チェルミー図書ファイル167

 

写真:受刑者の作ったフォーク(矯正展にて販売)

 

今回ご紹介するのは、バズ・ドライシンガーさんの「囚われし者たちの国 世界の刑務所に正義を訪ねて」です。

 

著者のバズ・ドライシンガーさんは、ジョン・ジェイ・カレッジ・クリミナル・ジャスティス(ニューヨーク市立大学[CUNY]傘下)の教授。所属は英語学部であり、司法自体は専門ではありません。しかし、とある縁で囚人に講演を行ったのをきっかけに、「刑務所から大学へのパイプライン」というプログラムを立ち上げ、刑務所にミニ学校を開くことになります。これは、刑務所内で大学レベルの教育を提供し、修了者をCUNYに受け入れようとするものです。

 

バズは刑務所で教えるうちに、刑務所のあり方、司法のあるべき姿を問い直したいという思いに駆られます。そして、休暇を利用し世界九カ国の刑務所を巡る旅に出ることにしま

す。本書はそんな旅の模様を綴ったルポルタージュになります。

 

 

 

 

 

「何かがひどく間違っている」
終身刑制度と死刑制度をともに有し、世界で最も多くの人を、ことに貧しい人々を収監している国、アメリカ。世界に輸出されたこの「大量投獄」というシステムはしかし、失敗ではないのか? 刑事司法を専門とする大学で教えるかたわら、収監者への高等教育と社会復帰支援活動に携わる著者は、再犯率が6割を超えるアメリカの刑務所制度に疑問を抱き、世界の刑務所を見てまわることにした――

ルワンダではジェノサイドの被害者と加害者が対話する更生プログラムに立ち会い、ウガンダでは囚人に向けた文章創作教室を自ら開くほか、過去に獄中で巨大犯罪組織が生まれたブラジルの超重警備刑務所や、オーストラリアの民間に委託された刑務所、そして、アメリカと対極にある開放型のノルウェイの刑務所など世界9か国を訪ね歩く。


刑務所とは更生施設なのか、懲罰施設なのか。
贖罪とは、許しとは何か。
さまざまな問いを投げかける、他に類をみないルポルタージュ。(Amazonより)

 

 

壊れかけのアメリカ

アメリカの人口は世界の5%でありながら、世界の囚人の25%がアメリカ人だそうです。何らかの罪に問われたことのあるアメリカ人は約一億人。これはかなり異常な数です。刑務所があるからといって、犯罪率が減少することはありません。この世に刑務所ができてからもずっと、世界では犯罪率が増加しているのです。

 

それなら刑務所は、まったく犯罪抑止力になっていないのではないか。バズはそう考えました。そもそも刑務所は”懲罰”の場であり、矯正や更生を促す場所とはいえません。犯罪には、大がかりな復讐をもって対処することが正義だと考えられています。やがてバズは、このような正義や司法、刑務所のあり方に問題があるのではないかと気づき、その答えを求めます。

 

日本人からしてもアメリカは犯罪の多いイメージがあると思います。しかしその罪の多くは、非暴力による犯罪、とりわけ”薬”が原因で捕まっていることがほとんどです。また、アメリカと限らず世界の囚人の大半がこれと同じ理由で刑務所にいるといってもいいでしょう。

 

さらにアメリカの刑務所の”中身”を詳しく見るとおかしなことに気づきます。囚人数の多さ、黒人投獄率の高さ、量刑の重さ、刑期の長さ、再犯率の高さ、どれも適切な法のもとに下された結果とは言えないものばかりです。

 

ズバリ言っちゃうと、アメリカは自ら犯罪者を増やす政策を行っている国でした。かつて奴隷にさせていたような労働を刑務所という場所と囚人という名前に変えて、縛り付けている国。貧困層の恨みをかう前に、薬を与え、法で裁いて、閉じ込める。囚人たちは一生囚人として循環してくれればそれでいい。重罪人=新時代の有色人種=人種隔離。そんなオソロシイ現状がありました。

 

海外では運び屋でさえ重罪になる国もありますが、この背景にも国による不純な動機が隠されています。特に女性の立場が弱い国では、何も知らない女性が運び屋として利用され、訳も分からずに投獄されるパターンが多く、ありえない刑期で労働者として使われるなどということが当たり前にあるのです。

 

 

被害者目線

アメリカの未来は世界の未来でもあります。バズは誤りが広まる前に何とかアメリカの刑務所のあり方を変えたいと思っています。その答えを求めて最初に訪れたのがルワンダです。
 
ルワンダといえばジェノサイド。つまり大量虐殺。ありとあらゆる罪のうちでも重罪です。そんな加害者と被害者(生き残り)が存在する国の刑務所では、一体どのような裁きが行われているのでしょうか。これは驚くべきものでした。
 
