密教の原理(2) | 「明海和尚のソマチット大楽護摩」

「明海和尚のソマチット大楽護摩」

ソマチット大楽護摩は、古代ソマチットを敷き詰めた護摩壇
で毎朝4時から2時間かけ護摩を焚きカルマ浄化、種々護摩祈願を行なっている。

 1ー2 寺院建立(活動拠点)、徳川綱吉(幕府)との関係等

 

 37歳(延宝3年1675)泉州大鳥群上神谷村に高山寺を創建する。仁和寺孝源の命により洛西鳴滝般若寺に住持す。

 39歳(延宝5年1677)鬼住村に帰り、父の俗宅を改めて延命寺を創む。

 41歳(延宝7年1679)高松城主松平頼重より庵地を給わり現證庵を立つ。河内高安郡教興寺を尊学忍空より譲り受けて再興の志を起こす。

 44歳(天和2年1682)河内高安教興寺住職に補され香衣を許可され西大寺衆分に加えらる。

 46歳(貞享元年1684)延命寺を発って東都に赴く。

 47歳(貞享2年1685)牛込多門院裏息障庵に安居す。

 51歳(元禄2年1689)本多伊豫守忠恒の病気平癒祈願のため一七日間大元帥法を修して験あり。

 53歳(元禄4年1691)3月22日将軍徳川綱吉に柳沢保明の邸で謁見、御前に於いて『普門品』を講ず。5月是月徳川綱吉の御前にて経を講ず。8月22日保明の推挙によって幕府より三千五百坪の地と金三百両を下賜され、宝林山霊雲寺を建立す。10月半ばに完成、永代幕府の祈願所となす。

 54歳(元禄5年1692)霊雲寺に於て7日間1日三時の太元帥法を行じ息災増益両壇の護摩を修して国禱す。霊雲寺に於て『理趣経』千巻読誦して万霊回向をなす。

 55歳(元禄6年1693)五大尊供を修して徳川綱吉のために長日祈禱をなす。霊雲寺にて『大般若経』を真読して国禱をなす。

 56歳(元禄7年1694)6月29日霊雲寺、関八州真言律の本寺を命ぜらる。

 57歳(元禄8年1695)正月13日『五大尊供次第』を撰して徳川綱吉の長日祈禱に当つ。

 58歳(元禄9年1696)3月5日鶴姫の安産祈禱を命ぜられる。3月26日雷除のため『最勝王経如意宝珠品』6本を書写して城中6ヶ所に納め徳川綱吉に雷除の護符を献じる。春夏秋の間不断に消除雷電の秘法を修す。6月22日相次ぐ天変地異のため静謐の祈禱を仰せ付けられる。 

 59歳(元禄10年1697)7月22日徳川綱吉より祈禱を命じられる。8月30日河内教興寺を蓮体に付す。

 60歳(元禄11年1698)12月6日幕府より没後の墳墓の地として谷中に千三百坪を給わる。

 61歳(元禄12年1699)正月6日病に臥す。11月30日城中に召され明正月元旦日蝕除災の祈禱を命ぜらる、因て7日間仏眼供を修して、日蝕除災の祈禱をなし護符を献上する。

 62歳(元禄13年1700)5月27日徳川綱吉の命により柳沢保明の病気平癒祈禱をなす、一七日間毎日三時に愛染法を修して霊験あり。明正月元旦日蝕除災の祈禱を命ぜらる。

 63歳(元禄14年1701)正月14日鶴姫痘瘡を病む、因て平癒祈禱を命ぜられ愛染供を修し大般若経を読誦して効験あり。

 64歳(元禄15年1702)6月14日暑湿に当り発病。6月21日病状を徳川綱吉に達す、よって大医令薬師寺宗仙ら数人の奥医を遣わさる。6月27日卯下刻遷化す。  

 考察

 37歳高山寺を創建、39歳鬼住村延命寺、44歳河内高安郡教興寺住職(西大寺衆分)、53歳での将軍徳川綱吉との謁見、並びに徳川綱吉からの信認、宝林山霊雲寺の建立(永代幕府の祈願所)、60歳没後の墳墓の地として谷中に千三百坪を給わるとある。53歳を転機として一宗教家から国家規模の宗祖として活躍したことがわかる。

 幕府との繋がりのなかでは僧侶の一面として、国家鎮護、国家安泰、幕府要人の祈祷等、加持祈祷の効験・能力が必要であることがわかる。修法内容は、以下8例の通りである。奥書に目的、日時があるものは記載する。

 例1、「大元帥法」徳川綱吉病気平癒。 『大元帥供養念誦要法(新選)』大樹殿下源朝臣綱吉公長日祈祷、草此次第畢、元禄五年星紀壬申孟春十六、措筆干武都北郊之霊雲精舎金剛乗苾蒭浄厳五十有四

 例2、「五大尊供」徳川綱吉のための長日祈禱。『五大尊供次第安(新選)』元禄八乙亥正月十三夕、為 大樹内府殿下長日祈祷、草此次第了 他日伝授書写之人、若未遇第二伝法之器、速以其本送于当寺之宝蔵、若背斯之者、護法諸天早加治罰耳 東都北郊霊雲創基伝瑜伽乗比丘浄厳五十七載

