今回ご紹介するのは、湊かなえさんのイヤミス傑作集になります。母と娘、姉と妹、男と女にまつわる人の心のイヤ~な部分を丁寧に描いた全6編。さっそくですが、簡単にレビューしていきます。

 

 

 

 

 

マイディアレスト

こちらは姉妹を差別して育てた母親に複雑な感情を抱く長女の物語。6歳下の妹・有紗は、姉の淑子が親から禁止されていたことをすべて許されて大人になりました。一番ネックだったのは男女交際について。淑子には異性から電話がかかってきただけで文句を言っていた母親も、有紗には甘く、男をとっかえひっかえした末に「できちゃった婚」をしても「孫に会える」と大喜び。問題はそれだけではありません。自由に育った有紗は、母親の言いなりになり疲れた果てた淑子を「処女」だとバカにし、マウントを取るようになります。

 

ここだけを読むと、母親と有紗が最低なコンビに見えますが、おそらく彼女たちには何の悪気もないのだと思います。母親が長女だけに神経質になっていたのは、自分自身に親としての自信がまだなかったからなのでしょう。そして淑子にはどこか精神的に危なっかしい部分を感じ取っていたのではないかと思います。一方、有紗は幼い頃から要領の悪さで母親を心配させている姉を軽蔑し、姉が出来ないことを代わりに自分がやってあげているつもりで親と接していたところがあったのではないでしょうか。この物語の悲劇は淑子が素直で優しい人間であったこと。真面目な人間ほどバカを見る。気の毒ですが、淑子は親の話など半分くらいに受け止めておけばよかったのです。

 

 

ベストフレンド

こちらは脚本家を目指す男女の物語。某テレビ局の新人賞に応募し、最優秀賞(1人)と優秀賞(2人)を受賞した3人が、プロデビューに向け互いをけん制し合ううちにおかしな方向へ行ってしまい―

 

 

罪深き女

母子家庭で毒母から育てられた(と思っている)幸奈は、同じアパートに越して来た正幸くんという男の子に同じ境遇を感じ取り、親切にしたくなります。しかしそう思っているのは幸奈の思い込みで―

 

 

前半3編のレビューはここまで。お次は後半3編のレビューになります。個人的に後半の物語はどれも面白く、いろいろと考えさせられる部分が多かったので、少しく踏み込んでレビューします!

 

 

 

優しい人

 

幼い頃から明日実は、母親から「誰にでも優しくしなさい」と言われて育ってきました。しかし母親のそれは自己犠牲を強要する優しさで、いつしか明日実は学校の友人や教師からも優しくするのが好きで、良い子でいるのが当たり前な子だと思われるようになります。

 

たとえば明日実はクラスでよく給食を戻してしまう生徒の吐瀉物を始末する係に任命されたり、みんなから嫌われている生徒のお世話係をさせられたりします。一度も自分から望んでやったことではなくとも、困ったことがあれば明日実に頼めば文句を言わずにやってくれるという空気があるのです。そんな明日実でも時には嫌なことを言われたり、されたりして、「イヤだ」という気持ちを伝えることがあるのですが、なぜかそういった場面になると周囲は明日実を責め、加害者である相手のことを庇うということが何度もあり…

 

その疑問に答えをくれたのは高校卒業後にできた彼氏でした。

 

 

「明日実は多分、人間って存在に興味がないんだと思う。深い関係を築くっていう前提がないから、逆に、誰にでも親切にできる。近寄ってきた人間は受け入れる。差し出されたものは受け取る。だけど、俺も含めて、相手はそう思っていない。自分は好かれているんだって勘違いする。もっと踏み込みたいと思う。すると、透明なバリアを張られていることを知る。バリアに触れられて、ようやく明日実は誰かが自分の内部に侵入しようとしていることに気付く。それを排除するか受け入れるかは、明日実次第」(P149)

 

実は高校時代に複数人から告白されたことがあった明日実。しかし、ほとんど会話すらしたことのない相手から付き合ってほしいと言われても毎回驚きのあまり「えっ、何で?」と訊ねてしまっていました。そのたびに相手から嫌われ、最低な人間扱いをされてしまうことに悩んでいた明日実でしたが、彼氏から上記のことを指摘されたことで「他人から見た自分の姿」を知ることになったのです。

 

