本書は平野啓一郎さんが2019年 12月6日の大阪弁護士会主催の講演会「芥川賞作家 平野啓一郎さんが語る死刑廃止」での記録をもとに、2021年10月12日に開催された日弁連主催のシンポジウム「死刑廃止の実現を考える日2021」にてコメントした内容などを加え、全体を再構成し、加筆・修正を行ったものになります。

 

学生時代は死刑賛成派だったという平野さんですが、現在は反対派であるそうです。今回はその理由をまとめたものを感想と合わせて書いていこうと思います。

 

 

死刑廃止の国際的な趨勢に反し、死刑を存置し続ける日本。支持する声も根強い。しかし、私たちは本当に被害者の複雑な悲しみに向き合っているだろうか。また、加害者への憎悪ばかりが煽られる社会は何かを失っていないだろうか。「生」と「死」をめぐり真摯に創作を続けてきた小説家が自身の体験を交え根源から問う。(あらすじより)

 

 

 

 

死刑廃止を求める理由

 

①冤罪による死刑を防げないため

 

②基本的人権の尊重を掲げる憲法は、人を殺すことを禁じている(しかし死刑はこれに矛盾している)「人を殺してはならない」ということは、絶対的規範であらなければならない。「事情があれば殺していい」という相対的規範であってはならない。国が率先して倫理観を失うと「やられたらやり返していい」社会になる。何か特別なことがあれば、人を殺してもいいという考えは、殺人犯と同じである

 

③加害者の「自己責任」を追及するだけで、社会は「責任」を負わなくてもいいのか。重大犯罪の事例を調べると、加害者の生育環境が酷いケースが多い。国はそれを放置しながら、加害者が罪を犯したとたん、死刑にして何もなかったかのようにするのは、職務怠慢ではないのか。劣悪な環境の中でも犯罪に手を染めない人も多くいるが、そういった人には運よく人生のどこかで真っ当な方向に進むきっかけがあったり、人との出会いがあったのではないか

 

④多くの研究が、死刑には終身刑に比して、特別の犯罪抑止効果がないことを示している。逆に「死刑になりたかったから」と重大事件を起こす事件が2000年代から相次いでいる

 

⑤残念ながら、「死」や「恐怖」からは相手に反省・更生を促すことはできない。教師の生徒への体罰もこれと同じである

 

 

 

被害者の心に寄り添うとは?

 

・被害者に「ゆるし」を求めるのは苛酷である。しかし、死刑が執行されたら、すべては「終わった」ことにされてしまう。被害者の中にはその数だけ色々な考えがあり、複雑な感情が混在している。誰もが死刑にしてほしいと求めるわけではない。謝罪の言葉を聞くまでは生きてもらわなければ困るという人もいる。死刑を求めないということが、犯人をゆるすということではないのにも関わらず、死刑を求めない=あんな犯人をゆるすなんて!と社会が勝手な考えを押し付けると、被害者は本音を話せなくなってしまう

 

・日本は被害者へのケアが遅れている。世間のいう「被害者の気持ちを考えろ!」は、ただ犯罪者の死刑にだけ同調している場合が多い。被害者は犯罪に巻き込まれたうえに、社会からも置き去りにされていると感じており、精神的なケアや生活の支援が必要な状態である。被害者へのケアを重視することで、被害者側の考え方にも変化が訪れるかもしれない。逆に、被害者へのケアを怠れば死刑を廃止する方向に議論は進まない

 

・被害者を「憎しむ人」として規定するのはよくない。被害者への感情を犯人への憎しみという一点だけに単純化して連帯しようとするのは残酷である。なぜなら、被害者の心に寄り添うというのはこの方法だけではないから。憎しみだけに共感するのではなく、被害者が抱えているもっと複雑で繊細な思いに耳を傾けるべきではないか

 

 

 

なぜ死刑が支持され続けるのか

 