 例3、「安産祈禱」鶴姫のための祈祷。

 例4、『最勝王経如意宝珠品』6本を書写し雷除の護符を献じる。

 例5、「消除雷電」の秘法を修す。『消除閃電陀羅尼法安雲(新選)』元禄九年季春十二夕欽草之了、他後伝授写得之人、若未得第二伝法之嗣、則速似其本送致当寺之経庫、非是狭心、護法之謀也 武都霊雲沙門浄厳五十有八

 例6、「天変地異静謐」「日蝕除災」の祈禱。『ボダローチャニタラマ秘要詳雲(新選)』此一帖、先年難起毫、阻干蝟紛、不得畢功、而頃日大樹内大臣綱吉公、 有 命、使予修明年元日蝕祈、因茲始自去三(室宿)、至于十日(觜宿)、十七日夜、修仏眼供、大壇并護摩壇伴僧六口也、其間続此一帖了、殊冀瑜伽上乗廻至来際、安祥一派遍伝辺徼耳 元禄十二祀 十二月十三日 武都北郊霊雲草創比丘浄厳識 六十一載

 例7、「愛染法」柳沢保明の病気平癒祈禱。(西大寺愛染明王を本尊として敬愛増益両壇の護摩があり、大壇は浄厳、両護摩は蓮体、宝盤、真寂が勤め、伴僧が大呪を誦す。)

 例8、「愛染供」を修し「大般若経を読誦」して鶴姫痘瘡平癒祈禱。

 例示された加持祈祷を行うには密教教理・事相に通逹し已達の域に入らなくては実践はままならない。初心行者にとり修法を実践する前に、まずは護身法を身に付けることが重要だと考える。

 浄厳は護身法に関し60歳(元禄11年1698)で『護身法口訣(新撰)(30)』を撰述しているので内容を確認する。

 最初に、浄三業、佛部三摩耶、蓮華部三摩耶、金剛部三摩耶により自らの三業の罪障を浄化したのちに、最後に、披甲護身により外の障碍も無くし内外共に護身するとする。各項目で詳細にわたり、真言(句)の意味、及び真言(文書)の意味、悉曇単体の字義、印説に関しては、特に詳細に解説される。浄三業、佛部三摩耶、蓮華部三摩耶、金剛部三摩耶については、自らの身口意三業(三毒ー小貪、小瞋、小痴)をいかに身口意三密(大貪、大瞋、大痴)として転換させるかである。転換して初めて次の被甲護身が使用できる。被甲護身の印相、真言、観想が説かれる。印説に関しては、この印言は化他であるので先ず、大慈悲心を起こして平等に法界の衆生を縁じ悉くその苦厄を抜済して世間出世間の一切の悉地を得せしめんと誓願して、如来の大慈悲の甲冑を着て行者威光嚇奕たること日輪のごとくなる印明を結ぶ。如来の大慈悲の前ではいかなる天魔も外道も悪人も煩悩の所起の業障を起こすことができなくなる。つまり襲いかかる動機が消え去ってしまうのである。また、真言、悉曇が存在する時は、必ず阿字本不生の大空三昧の境地無くして加持力は発揮されない。この阿字本不生の大空三昧の境地での加持力を発揮するには、浄厳は以下のように述べている。蓮体録『平生雅訓十七条』の15に浄厳は「事相の中では専ら字輪観の字義門を工夫せよ。これに悟入すれば無窮の妙慧を発すであろう。また教相を学ぶならば、『即身成仏義』『秘蔵宝鑰』『住心品』を第一に学べ(31)。」と指示されている。

 護身法は、「如来の大慈悲の前ではいかなる天魔も外道も悪人も煩悩の所起の業障を起こすことができなくなる。」とあり、戦う前に相手の戦意が喪失してしまうということである。しかしながら、浄厳の伝記には次のような興味深い事例がある。

 神田の柳沢保明公の宅に古い稲荷の社があり、そこの野干(狐)が人の欲望に取り付き色々と悪さをする。公は浄厳にこの狐を追い払うようお願いした。浄厳は大元帥の三昧に住して行き、右に剣を持ち大元帥の真言を誦し、狐が取り付いた下僕に対し「汝は先には絹を拝領し社を建て給われば二度と好みごとをいわないと言ったではないか。それに今また種々の事をいうのは甚だ奇怪である。向後はこの宅地に住まわせまい。早く出で去れ。」と大叱責し、社をこぼち捨てた。狐が取り付いた下僕は走り出て自分の部屋を見ると大般若の札があって入ることができず、堀の上の木の上に登った。家臣がどうすべきか浄厳に聞いたところ、強く縛って部屋に押し込めておけ。下僕は熟睡して狐は逃げ去った。下僕は正気に戻り、その後狐が害することはなくなった(32)。」

 この具体例を考察する。下僕の貪に対し、野干(狐)が取り付き悪さをする。悪さとは下僕の尽きない欲望を糧として、下僕を惑わせ、心に巣食い三毒の欲望を吐き出させることである。この境界に浸かっている下僕は、善悪の区別がつかない状況である。

