広報部長。
どーも僕です。
お久しぶりです。
いやいやいや。
まったくの油断。
完全に忘れてましたよ。
サァクルナインの更新当番が今日だったって話(;゚Д゚)
そーいえば「自分のブログ記事なんて楽しみにしてる人いるんすか?」という抵抗もむなしく、自分は第3木曜がブログ更新当番となってたんでした。
自分はすっかり忘れてたんですが、そこはさすが我らが妙現寺の広報部長。
とりあえず晒します♪

ツッコミどころはたくさんあるんですが(笑)
リュウージ以外はとりあえず放置します。
はたから見れば、痛いオッサン同士のやり取りなんでしょうけど。
でもね。
ありがたいじゃないですか。
きっとリュウ-ジは、記事更新のことなんてすっかり忘れてるかもしれないから、教えてあげなきゃっていう心遣い。
リュウ-ジの更新意欲を盛り上げてあげなきゃっていう心遣い。
そういうの、ひしひし伝わってくるんです。
ほっといてくれても良かったんですが
本当に真っ直ぐで熱く、優しい心遣い満載の、そんな広報部長なんです。
話変わりまして。
今週末の日曜、8/23。
妙現寺では、「門祖会・開導会 合同2祖会」という法要が行われます。
春の門祖会・夏の開導会・秋の高祖会。
妙現寺では年に3回の重要な法要があるんですが、今年は新型コロナウイルスの影響で、春に行われる門祖会が延期、夏の開導会と合同で執り行われることになりました。
本来なら本堂に大勢の人が集まって盛大に執り行われるはずの法要なんですが・・・
お参詣される方の安心安全を考えた形での法要となります。
マスクの着用や手指の消毒はもちろん、席の間隔もあけて。
収容人数に限りがあるため、法要は9:00と11:00の2回に分けて行われ、さらに参詣場所も3カ所に分散されます。もちろん換気タイムも設けられます。
法要の後に開催されるはずだった第10回妙現寺まつりも、残念ながら今年は中止。
お参詣される方は十分お気をつけて来寺してくださいね。
お参詣できない方のために法要の様子は妙現寺チャンネルでも絶賛中継予定です。
というわけで、妙現寺、、、
そして広報部長率いる新生サァクルナイン(生まれ変わり何回目!)をこれからも・・・
広報部長より↑
リュウージ@ロック(ブログスタッフ)
長崎原爆投下の日
8月9日(日)晴れ
75年目の長崎原爆記念日
世界に溢れるあらゆる【禍】【災】で報道が少ないように感じるけど、この日をしっかり感じて、決して忘れてはいけない日。
境内にお焼香台を設置しました。
7歳の時に広島にて被曝。現在、しばらくの沈黙を破り語り部として核兵器廃絶と世界平和を訴えています。
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一九四五年八月六日八時十五分、快晴の朝、 広島市内は、勤労奉仕や一日の生活が始まったばかりだった。高度九六〇〇メートルから投下された原子爆弾「リトル・ボーイ」は四十三秒後に爆発した。
その日、私は広島市東雲町の自宅の縁側そばで、〝家族合わせ〟というカルタを並べていた。前夜は何回も空襲警報があり、庭に作ってある防空壕を出たり入ったりで、朝になってやっと 解除されたのだ。
母が「今日も暑いね」と畑仕事の手伝いに出かけるのを見送り、しばらくしてふっと外に視線を向けたとき、赤紫色の閃光が頭の上から覆いかぶさるように、ピカーッと光り、腹の奥に ひびくような爆音がドーンとした。
私のすぐ前にはまっていた障子のガラスが、私を目がけて飛んできた。簡単服から出ていた手や足に、ガラスの破片がささり、血が流れた。あまりにも突然で唐突な出来事に、私はただ 驚き、ボーっとしていたようだ。
