今回はいま話題の本を読みました。
まず『ごんぎつね』を誤読した小学生たちについて。教科書には、兵十の家に村人たちが集まり、葬儀の準備をしているシーンが描かれています。そこで教師は「彼らは大鍋で何を煮ているのか」という質問をします。すると多くの生徒が「死体を消毒している」「死体を煮て溶かしている」と回答したとのことで、筆者は日本人の国語力の低下を嘆きます。
しかしこれは国語力だけの問題なのだろうか?と個人的に疑問が。なぜなら子供たちが昔の葬儀スタイルを知らなかった可能性があるからです。今でもギリギリ田舎では通夜振る舞いや御斎を、近所の人や親戚が調理してくれるかもしれませんが、それ以外のほとんどは葬儀屋さんにお任せだと思うのです。そういう知識がない中で、精一杯考えた回答が「死体を煮ている」だったのではないでしょうか。ちょうどコロナ禍のニュースを通して、「もし伝染病で亡くなっていたのなら菌を煮沸消毒しなければならない!」と思ったのかもしれませんよね。
良い例として、澤村伊智さんの『ファミリーランド』という短編小説に、「愛を語るより左記のとおり執り行おう」というお話があります。そこには今から100年ほど先を生きるある家族が、「自分が死んだら100年前の形式で葬儀をしてほしい」という祖父の願いを叶えるため奔走する姿が描かれています。未来ではすっかり弔い方が変わり、葬儀やお墓参りはすべてバーチャルになっています。そんな時代を生きる彼らにとって、旧式の葬儀は思いもつかないことばかり。現在の常識で過去の常識を想像するのはとても難しいことだとわかります。そう考えると、「死体を煮ていた」と回答していた生徒たちも、自分たちが大人になったときには、子供たちに香典の説明をするのに苦労しているかもしれません。その頃にはネットで送金する世の中になり、香典袋の存在すらなくなっているでしょう。そんな状況で、教師から「参列者は袋に何を入れたのか?」と質問されても、なかなか難しいものがあると思います。
その他の内容については・・・そうですね。松岡亮二さんの『教育格差』、アンデュ・ハンセンさんの『スマホ脳』、新井紀子さんの『AIvs.教科書が読めない子どもたち』、バトラー後藤裕子さんの『デジタルで変わる子どもたち』、榎本博明さんの『読書をする子は〇〇がすごい』、宮口幸治さんの『ケーキの切れない非行少年たち』あたりを網羅した内容になっています。
あとはちょこっとここら辺の内容にも触れられていましたね。
コロナ禍の後に不登校の子が増えたという問題については興味深い話が。今はなぜ自分が不登校になったのか理由がわからないという子が多いのですが、それは国語力が低下したため、自分の状況を言語化できなくなっていることが原因だと言われています。さらにアメリカの調査によると、コロナ禍に生まれた子どものIQは、その前に生まれた子どもに比べて低いことがわかり、なんと100前後あったIQが78まで下がったというのですから驚きです。
ここにはおこもり生活を余儀なくされた影響で、国語力に必要な五感を十分に刺激することができなかった問題があります。五感を刺激する・・つまりは「体験」を通して人は国語力を身につけていくので、それらの機会を失うことは言葉を失うことを意味します。国語力=コミュニケーション能力なので、ここが低下した状態では、なかなか人との意思疎通は難しくなってきます。相手の言ったことを誤解するだけでなく、自分の気持ちもわからず、言語化できない。確かにこれでは人付き合いが億劫になってしまいますよね。
幼少期にネグレクトされてまともに国語力を養えなかった子たちも同じです。非行少年たちの多くは語彙力が乏しく、すべての感情を「死ね」「殺す」で表現する傾向にあるようです。悲しみが「切ない」程度なのに「死にたい」、怒りが「いまいましい」程度なのに「殺す」。彼らからすると、喜怒哀楽の感情にグラデーションがあることを知らないため、すべて同じ表現になってしまうそう。なので、なぜ相手が自分の言葉にショックを受けたり、激怒するのかを想像できません。しかし、これらもまた国語力を育て直すことで改善できるそうです。
困ったことに、日本では感情のすべてを「死ね」「殺す」「エグい」「ヤバい」でしか表現してこなかった子たちが、高いコミュニケーション能力を必要とする「感情労働」に就くシステムになっています。求人で「学歴・資格・経験不問」と書かれている職業の多くが、この「感情労働」です。本来ならできるだけ人と関わる機会がない仕事からリハビリしなければならないところを急に荒波に放り出すため、三年以内での離職者がとても多いそうです。