これに対し、浄厳は、大叱責し社を打ち壊す(身)、大元帥の真言を誦し(口)、大元帥の三昧に住して(意)の三密加持で、下僕と一体となった野干(狐)に対し、悪を転じ通常の状態に引き戻す。大慈悲の甲冑、大慈悲の剣により天魔の煩悩の源を清らかにし、敵対心をなくすと口訣にはあるが、時には、例えにあるように、威光嚇奕たること日輪のような行者の威光で、悪を打ちたたき気づかせ退散させる場合もある。

  

1ー3 民衆教化(僧俗への結縁・受明・伝法灌頂等     

 

 29歳(寛文7年1667)宝性院道場に於て、初めて実誓、意伝の二人に三宝院流の印可を授く。これ以後元禄15年64歳までに1798人の弟子に許可を授ける。

 蓮体録『講経伝授等座数』によると、下記内容で伝授を実施したことがわかる。

 剃髪弟子<比丘13人沙弥12人>  436人

 授伝法灌頂弟子           167人

 授印可受明灌頂弟子        1631人

 授菩薩戒弟子          1万5千余人

 授光明真言印契者          5万余人

 授真言印契者            5万余人

 授結縁灌頂者        30万4千55人

 授三帰五戒八戒十念等者      150万人    

 考察

 37歳より、僧俗への結縁・受明・伝法灌頂等をほぼ毎年実施している。前年の36歳に仁和寺尊寿院顕證に従い西院流四度加行結願。真乗院孝源に従い許可加行を始め、許可を授かり、同じく孝源に従い儀軌伝授を終了している。野澤二流を相承した結果が僧俗への伝授という形で現れている。伝授の中、最も盛んだったのは、53歳(元禄4年1691)2月2日より上野州立石寺で行った伝授である。『梵網古遮』を講じたのち、三帰受者約67万人、光明真言受者1万1千137人、血脈受者1千718人、菩薩戒受者1千235人、臨終大事受者1千719人である。この1ヶ月後に将軍徳川綱吉との出会いとなる。民衆への結縁灌頂を行うにあたっては、以下のような規則を制定している。

 光明真言の伝授にあたっては結縁灌頂を受けていない人には越三昧耶の罪を犯すので伝授しない。ただし、未灌頂の人には必ず大金剛輪陀羅尼を授けて後に諸々の真言を伝授する(経の中に7遍を誦せば、六道四生の一切の有情は悉くみな金剛界曼荼羅に入って灌頂を受け金剛薩埵と同等になって三世無障碍智戒を具足するのと同じ功徳があると説かれている)。前行一七日間は酒肉五辛を断たせ、タバコを吸うことを禁止し、潔斎清浄したのちに光明真言を授ける。次の真言の伝授には光明真言10万遍。さらに次の真言の伝授を願うものがあれば字数の多少で2万、1万、5千等光明真言を誦した後に授ける。臨終の大事の伝授では三七日潔斎させ毎日光明真言を千遍誦した後に授ける。光明真言の七印の伝授では光明真言を百万遍誦した後に授ける。その上なお、百万遍の念誦に偽りがないという誓詞を書かせ血判を押す。授戒の日は、受者に命じて仏への供養物をみな弁備させ、浄厳への施物は錙銖半銭(ごくわずかな金品)も受け取らなかったので諸人はますます信心を生じた(33)。

 浄厳の民衆への伝授・教化は、受者に戒を説き理解を得たのちに結縁灌頂に入壇させ、その後、三密加持に基づく念珠を指導、実践させている。現代人にも「光明真言」「臨終の大事」は大切であり必要となる。伝授の際は、行者自身が密教教理・事相を深く理解し、日々の実践を積み重ねその任に当たらなくてはならない。

 

  1ー4 儀軌の書写、写校、校合、伝授等

 

 年齢別に書写、写校、校合、伝授した経儀軌名を記載し(  )内にどのような内容であるか密教大辞典(34)より引用し記載する。

 19歳(明暦3年1657)安流聖経『弥勒法』『祥流鈔神供』を写す。

 20歳(万治元年1658)良意に従い『大勝金剛法併護摩』を書写す。 

 21歳(万治2年1659)『大勝金剛法就敬愛』『大勝金剛法併護摩』を写す。安流聖経『秘知元辰法安』1帖を写す。

 23歳(寛文元年1661)『増寿陀羅尼経』『聖六字増寿大明陀羅尼経』(施護訳。雑密経、増益法。阿難が病気の際、佛六字大明陀羅尼を説いて救う。)を写す。

 31歳(寛文9年1669)『安祥寺流折紙伝授日記龍算』、『安流折紙伝授記賢光』を書写す。

 32歳(寛文10年1670)良意(1607-1681)『唯嫡伝』(興雅撰。灌頂諸大事印信の最極印明に就きて安流相伝の最秘口訣を記す。)一帖を書写して、良意の瀉瓶安流の正嫡たる自覚を深む。安流折紙97紙を書写する。