「平和・和解・再建」がこの国のスローガンであるように、ルワンダには「ゆるし」こそが互いを救う道だという精神があります。加害者をいかに罰するかではなく、被害者にどう償うのかに重点を置く。大前提にあるのは被害者への償いなんですね。
 
ルワンダでは約40ある公益労働キャンプのどれかで、一定期間の労働を終わらせる刑があります。ここには交易にかなう労働を通して償うという目的があるんですね。囚人たちは、主にジェノサイドで破壊した道路や学校、犠牲者の家を再建します。
 
バズはジェノサイドの加害者と被害者が一緒に活動をするNGOプログラムに参加ました。今回は被害者が刑務所を訪問し、加害者と予め用意したテーマについて、グループに分かれて話し合いをすることになったのですが・・ここで被害者たちから意外な意見が返ってきたのです。
 
「今日は来てよかった」「話し合ったら素晴らしい意見を出してくれて信じられないよ。すごく頭がいい。あんな人たちに会えて嬉しい。あの人たちから教わることがたくさんあるとわかった」
 
実はバズもホロコーストによって先祖が根絶やしにされた家系の出身。幼い頃から家の中では「シンドラーのリスト」のサントラが流され、毎日のように祖父からナチスへの恨み言をきかされて育ちました。人を憎しむように教えられたバズは、笑顔もハグもない家に居場所がなく、複雑な思いを抱えたまま今日まで生きてきました。
 
しかしバズは、ルワンダの刑務所で見た「ゆるし」の光景から「憎むよりゆるす道の方が自分は楽だったのではないか」と思い始めます。そして、「もし自分が加害者か被害者のどちらかになるのなら、被害者の方がマシかもしれない。罪を犯した者の方が圧倒的に救われないだろう」と悟ります。
 
確かに刑務所に入ったことのない人間からすれば、加害者がそこでどのような生活を送っているかなど分かりません。どう罪を償っているのか。いや、償っているかどうかさえ分かりません。罰を受けることがあったとしても、それは単なる肉体的な苦しみでしかなく、被害者への罪の意識や後悔、謝罪の気持ち・・そういったものと繋がっているわけではありません。感じるのは、あくまでも辛い獄中生活に対する後悔なのでしょう。
 
被害者に対して直接の償いというものが目に見えてわかることはないに等しい。そして加害者も自分の罪を実感する機会を失っている。
 
加害者にとって、被害者に会って話すということは、余程おかしな人間でない限り恐怖でしかないと思います。その終わりのない恐怖、罪悪感こそが贖罪に繋がるわけで、責任を持って被害者に向き合う方法にもなります。そこに終わりはないし、たとえゆるされたとしても、生きている間はずっと十字架を背負っていかなければなりません。
 
私にはどうしたら被害者が少しでも救われるのかは分かりません。ただ、加害者から決して償えない罪をどうか償ってほしいという思いは必ずあると思います。罪が他人の手によってゆるされたり、ゆるされなかったりするのではなく、被害者自身で判断をする。それを実感する機会というのはあってほしいと思いました。
 

 

※ルワンダの件に関しては日本人ジャーナリストが書いたコチラの記事をオススメします。バズが見せられた囚人や刑務所は、あくまで表向き用のモデルであり、実際にこのような方法で「和解」出来ているとは思えません。

 

残念ながら、交易労働キャンプも「被害者への償い」という言葉で美化した単なる土地を耕すための労働力でしかないのでしょう。

 
 

加害者目線

次にバズは、南アフリカの刑務所に向かいます。ここでの目的は、修復的司法の可能性をさぐること。修復的司法とは、今とは違った視点から犯罪を考える枠組みのことです。
 
従来の刑事司法が問題にするのは、どの法に触れたか、誰がその法を破ったのか、その違法者をいかにして罰するかという点です。一方、修復的司法では、傷ついたのは誰か、彼らは何を必要としているか、その求めにそうすれば応じられるかが問われます。
 
法廷で罪を裁いても被害者にとっては、むしろ心の負担が多く、判決と苦しさには何の繋がりもありません。それどころか、裁判はかえって被害者の精神を長期に渡って蝕んでいるといえます。修復的司法が目指すのは、刑事司法が顧みて来なかったたぐいの力を被害者に与えることがポイントになってきます。
 
加害者が変わるには被害者や自身の家族とも向き合わなければなりません。修復的司法のプログラムではしばしば別の犯罪の被害者にその苦痛を語ってもらい「代役」になってもらうこともあります。また、家族にも電話や面会を積極的にさせます。多くの囚人たちが最も怯えることは、家族が自分を受け入れない現実です。
 