明日実の優しさは本物ではなく、その場限りの付き合いだからと割り切っていただけの行為でした。だから、ほんの少し踏み込まれただけで我慢できず、拒絶を繰り返してしまったのでしょう。優しさに似た行為は、相手からすると残酷で、最初から何もしなかった人以上に傷つけてしまっていたのです。

 

白状すると、「これは私の話だ」と思いました。やりたくないことでも言われれば我慢してやっていた子供時代。大人にとっては都合の良い子だろうし、クラスとは一握りの自己犠牲の上で成り立っているとさえ思っていました。やりたくてやっているわけではないのに出した優しさのせいで、嫌われている男女から好かれて、それを嫌がると彼らに対し酷いことを言ったりしたりしていた人から責められて・・・。今さらながらこういうことだったのねと勉強になりました。私は間違っていたのですね。優しくないのは悪いことではないので、無理して優しさなんて引っ張り出さなくていいのかもしれません。

 

 

 

ポインズンドーター

 

こちらは表題になっている部分のひとつ「ポインズンドーター」の感想です。「毒親」の物語はよくありますが、「毒娘」の物語はなかなか貴重です。ただこの話、娘視点で読めば、そこにいるのは立派な毒親なんですよ。自分の信じた正しさや理想を娘に「親」や「大人」の権利を使って押し付けてくる親。しかし、これは親サイドからすれば「子供の幸せを願って何が悪い」という愛情になります。

 

正直、これはどちらの意見も間違いではないと思います。おそらくこの親子に足りなかったのは会話でしょう。母親が一方的に畳みかけるタイプの会話はあるのですが、いわゆる言葉のキャッチボールというタイプのコミュニケーションはほぼ皆無。なので娘は親に本音を話す前に「きちんと受け取ってもらえないから」と諦め、自分の中にどんどん本音を話した場合のヒステリックで恐ろしい母親像が出来上がっていきます。

 

そうしているうちに娘の中の母親像は般若化し、もはや現実とかけ離れたものになっているのですが、一度固定されたイメージはそう崩せません。そこに追い打ちをかけるように母子はすれ違います。いつしか娘は母親とのやりとりの中で偏頭痛を起こすようになり、医師からストレス性のものだと診断されるのですが、それを母親は自分ではなく友人のせいだと決めつけます。ここで母親=支配的、誘導的なイメージは固定し、この人の言うとおりにしていてはいけないというおもいが芽生えだします。

 

結局、娘は母親から逃れ、大反対されていた女優になります。そこで娘は自分の親が「毒親」であることをテレビや暴露本で披露するのですが、その後母親は自殺してしまいます。「あなたの悲劇のヒロインごっこに付き合わされるのは、もううんざりよ」という言葉を遺して―

 

 

 

ホーリーマザー

 

続く「ホーリーマザー」は、自殺した母親を擁護する人たちが愚かな娘に対し制裁しようとしているところから始まります。彼らは、世の中にはもっと酷い親がいると言うのに、この娘は親から教師になれ、本を読め、友達を選べ、男の子と夜遅くまで遊ぶなと言われただけで、親のことを束縛しているだの、支配しているだの、テレビの前で「毒親」認定するなんて大袈裟だと憤慨しています。

 

確かに言葉にすると、親として当たり前の注意や教育に見えますよね。また、実際にこの娘が通っていた学校の同級生には、親から売春を強要され、妊娠し、堕胎させられた挙句、子供を産めない体にされた子がいただけに、「ただの反抗期で母親を毒親認定し、世間に晒したワガママ娘」だと呆れられます。

 

さらにこの娘は、学生時代に親友だった理穂から「あなたのお母さんは毒親ではない」と言われ激怒します。なぜなら理穂自身も当時、毒親に悩んでいたため、すっかり今も「同志」だと思っていたのですが、急な裏切りに遭い困惑したからです。

 

実をいうと、理穂はとっくに親と和解していました。親と本音でぶつかり合ったのが早かったため、毒親スパイラルから抜け出すことができたのです。その後、自らも母親となった理穂は、今では娘をおもう母の気持ちが理解でき、逆にいつまでも毒親病を患っている友人に対し嫌悪感でいっぱいになっています。

 

 

きっと、この人は根の部分では苦しんでいないのだ。女優としての人気が下がったり、役に恵まれなかったりと、人生が上手くいかないと感じる時だけ母親のせいにして、苦しんでいるフリをして、ダメな原因はすべて自分の外にあるのだと、無意識のうちに自分に思い込ませようとしているのだ。(P235)