 33歳(寛文11年1671)『東禅院悉曇鈔』並びに、安流折紙53紙の書写及び、安流初授七結100紙を書写校合す。

 34歳(寛文12年1672)『避蛇奥抄』2紙、『晦御念誦』、『後夜念誦』1紙、『一八日観音供』1紙を書写して朝遍及び亡父亡兄の冥福に薦む。『理趣経』(不空訳。最澄・空海・圓仁・圓珍請来。金剛頂部、理趣経法。)を写経す。

 35歳(延宝元年1673)『小野大次』1紙、『日々所作』1紙を書写す。安流折紙13紙を書写する。

 36歳(延宝2年1674)『薬師如来念誦儀軌』(不空訳。雑密経、薬師法。結願神咒・壇法・尊像・供養次第・功徳を説く。)を写校す。仁和寺に於いて真乗院孝源(1638-1702)に従い儀軌を伝受す、『成就院七巻鈔』(寛助撰集。廣澤方の諸尊法を集めた中最古のもの。諸尊法の道場観・字輪観・印契・真言・種子・梵号・密号等を載せる、但し尊法に依り具不具あり。就中其の三昧功徳を説くに経軌を引証することが多い。稀に修法を附す。)の伝受、この間『栂尾法鼓台蔵弘法大師御請来儀軌』を書写校合す。

 37歳(延宝3年1675)『円満金剛』2紙を写す。前年に引き続き仁和寺に於いて孝源に従い儀軌の伝受を始め、書写対校す。

 38歳(延宝4年1676)『観自在菩薩説普賢陀羅尼経』(不空訳。空海・圓仁請来。雑密経、観音部、聖観音法。佛王舎城霊鷲山で観自在菩薩如来の許可を得て普賢陀羅尼及び結方隅界陀羅尼・迎請陀羅尼を説く。)を校合す。『成就妙法蓮花王瑜伽観智儀軌経』(不空訳。空海・圓仁・恵運・圓珍請来。胎金合軌、経法部、釈迦多宝法。法華経供養法の本軌。)を書写す。泉州高山寺にて円行、頼円、蓮体らのために儀軌の伝受を始む。

 39歳(延宝5年1677)『八字文殊儀軌』(菩提㗚使訳。恵運請来。胎金合軌、文殊八字法。オン ア ビ ラ ウン ケン サ ラクの八字真言の功徳と念誦の不同と曼荼羅畫像法を説く。別巻で念誦供養の儀則を明かす。その次第は十八道立に似ている。)を写校す。諸徒のために儀軌の伝受を始む。

 40歳(延宝6年1678)安流折紙5紙を書写校合す。『理趣経祥』1帖を写校す。

 41歳(延宝7年1679)安流折紙12紙を書写校合す。

 42歳(延宝8年1680)『宿曜経』(不空訳、揚景風修注。雑密経、星宿法。空海・圓仁・圓珍請来。宿曜日時の吉凶善悪等について説ける経。)を校訂す。『奇特仏頂経』(不空訳。空海・圓仁・圓珍請来。雑密経、佛頂部、金輪法。釈迦金輪の法を説く。奇特仏頂とは金輪仏頂の異名なり。)中、『八大童子倶力伽龍』1紙を写校す。

 43歳(天和元年1681)『聖天供私次第祥』1帖を書写校合す。安流折紙1紙を書写す。

 44歳(天和2年1682)安流折紙6紙を書写す。『秘護身法』1帖を書写す。『毘沙門天秘』興雅作(~1383。鞍馬山に参詣して毘沙門天の霊夢を感見する。高野山寶性院宥快に安流の奥藏を皆傳して正嫡となす。是に於いて安流は永く高野山に伝わり、益々その法灯を輝かす。)1帖を書写し密乗興隆の志を述ぶ。高松現證庵にて安流折紙42紙を書写校合す。祥光、義證、妙厳、真寂らの諸弟子をして助筆。

 45歳(天和3年1683)高松現證庵にて安流折紙78紙を書写校合す。懐義、宥英、慧光、真寂、普光ら助筆す。尾道西国寺宥範選『大疏妙印鈔』80巻(大日経疏20巻の注書なり。巻1に大意縁起分と題して玄談を記し、巻2以後疏の文を注釈す。妙印鈔口伝の奥に大日経の皮肉骨髄の問答あり。)を書写す。