うーん。難しい問題ですよね。SNSの登場で短文文化に拍車がかかり、今では言葉を端折って穴あきだらけで話す子も多く・・本人にしか理解できない会話というのがよくあります。国語力を持っている子は、相手の不十分な日本語を想像力で補い理解してくれますが、そうでない者同士の会話は悲惨なことが多く、すぐに喧嘩になってしまいます。
私も先日、瞼が虫に刺されて眼科に行ったのですが、看護師?視能訓練士?に虫刺されの跡を指しながら「瞼が虫に刺されたので診てほしい」と言ったら、「赤い点の部分を診てほしいのですか?それとも赤くなっているところを診てほしいのですか?」と言われました。実は以前もものもらいができたときに、同じ人から思いっきり目が腫れているにもかかわらず「今日はコンタクトの交換ですか?」と言われたことがあり、またかと。そのときも「いえ、瞼が腫れて痒いので診てほしいのですが」と言ったら、それには一切スルーで「コンタクトは交換しないんですか?」と。しかもそこは医者も3秒診療で、診察室に入るなり「薬いります?」とか「薬出しておきます、お大事に」で強制終了させられてしまいます。何の病気で何の薬か説明するのが先でしょうが。もう入ったと思ったら、お付きの人が出口のカーテンを開けて「どうぞ」と出ていくように促し、次の人を呼んでいるのですよ。ありえない。しかし、近くに眼科がそこしかないのでどうしようもありません。(ちなみに毎回薬剤師さんがこっそり慰めてくれます笑)
何というか、まったく相手の気持ちを考えずに話してくる人たちだなと思っております。きちんと勉強をしてきているはずの医療関係者でコレですからね。国語力とは何ぞや?ですよ。ただ本書ではこうも言われていました。
ふむふむ。国語の成績と国語力はイコールではないということですね。確かに成績は良くても作文となった瞬間全然書けない子とかいましたね。学年一位のコミュ障とかも。クラスの作文発表でも頭の良い子が書いた作文より、サッカー少年が書いた作文の方が感情のエピソードが豊かで感動した記憶があります。やはりそれは机上で得た知識だけでなく、きちんと自ら五感を働かせ、体験して得た知識を持っていたからだと思います。筆者の言葉を借りると「読解力以前の基礎的な能力、登場人物の気持ちを想像する力とか、別のことを結びつけて考える力とか、物語の背景を思い描く力、自分の考えを客観視する批判的思考が不足」したまま大人になるのは避けたいところ。問題のすべてが国語力低下のせいだとは思いませんが、生きていく上で国語力は大切だと改めて実感しました。
<おわりに>
本書は国語力について書かれた本ではありますが、「最底辺風俗嬢」「有能な人無能な人」というギョッとするようなワードも出てきます。また、親のスマホ使用時間を問題視する章では、なぜか母親のスマホ使用時間だけを調査した結果が引用されていることから、日本の教育・子育て事情には他にも課題がありそうだなと思いました。
国語力とは、言語を中心とした情報を「処理・操作する能力」としての「考える力」「感じる力」「想像する力」「表す力」の統合体を意味します。語彙力と一緒に育てるべきなのが「情緒力」と「想像力」あり、それらなしでは生きていくことが難しいということがわかりました。
言葉を持つ者と、持たない者では、人生のハードルの高さがまったく違う。
まさかなと思う方は、中高生インフルエンサーのSNSをご覧ください。そこにあるコメント欄は酷いものです。自称・大学生の意味不明な日本語。四行ほどのコメントを「長すぎて読むのしんどいから誰かまとめて」という人。一言だけ書き残していくけれど主語がなく何を言っているのかわからない人。どうしたらそんな解釈になるのか理解できないコメント。まぁ地獄ですよ。しかも同じ文章でもちゃんと読めている人と、読めていない人とでは、意味が真逆になっていて喧嘩していたり。いったい何が起きているの状態です。ただそのおかげで、年齢を偽って書き込みをしているキッズは文章だけで見抜けてしまいます。一方で、着々と国語力のレベルアップに励んでいる子もいます。それはもう凄い格差になっているので、国は危機感を持った方がよさそうですね。
まずは、「自分の国語力を疑う」ことからなのかな?すべての学力の基礎となる国語の大切さに、多くの人が気づくこと。それがスタートになりそうです。
以上、『ルポ国語力を誰が殺すのか』のレビューでした!