                      つづく