 46歳(貞享元年1684)延命寺にて安流折紙12紙を写校す。教興寺に於て安流折紙34紙を写校す。延命寺において安流折紙99紙を写校す。蓮体、祥光、性螢、懐義、宥英、慧光、真寂、普光ら助筆す。『金剛頂降三世儀軌(檗版校本)』(不空訳。空海・圓仁・恵運・圓珍請来。金界軌、明王部、降三世法。降三世明王の本軌。初に略法を明し、次に三十七尊立の具足次第、後に明王の形像を説く。)、『受五戒八戒文(檗版校本)』(不空訳。空海請来。五戒並に八戒受持の法を説く。)を書写す。延命寺に於いて天野山金剛寺の海応ら47人のために儀軌の伝受を始む、伝受の暇黄檗版密軌を高麗本及和本密軌とを以下対校す。『受菩提心戒儀』(不空訳。空海・圓仁・恵運・圓珍・宗叡請来。真言行者三昧耶戒受戒の威儀を説く。東密安祥寺流には本書を以って、三昧耶戒の本軌とする。)『三摩地法』(金剛智訳。空海・圓仁・恵運・圓珍・宗叡請来。金界軌、大日法。金剛界の大日を本尊とし、八供四摂を眷属として行ずる法軌なり。)、『底哩三昧耶不動尊念誦法』(不空訳。空海・圓仁・恵運・圓珍請来。雑密経、明王部、不動法。不動明王の本軌なり。釈尊の所説にして、入道場以前の印明・結界・五供養・根本印・正念誦・廻向等、出道場以後の飯食・寝息等の印明及び功徳・呪詛法・二種の畫像法・十四根本印等を説く。)、『金剛頂分別聖位経』(不空訳。空海・圓仁・圓珍・宗叡請来。金界釈経、灌頂法。初に序、次に四佛・四波羅蜜・十六大菩薩・八供・四摂の三十六尊出現の理趣、後に三十七尊の加持に依って得る所の功徳を説く。真言宗の宗名四種法身説は此の経の序文に據る。)、『八大菩薩曼荼羅経』(不空訳。空海・圓仁・恵運・圓珍請来。雑密経、菩薩部、八大菩薩法。佛補陀洛山観自在宮殿にありし時、藏月光の請問に応じて、観音・慈氏・虚空蔵・普賢・金剛手・曼殊室利・除蓋障・地蔵の八菩薩が釈尊を中心として囲繞せる曼荼羅を説き、後に八大菩薩讃を出す。)、『菩提場一字頂輪王経』(不空訳。空海・圓仁・圓珍請来。雑密経、経法部、菩提場経法。菩提場経法の本軌。佛鹿苑に在ませし時、過去世の因縁を説き大神通を現ず。時に文殊菩薩出現して菩提道場荘厳陀羅尼を請問す。佛その陀羅尼を説き給うや金剛手菩薩出現して陀羅尼の功徳及び種植善根の法を問う。佛乃ち舎利塔の功徳・壇法・白芥子加持・畫像法・曼荼羅・諸真言・印法等を説く。)芝三田の商家和泉屋覚心宅で『宝珠法』(不空訳。胎金合経、宝珠法。如意宝珠の功徳を広説したもの。この経不空訳と言い、終に弘法大師請来と記されるが、浄厳の言うが如く和製の偽経なり。)1帖を写す。

 47歳(貞享2年1685)三田の寓居にて安流折紙1紙を写す、『釈迦降魔讃』(檗版校本)を写校す。牛込多門院裏息障庵にて安流折紙4紙を写校す。

 48歳(貞享2年1685)安流折紙2紙を書写する。4月14日江戸牛込多聞院に於て遍阿ら96人のために儀軌の伝受を始め翌年6月11日に満ず。この間息障庵に於て黄檗版密軌を高麗版本及び和本を以て対校し伝受に備う。

 49歳(貞享4年1687)昨年に引き続き多聞院に於て密軌を伝受す。因て儀軌の校合に励む。大光闍梨より『三輪流光秘三輪』1紙を受く。教興寺に於て安流折紙6紙を写校す。

 52歳(元禄3年1690)安流折紙1紙を写校す。

 55歳(元禄6年1693)霊雲寺にて儀軌の伝受を始む、5月8日起首して翌年5月16日に至る177座にして畢れり。初分2百人許、中分3百人許、後分2百人許と甚だ盛大なり。儀軌伝授、今年分85会にして終る。

 56歳(元禄7年1694)『孔雀経』(不空訳。空海・圓仁・圓珍請来。雑密経、経法部、孔雀明王法。莎底比丘が大黒蛇に螫されて悶絶する時に佛之を救い及び一切衆生を救わんが為に、阿難に対して此の孔雀明王経を説く。東密にて請雨法を修するに、小野方は請雨経によるが、廣澤方は寛助以来当経によりて修す。)1紙を写校す。

 59歳(元禄10年1697)『諸流灌頂秘蔵鈔政祝』(応永1394-1428年間に尾州大須寶生院政祝が受法せる諸流の灌頂印信を集めたもの。醍醐の下三十六流、小野の下十四流、廣澤の下二十一流他計七十三流を集録する。野澤に通じて灌頂印信を集録した中でこれを以って白眉とすべし。)1冊を書写す。

 60歳(元禄11年1698)『矩里迦龍王像法』(失訳。雑密経、倶利迦法。矩里迦龍王の像及び龍王法身印真言等五種印明を説く。)、『熾盛光仏頂儀軌』を校合す。安流初授2部を書写す。10月儀軌の伝受を始め翌年に至る、衆徒117人参す。

 61歳(元禄12年1699)儀軌伝受を昨年に引き続き再開す、儀軌伝受133席にして成満す。『聖無動尊一字出生八大童子秘要法品』、『般若守護十六善神王形体』(金剛智訳。雑密経、十六善神法。十六善神各々の形像を説く。)を書写す。『実厳記』1冊を校合して、大師門流中、実厳(~1185。安祥寺第12世、安流第2代。)の右に出る者なしの感を深む。『小野代代印信目録』(光意輯。小野代々の印信・紹文を集める。のちに印明を続加せり。安流に之を相承する。)1帖を書写す。『八字文殊儀軌』を写す。