日本における人権教育の失敗

日本では「共感能力」を育てることにだけ力を入れ、「人権」を無視している。そのため「人権」を感情面でだけ捉えがちで、共感できない相手には差別も暴力も”仕方がない”と思い込んでいる。

 

例:いじめに遭って不登校になった子がいる。しかし、クラスメイトは「あの子には嫌われても仕方がない原因(空気が読めない、生意気)がある」という。それを聞いた周囲はいじめられた子に対し、「いい子じゃなかったんだね」と思う。だったら、自業自得なので、いじめはよくないけれど、かわいそうではないと判断してしまう。共感できないことは、無視されてしまう。しかし、これを権利の問題として考えれば、いじめという行為は暴力であり、決して許されないことで、それが原因で学校に通えないことは教育を受ける権利を奪われているということになる。教育を受けられなければ、貧困に陥る可能性があり、将来の生存に深刻な影響を及ぼす。本来はこの侵害された権利をどう回復すべきか、訴えられた側は向き合わなければならない。

 

メディアが強める勧善懲悪への共感

日本で長く親しまれているアニメやドラマは勧善懲悪の物語が多く、そのことが正義をめぐる考えに方に長年影響を与えている。

 

死をもって罪を償う文化

日本では昔から、死=謝罪、罪悪感、自ら責任を取る、という意味がある。ここには、死なずに生き続けていることには無責任であり、罪を自覚していない、社会に対して本気で謝罪していないという価値観が隠れている。しかし死ねば本当に責任を果たせるのか。一生をかけて償ってほしいという気持ちも存在していいのではないか。

 

 

 

恐怖とやさしさ

 

最後に感想を書きます。

 

日本はずっと恐怖で国民を支配している国だと筆者はいいます。「人に迷惑をかけるな」「(弱者に対し)自己責任」「(弱者に対し)税金の無駄」インターネットにアクセスすれば、暴論が目立ちます。

 

このような徹底した自己責任論を強いる社会では、その存在を抹殺すればいいという発想が生まれやすいのです。これからの日本が「憎しみ」で連帯する国になるか、「やさしさ」で連帯する国になるかは、日本人にしか選べません。

 

私自身は死刑について廃止よりの中間にいます。正直難しいですね。

 

殺したいくらい憎い犯人というのは、気持ち的にわかりますし、ずっと世に出て来るなと思ったりもします。「人権」が頭の中によぎっても、再犯率の高い罪を犯した人には”絶対に二度とやらないようにした状態で”釈放してほしいと思っています。たとえそれが過酷な治療を必要とすることだとしても。

 

死刑囚に関しては、「簡単に死んでもらっては困る」とよく思います。できれば直接会って文句を言いたいし、心からの謝罪を聞きたいです。まぁ、聞いたところでゆるせないと思いますが。ただ、先に死に逃げされると、心の中がスッポリして逆に感情のやり場がなくなってしまう不安があります。

 

事件の真相がうやむやのままで死なれても憎しみはずっと続くだろうし、被害者遺族だからといって残りの人生をずっと「憎しみ」の感情だけに費やさなければならないとも思いたくありません。ただ、普通の生活を送り、普通に過ごす権利だってある。被害者遺族はこうであらなければならないという規範はないと思っています。

 

まぁ、こんなことを書いて、私はまったく被害者遺族の気持ちはわからないのですが。きっと、もっと複雑な気持ちを抱えているのだと思います。だから必ずしも死刑がベストだとは思えないのです。

 

もし、私が被害者遺族なら、加害者には罰を与えるより、心の底から悔いて欲しい。無理かもしれませんが、その可能性のためにできることは何でもしてほしいと思うかもしれません。そのためには(日本にはありませんが)終身刑になってもらい、死ぬまで罪と向き合ってほしいです。むしろ、そのために死刑であっては困ると言う方が正しいかな。

 

死刑賛成派の人にはイライラする本かもしれませんが、読んで損はないのでぜひ手に取ってみてください。文章がまとまっていて、とても読みやすい一冊です。

 

以上、『死刑について』のレビューでした!

 

 

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