もちろん、囚人たちはここで被害者から、家族から、耳を遠ざけたくなるような言葉をたくさん突きつけられます。何度も何度も繰り返し、血を吐き合うような会話と謝罪が行われます。加害者として、とことん自分が罪人であり、簡単にはゆるされる立場ではないという認識を植え付けられるのです。
 
しかし、これにより人間関係を修復できれば、当事者たちの精神的・社会的な問題をクリアでき、出所後の再犯率防止にも効果があると言われています。今のところ、賛否両論のあるやり方ですが、懲罰以外でも罪を裁く方法はあると物語っているうちの一例として、知っておいて損はないでしょう。
 
 

まとめ

犯罪の多くは社会的弱者から生まれています。そして、その弱者は社会構造によって作られています。たとえばバズがこの後に向かったブラジルでは、GDPの3%が医療に、5%弱が教育に支出されているのに対し、年金への支出は12%もあります。その3分の2を享受しているのは、所得の上位2割。一方、影の経済活動に携わる者が労働の4割を占め、そうした人々は公的な給付をいっさい受け取れません。
 
オーストラリアでもそれは同じで、アボリジニばかりが逮捕されています。また、移民拘留センターの多くは民間で、被拘留者たちを労働者として変貌させ、ビジネスにしています。シンガポールではまるで校則違反にしか思えないような法律をつくり、大量の逮捕者を獲得しています。
 
殺人や暴行といった犯罪は別として、弱者に窃盗や薬の道を歩ませ、刑務所に送るシステムは、奴隷制度と何の変りもないように思えます。中には無実の人まで囚われていたり、言いがかりのような罪で囚われている人もいます。それも何年も。
 
そしてそのような人たちを独房に押し込めて殺したり、鞭打ちをしたり、暴力で支配する。社会復帰などできないように教育を与えない。奴隷制度そのものですね。刑務所は最初から更生施設ではないのです。本書でも指摘のある通り、薬物中毒者を病院ではなく、刑務所に送ることがそれを物語っています。
 
バズは刑務所でさまざまなプログラムを見てきました。文章講座、音楽療法、演劇プログラム・・。しかしそれらは、気休めや希望になったとしても一時的なものでしかなく、己を救うものにはならないという現実的な視点がとても良いと思いました。いわゆるそれらは、サポート側によって「我々はこんな素晴らしいことをやっています!」というアピールに使われるものでしかないんですよね。
 
 
刑務所があまりにも快適になってしまったら意味がないと思いますが、あくまで「更生」や「矯正」の場所であってほしいですね。そうでないと被害者が報われません。刑務所が誰かが別の意味を持った、それも人種差別やビジネスのためによる施設である限り、それらを期待することはできないでしょう。
 
もしかすると、本書にあることは、日本人にとって関係ないと思われる人もいるかもしれません。
 
しかし、どの国でも弱者が犯罪者になる確率が多く、貧困化が進むこの国も、アメリカと同じ道を辿る可能性の方が高いといえます。幸いにもバズが訪問した国々では「教育」が自分を取り戻す武器になると信じられています。囚人たちも学ぶことを欲し、やり直したいと思っています。(もちろんアメリカの超学歴社会にはデメリットもありますし、世間は犯罪者の再スタートに寛容ではありません。めちゃくちゃ厳しいです)
 
日本では、どうでしょう。犯罪率はどの国よりも少なく、平和に思えても、「教育」が人を救わない状況です。学歴は社会に関係ないという方向で貧富の差をなくすつもりなのでしょうか。それは学歴が受験歴に留まり、学習歴になっていないから起こる問題なのであって、教育自体を軽視するのは危ういのではないかと思います。何を学んだか、何ができるのか、そういったものが自分を生かし、守ってくれる世の中であれば、貧困予備軍にもう少しチャンスや夢が見えてくるのでは・・・。
 
真の学びがなければ貧困からは逃れられないでしょう。これからどんどん貧しくなっていく社会の中で、私たちは本当にそれでいいのか不安です。
 
病気と同じで犯罪にも「予防」が必要です。治療だけでなく、予防にまず目を向けることが大事なのでは?と思います。
 
ときどき思う
この世界全体がひとつの大きな刑務所だと
俺たちのなかに囚人もいれば
俺たちのなかに看守もいる
ボブ・ディラン
 
刑務所の中も、外の世界にいるのも、どちらも苦しい社会であるのなら、それこそ終わりの始まりです。
 
既に刑務所に行く場を求める人がいる日本。
 
私は犯罪者を擁護できるほど達観していませんが、罪をつくったものを同じように憎く思います。
 
以上『囚われし者たちの国』のレビューでした。