 62歳(元禄13年1700)書林の需めに応じて杲宝の『演奥抄』(大日経奥疏の注書なり。類書中最も権威ある書なり。杲宝が起稿せしより四十三星霜を費やしたが完成せず、その後400年を経て浄厳・慧光両師相次いで校訂の任にあたり開版する。普通杲宝撰とするが五学匠の心血を注ぎたる結晶なり。)56巻の校正を始む。

 考察

 浄厳の教理習得の方法として、書写、校合という手段がある。経、儀軌、口訣を読むだけでなく、書くことにより深く思惟し、校合により教義内容を自らの基盤としている。

 浄厳の儀軌との係わりに関しては、32、33歳の安流折紙の書写を中心とした知識取得の時期。転機となる36歳での真乗院孝源による儀軌伝授。その後、43歳『悉曇三密鈔』8巻の撰述により真言の基礎となる悉曇の習熟があげられる。44~47歳での写校は、「経軌依本」の確認時期。48~61歳での対校を含む儀軌伝授の時期となる。『秘密儀軌』8帙、及び体系的な儀軌伝授の確立は、後世への多大な貢献となる。

 浄厳は「経軌依本」に基づき儀軌校合を徹底して行っている。どのような校合をおこなっているのか現物を確認する。

儀軌は諸菩薩部 秘密儀軌 震5『観自在大悲成就瑜伽蓮華部念誦法門』(35)を使用する。

添削箇所(   )内は私見を記載する。同事例は省略する。

 1右 題名の下に「海仁珍」(空海、円仁、円珍)を追加。4行目~7行目 凡そ~彼行までを「序文」と上余白にあり。5行目 推(誤字修正)→「摧ウシナイ和本」と追記。

 2左 2行目 漢字真言に「カラカラ アラジュギャラ カアラダ ヤ」のフリあり。6行目真言に「シビ(左にセイの記載あり)テイ マカ シビテイ カダニ」のフリあり。

 3右 3~7行目 真言に「ノウマクシッチ エイ 挿入「一」ヂビ キャナン サラバタタギャタナン アンビラジビラジ マカバジリ サタサタ サラテイサラテイ タレイタレイ ビダマニ サンバンジャニ タラマチ シッダゲイレイ チリヤウ ソワカ」のフリあり。 

 3左 10行目 真言に「タタギャトウ 挿入「二」バムバヤ 文末引の左に「三」追加あり。

 5右 ビソボダヤビソボダヤ サラバビギンナウ ビナウヤキャギャタハナジ「貳」漢字誤字修正ビダタキャラヤ ムハッタ沛→「沛文恐是柿字」と上余白にあり。ソハ」文末に「引」追加あり。

 10左 1行目 咒空→「法性理也」と注釈あり。

 12右 2行目 上余白に「五三二四六」とあり。三→「五」、金剛→「三」、此→「二」、蓮華→「四」、似→「六」とあり。国訳秘密儀軌には、「復た金剛蓮華の身、三昧金剛に入る。此の蓮華以て我が身を成ず。」という訓読だが、浄厳和尚の指事では「金剛蓮華の身に此の金剛蓮華三昧を以て我が身を成ず。」となる。

 15右 3行目 上余白に「流通分」とあり。5行目 左側に「聖観自在成就大悲蓮華部心瑜伽念誦法一巻和本後題如此」とあり。最終行に「貞亨3年9月24日校之點之 河州延命寺沙門浄厳40有8」とあり。

 以上が、校合の実際であるが、ここから見て取れるのは、第1に、真言は全て漢字の表音文字で記載されているが、カタカナでふりがなされ、正しい発音ができるようになっている。第2に儀軌の漢字の誤字が修正され正しく表記される。第3に上余白に次第でいう次の項目が追記されている。第4に悉曇の字義が追記されている。儀軌を丁寧に見直し、誤っている箇所は再度正しい形にする。また、真言の発音に関しても、悉曇の字義にまで遡り、誤っている箇所は正しい単語、発音に修正している。上部余白の追記項目を見ると次第作成を意識して記載している事が理解できる。つまり浄厳版儀軌(次第)に生まれ変わっている事がわかる。

 

  1ー5 悉曇、講義、修法等

 