 

理穂にはもうひとつ自分が毒親病から抜け出せたと思う理由がありました。それは姑の存在です。結婚し、姑が出来てからは、自分の母親はなんてマシな人だったのだろうと心から思うようになったのです。そして多くの人がそうやって娘から卒業していくものだと実感したからこそ、まだ母親のことでくずぶり、終わらない反抗期の真っ只中にいる友人を愚かに思うのでした。

 

 

 

感想

 

最後の理穂ちゃんは一見マトモなことを言っているようで、実は一番ヤバイ子だったのではないかなと思います。この子多分やってんな、と。友人親子のいざこざに油を注いだのはコイツだな、と。そして自分自身でとてつもない毒親になる要素を抱えているとを感じているため、必死ですべての母親を肯定しないと立っていられない状況に陥っているのだと思います。そうすることで、これから自分が我が子へやろうとしていることも正しい行いであると信じれるはず・・・

 

うーん。歪んでいます。だって理穂ちゃんは胸の奥底ではまだ母親のことを許せていないんですよ。ただ、自分が母親になるにあたって彼女のことを認めるしかないのでそう思い込んでいるだけ。なので親から子へ悲劇は繰り返すのでしょう。

 

一方、女優になった子は、もう一生むすめ心から逃れられずに苦しむでしょうね。こっちは結婚したとしても、母親の干渉は増すばかりで理穂ちゃんのようにはいかないんじゃないかなぁ。まぁもう死んじゃったのでタラレバですが。

 

彼女たちのような親子は依存度よって関係性は変化したり、変化しなかったりですよね。結婚して、子供が出来ても、実親が心底イヤなら理穂ちゃんのように依存せずに離れるだろうし。なんなら結婚を機に縁を切った状態になる人もいるわけで。結婚しても母親におんぶにだっこな人は、ずっと母親の文句を垂れていて、それこそ反抗期みたいだし。こればかりは環境や状態だけでは語れない問題ではないかと思いますね。

 

ただね。ひとつだけ言えるのは人って大人の姿をしていても、実は中身なんてコドモのままなんじゃないかということですよ。母親だからって立派でも完璧でもない。なんだったら幼稚な人もいる。だからといって開き直って無責任な親になってはいけないのだけれど、あまり自分や他人に期待しすぎるのも違うような。

 

親子揃って自分の理想を相手に押し付け合うとこじれてしまうのは確かなので、自分にも他人にも期待しない方が、本当に見つめるべきものに集中できるのではないかと思うのです。

 

理穂ちゃんは最後に気づきます。「バカじゃないの。母とか、娘とか―。」と。誰かのせいにして生きるというのは、ある意味、誰かのために生きているようなもの。そう、この「ポイズンドーター」も「ホーリーマザー」も、いろんな女性の視点で見つめてみると、まぁみんな自分の好きに人生を見ているよね、自分勝手な解釈を他人に押し付けているよね、とわかります。誰の考えが正しいというのはひとつもありません。だからとてもバカらしい。誰かのせいにしているというのが、その人視点だけのストーリーなのでバカらしくなってくるのです。

 

自分のために生きよう

 

究極はコレなんですね。

 

ポイズンドーターは、ホーリードーターでもあり、ホーリーマザーはポイズンマザーでもある。

 

多分誰もが両方を持っている。だからといって自分を責める必要はなく、毒な部分に気付いたら自分に優しくして、毒抜きすればいいのです。優しさは誰かに押し付けるものではなく、自分のために使うもの。そうすれば「良かれと思って」の迷惑を無意識にせずに済むし、自分が幸せになれば過去の痛みも和らいで、憎んだ相手を許せるようになるのかも?

 

まとめると、本書は【親の心子知らず 子の心親知らず】レベルまでの毒親子ストーリーなので、虐待するような家庭の親とは違います。そっちはもう犯罪なので、「毒」では済まされません。本書はその「毒」の範囲内に収まっている人たちにオススメする一冊なので、あ、自分もそうかも?そうだったかも?と思ったらぜひ手に取ってみてください。

 

それにしても、なぜイヤミスってサクサク読めちゃうのでしょう?

 

ここに人間の本質が隠されているような気がします。

 

 

以上、『ポインズンドーター・ホーリーマザー』のレビューでした!

 

 

 

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