走り込んできた母は、「しっかりしんさい……」と叫び、気丈にも私の手足からガラスを抜き取った。そのことは、よく覚えているのだが、"痛い"と感じた 記憶はない。赤チンを塗り、シーツを破いて作ってあった代用包帯を巻き、頭の傷口は布で押さえて外へ逃げた。
そのとき、わが家の北の方に、まっ黒い煙がもくもくと湧き、空に舞い上がっていくのが見えた。
「お母ちゃん、あれ、なんじゃろうか」
「恐ろしいことになった。あんた、しっかりしんさいよ。お母ちゃんはブドウ畑の下で伏せとったんじゃけど、ブドウの葉が実をつけたまんまで 天に吸いこまれるかと思った」
そう話すうちに、まっ黒い煙の頂点が球状となり、きのこ形になっていった。
これが、世界で初めて兵器として使われた原子爆弾である。あのきのこ雲の下では、摂氏数百度といわれる熱線が、人間を一瞬に、影さえも残さない殺し方をしたのである。
また、この日死亡した人は七万とも十万とも推定されているが、どれほど多くの人が命を落としたか、その数は今も定かではない。
友だちがたくさん亡くなっていった中で、幼いながらも 私だけが生き残って申しわけないという思いで胸が痛かったことは決して忘れられない。
そしてこのときの放射性物質が地上を汚染し、いつまでも後遺症として被爆者を苦しめているのだ。
亡くなった母は、「ピカドンのこと、決して人にはいっちゃあいけん」と、固く口止めした。母の実家のある岡山の田舎へ転校した、私が思春期の頃、友達に「ピカちゃん」とか「原爆さん」 とからかわれて泣いたときから、ピカドンは、母と娘のヒミツになったのだ。
のちに兄嫁となった政子は、あの日、勤労奉仕をしていて顔や手、肩にまで痛ましいケロイドが残っていた。"被爆者を嫁にするな!"とささやかれ出した頃、しかし復員してきた次兄は、 彼女とどうしても結婚したいとゆずらなかった。五十一歳で、まだ若い命を落とすまで原爆症認定患者として生きた義姉は、癌末期、腹水で膨れあがった腹を抑えて私にいった。
「ねえ、私の体中を写真に撮っておきんさい。それで世の中の人に見てもらいんさいや。人が、汚いとか気持ち悪いとかいったら、うちはそれでええんよ。あんた、だまっとらんで、あの日、 恐ろしかったこと、皆にいいんさい」
母と私の二人の生活は、経済的には恵まれず、「女もこれからは、手に職をつけんとね」といい続けた母。遅れ遅れの勉強だったが、何とか看護学校を卒業し、その後、助産婦になり、いま、 生命の誕生の仕事に就いている。
あの日原爆で失った友達の数ほど、私の生涯を通して、出産に出会うことができるだろうか。
今、戦争で使うべく原子爆弾は、この地球を全滅させてもあまる 数が作り出され貯蔵されている。私の住んでいる町田市の上空を、この平和と見える時でも、米軍のジェット機がものすごい爆音で通りぬけていく。戦争一色だった母の子育ての時代には、 口をふさがれ、世の中を正しく見ることすら禁じられていた。終戦を知った日、「天皇様がおいたわしい」と号泣した大人を見て子どもたちが、今から恐ろしいことが起こるのではと心配した ことは、笑えない事実である。私たちはじっと、社会を見すえていかなければならない。
健康な赤ちゃんの誕生を願う中で私は、決して戦争でその命が奪われることのないようにと、祈るだけではなく、願うだけではなく、ふたたび被爆者をつくらない運動の列に加わっている。
"自分のために語るな"といって逝った母と、"子どもたちのために核兵器廃絶の運動に立ち上がって欲しい"といって逝った義姉。広島に生きた二人の女。
今、私は後者の道を歩んでいる。私の取りあげた命は、決して戦争には出さないという固い意志を抱いて―。【朝日新聞への投稿手記より引用】
外部リンクhttps://www.asahi.com/hibakusha/hiroshima/h01-00008j.html
真剣な気持ちをこめて
南無妙法蓮華経