 24歳(寛文2年1662)良意、江戸にて降伏の秘法を修す。覚彦助修す。

 32歳(寛文10年1670)『梵字一目鈔』を書写す。『普賢延命法(新選)』『閻魔天供都状付安祥寺流(新選)』を修す。

 33歳(寛文11年1671)『東禅院悉曇鈔』心蓮撰を書写す。

 38歳(延宝4年1676)『一字頂輪王儀軌』を修す。

 40歳(延宝6年1678)善通寺で雨請いをして霊験あり。

 41歳(延宝7年1679)讃州多度津桑多山道隆寺にて土砂加持法要一七日を修す。

 43歳(天和元年1681)延命寺にて『金門鳥敏法』(五大虚空蔵法)を修す。『悉曇字義講述』6冊、『悉曇三密鈔』8巻を撰す。

 44歳(天和2年1682)延命寺にて『太元帥秘法』『如法愛染法』を修す。

 46歳(貞享元年1684)愛染明王の密供を修す。教興寺に於て太元帥法を修行す。

 48歳(貞享2年1686)教興寺大殿並に僧坊再建のため、秘法如意輪法を修して救世大士の加護を祈る。

 50歳(元禄元年1688)教興寺に於て太元帥法21ヶ座修して天下太平を祈る。信貴山の快誉上人、宝塔の復興を計り、浄厳を請じて地鎮並に吠天供を修せしむ。

 51歳(元禄2年1689)7日間教興寺に於て恒例の太元帥法を修して天下太平を祈る。松平綱広の請により太元帥法を修して病気平癒を祈る。

 52歳(元禄3年1690)7日間大元帥法常の如し。

 53歳(元禄4年1691)瑞雲庵にて7日間大元帥法常の如し。 

 56歳(元禄7年1694)法隆寺蔵古貝葉を得、その梵文を謄して梵唐対訳を始む。法隆寺古貝葉二片の梵文を対訳し了えてその跋文を書く。

 57歳(元禄8年1695)『悉曇字記烏地那鈔』1巻の草稿成る。

 59歳(元禄10年1697)『風天法』を撰し、息災火災の修法をなす。

 61歳(元禄12年1699)霊雲寺灌頂殿落慶供養曼荼羅供を修す。

 講義に関しては、32歳よりほぼ毎年開催されている。頻度の高い講義は以下の通りである。1位15回『即身義』2位11回『梵網古迹記』3位8回『普門品』4位7回『理趣経』『悉曇字記』『菩提心論』7位6回『般若心経秘鍵』『業報差別経』9位5回『大日経住心品疏』『光明真言経』『阿字観』『南山教誡儀』 他27本

 考察    

 講義に関しては『即身義』等、空海に関する撰述が9本、『理趣経』等、経に関する撰述が15本、戒律に関する撰述が7本、民衆教化他8本、となる。回数でいくとやはり空海関連の頻度が高く。次に戒律関連となっている。

 修法に関しては幕府関係の加持祈祷以外にも、自坊並びに各所で行なっている。またここに記載されているのは、対外的な加持祈祷である。浄厳自身が撰述した次第に関しては、次第への朱字による注記等を見れば、ここに記載されていなくても実践していたと考えられる。

  

  1ー6 総括

 

 今回、伝記を考察した結果著者は、その生涯を黎明期、基盤期、飛躍期、円熟期の4期に分類した新しい考え方を提示したい。

 <黎明期>:17~29歳

 17歳(加行成満)から29歳(宝性院道場に於て、初めて実誓、意伝の二人に三宝院流の印可を授く。朝遍法印より安流許可、伝法阿闍梨位を重受す)までは、朝遍、良意二師僧に従い、事理の基礎を習得している。32、33歳で『即身義』、『悉曇字義』、『普門品』、『心経秘鍵』、『理趣経』、『菩提心論』を講じている事から見ても空海著作、胎金の根本経典は学習済みであることがわかる。修行の実践に明け暮れ、今後の方向性を見極める時期である。

 <基盤期>:30~38歳

 31歳から儀軌の書写、写校、校合及び、各項目の活動が活発化している。

 32、33歳で天部、菩薩部、如来部、請雨経、理趣経、御七日、臨終印明等、250本の安流折紙、初授の書写、写校、校合を行う。34、35歳で十八道・金剛界・胎蔵界・不動初行私記を撰す(古安に随う)。30代では、『即身義』、『悉曇字義』、『心経秘鍵』、『菩提心論』、『三教指帰』、の祖師著作に関する講義、『普門品』、『理趣経』の根本経典に関する講義、『因果経』、『八斎戒作法』、『阿弥陀経』、『薬師経』、『梵網経』、『尊勝陀羅尼経』、『梵網古迹記』など僧俗への教化に関する講義を実施している。活動拠点は、30代前半は泉州、後半には洛西に移動し、仁和寺の顕證、孝源に従い西院流の許可を得ている。これにより野澤二流を相承した。また、36歳で孝源より儀軌伝授を受け、経軌依本の思想が芽吹く。僧俗への結縁・受明・伝法灌頂は37歳から開始している。

 <飛躍期>:39~46歳 

 39歳で延命寺を創建し自らの拠点を確立し、翌年には自坊で受明、伝法灌頂を実施している。黎明期からの儀軌の写校を継続すると共に、行法に於いては、41歳で『通用字輪観口訣』、42歳で『受法最要』、45歳で『別行次第秘記』を撰していることから、観法、念誦の秘技を体得した。観法、行法の基礎である悉曇に関しても43歳で『悉曇字義講述』6冊、『悉曇三密鈔』8巻を撰し、真言の字義、字相に関しても已達の域に入っている。

 以上のように、事教二相が深遠堅固となった事により、儀軌の校正、校合も44歳で42本、45歳で113本、46歳で155本を行い経軌依本への足固めは整った。(黄檗版大蔵経は、浄厳40歳の時に鉄眼道光により刊行されている。浄厳は大蔵経の中より秘密経軌の目録を別出し、蔵中の欠本儀軌十余巻を加え諸人に買い求めさせた。)また、この3年間の儀軌写校は諸弟子の助筆を得ている。対外的には44歳で河内高安教興寺住職になり、西大寺衆分に加わる。活動拠点も、高松城主松平頼重との縁故を得ることにより武家社会への進出が始まる。46歳の時に、河内観心寺大衆、天野山衆徒の依頼により弘法大師八百五十回忌曼荼羅供・誦経の表白、諷誦文を作っていることからも、浄厳和尚の地位、世の中からの評価が高まっていることがわかる。

 <円熟期>:47歳~遷化64歳 

 47歳、飛躍期に培った力をもとに江戸に進出。松平家を筆頭に武家社会との繋がりを強化しつつ、49歳、日光山参詣を契機に関東圏での民衆教化(三帰十念等の法化、菩薩戒、光明真言、臨終大事、血脈等)を僧俗に授け既存の近畿・四国圏も含め、浄厳の名を世の中にひろめる(53歳までに僧俗合わせ受法者66万人が入壇している。)その結果、52歳、柳沢保明と出会い、53歳の3月に五代将軍徳川綱吉の御前で普門品等を講じ、将軍の信を得る。8月には保明の推挙で幕府より土地、金三百両を下賜され永代幕府の祈願所として霊雲寺を建立する。将軍徳川綱吉、老中柳沢保明には遷化するまで寵愛される。

 霊雲寺の建立と共に、今で言う新安流の基準となる『行法軌則』を確立する。加行、初行、正行に関する儀軌、次第が完成する。特に『随行一尊供養念誦要記私鈔』3巻は56歳から遷化する64歳までかけた大作である。

 また、儀軌に関しては、伝授に心血が注がれる。48歳(受者96人、174座)、55歳(受者200~300人、177座)、60歳(受者117人、134座)と江戸で儀軌の伝授が行われる。諸儀軌伝授次第目録には、280部にわたる儀軌を系統的、浅深略的に組織立て伝授のやり方を指事している。このやり方は、弟子に継承される。

 著作に関しては、新安流の根本聖教、将軍徳川綱吉、諸大名の加持祈祷の要請に伴う著作(太元帥、五大明王、薬師、仏眼、大般若経等)、僧俗への伝授に伴う著作(結縁灌頂、三昧耶戒、受明灌頂、胎蔵界灌頂等)、講義に伴う著作(『法華新註冠註略解』、『冠注即身成仏義』、『大日経住心品疏冠注略解』等)、民衆教化に伴う著作(『弁惑指南』、『阿弥陀三字弁』、『光明真言観誦要門』等)、悉曇に関しては、56歳の時に柳沢邸で開帳された法隆寺寺宝の内、法隆寺古貝葉二片の梵文対訳を行い跋文を書いている。円熟期の著作は実践に必要とされたものが多い。

 浄厳56歳の時に、霊雲寺は関八州真言律の本寺を幕府より命ぜられる。その際、幕府より真言律の名称宗義を下問され、『真言律宗注進書』で如法の真言宗である事を強調し、西大寺系(律為本)より更に密教為本の立場であると答申する。甥であり、高弟でもある蓮體の『浄厳大和尚行状記』を確認すると、35歳の時、菩薩戒を授かり諱名を浄厳と改めた際、南山の理観が尋ねてきて、密乗の沙門は三昧耶仏性戒を受持しているのに、どうして権教の律儀に強くこだわるのか」と問う。浄厳は、「仏法は戒定慧の三学を本としている。戒が初めにある。高祖の御遺誡には顕密二戒堅固受持と言われている。あなたのいう三昧耶仏性戒とはどんな誡か。飲酒食辛四波羅夷戒さえも護持できないのなら、大師のいわれる、但し婬食を念ずること彼の羝羊の如し、という分斉ではないか(36)。

 つまり、浄厳は浄厳の名を名乗った時より、野澤諸流を学び、経軌の原点をあたり、末法の世の中で三学のうち特に戒を重要視して真言律宗を開創したわけである。『涅槃経』で釈迦が次のように説く、法の鏡という法門がある。これを体得した者は、いつでも自分で自分のことを菩提道から逸れることなく歩んでいるか判断できるとされる。第1に佛(ブッダ)、法(ダルマ)、僧(サンガ)への揺るぎない信であり、第2に戒定慧の三学に通逹することである。釈迦は比丘に対し次の法話をよくされた。

  戒に充たされて、三昧は大きな効果を持ち、大きな功徳を持ち、三昧に充たされて、智慧は大きな効果を持ち、大きな功徳を持ち、智慧に充たされて、心は正しく漏れ込むものから解脱する。すなわち、欲の漏、有の漏、見の漏、無明の漏である(37)。

浄厳はこの戒から始まる三学という真理を密教行法により具現化したのだと考える。

 

                     つづく