こちらは上野千鶴子さんと鈴木涼美さんが12のお題に沿って文通形式でやり取りした内容をまとめた本になります。

 

ふたりを知らない!という方にサラッと紹介しますと・・

 

上野千鶴子さんは2019年の東大入学式の祝辞で有名になった日本のフェミニスト・社会学者です。最近は中国でも大人気で、とかく書籍が売れまくっているそうです。一方、鈴木涼美さんは元AV女優であり元新聞記者という異色の経歴を持つライター。私も一冊だけですが、彼女の小説を読んだことがあります。

 

上野さんはこの本を「ぜひ男性に読んでほしい」と仰っていましたが、正直それはどうかなぁ~。なんとなーく男性たちはふたりの名前を見ただけで回れ右しそうな気がします。興味を持って手に取った方ですら、「エロス資本」「恋愛とセックス」「結婚」「能力」「フェミニズム」「男」というお題を見た瞬間イヤ~な予感がするのではないでしょうか。あ、なんか自分たちが叩かれそう、と。

 

しかし実際は(ちょっとそうかもしれませんが)違います。個人的にはもっと男性がボロクソ言われているのかと思いましたが、本書の中身はあくまでも上野さんと鈴木さんの対話がメインで、どちらかというと、人生の大先輩である上野さんが自分の子供といっていいほど年の離れた鈴木さんを叱咤激励するといったものでした。

 

前半は鈴木さん側が元AV女優という過去に対し、自身でも複雑な心境を抱えているせいか、文章に強がりが出ていて少々読みづらいのですが、そこを上野さんが切れ味のある文章で深堀していくに連れて、どんどん本音や核心に近づいていくところが良かったです。後半は上野さんが鈴木さんの亡くなったお母様に代わって語りかけているようで、うるっとくる部分もありました。

 

 

私は本書で初めて鈴木さんの生い立ちを知りました。両親ともに学者で、鈴木さん自身も高学歴。なぜにそんな経済的にも教育的にも恵まれた女性がわざわざセックスワーカーに?!と不思議に思ったものの、お母様との関係を知り、あぁ・・・・。シンプルに鈴木さんは母親が最も嫌がることをすることで、お母様へ反発していたのですね。

 

決してお母様が鈴木さんを愛していなかったわけではありません。おそらく愛はあったのです。しかし、お母様はそれと同時に鈴木さんを研究対象として利用していました。お母様はBBCの通訳を経て、児童文学の専門家になった言葉のプロということもあり、鈴木さんを幼い頃から「言葉の世界」に雁字搦めにして育ててきました。お母様の言葉で理解し合うことを絶対に回避しない性格、沈黙が許されず自分の思いのたけを常に言葉で説明させられる環境は、やがて涼美さんを追いつめていくことになり・・

 

そんなお母様が唯一、論理的に説明せずに否定したものが夜職の女性でした。鈴木さんは母親が拒絶していたものを理解したいという思いと、母親の理解の範疇を飛び越えることで親の愛や理解の限界を知りたくなり、AVの世界に足を踏み入れました。

 

数年後、鈴木さんはお母様の死によってAV女優であった過去を受け入れられなくなっていきます。結局、この行為は自分を傷つけるだけで何の報酬もなかったと。しかし、だからといって自分を「被害者」だと認めることができません。それに対し、上野さんはバッサリと「そこにあるのはウィークネス・フォビア(弱さ嫌悪)だ」 「被害を認知することは服従ではなく、抵抗だ」「ご自分の傷にむきあいなさい、痛いものは痛いとおっしゃい、人の尊厳はそこから始まる」と言い切ります。そしてあなたは聡明な母親を持った不幸な娘だとも。

 

母親にとって理解できない存在になるには、まず自分自身が自分で理解できない存在になる必要があり、その裏にあるのは賢い母親による「あなたのことはぜんぶ私がわかっているわよ」への反発心です。ただ、上野さんのお母様は聡明ではなく、むしろ理解を得るほうが難しかったとか。そこからアドバイスできることは、理解が得られなくても愚直な愛を得られるほうがずっと幸せだということ。よく母親が旅立つ子供に言う「お前を信じているよ」は、理解ではなく、「何だかよくわからないけれど、お前のやることを信じているよ」という愛なのだと、上野さんは語ります。つまり親子は最初から「理解」を得ようとする必要がないのですね。

 

と、こんな感じで結構ズバズバいってくれます。痴漢や性犯罪に対して「男ってそんなもの」と、諦めてしまう鈴木さんに対しても上野さんの返信は強かったです。「どうして性暴力の問題を解決しなければならないのが、被害者側である女性なのか。男の問題は男たちが解くべきではないのか」「なぜ彼らは怒る代わりに同性をかばおうとするのか、恥だと思わないのか」それは、本当に「男ってそんなもの」だからなのか?

 

男性の中には、ここからフェミの攻撃が始まる~なんて思われる方もいるかもしれませんが、上野さんは「もしかしたら俺だって」と共感する男性が必ずいるはずだと言っています。(実際はそんなことをしていないけれど)俺だって置かれた状況によっては同じことをしてしまうかもしれないという共感と理解があれば、男性の中にある加害性に向き合うことは可能なのではないかということです。なぜなら女性たちは、その「共感」をもとに女性運動をしてきたからです。そこに匹敵するような男性運動がないのなら、それは男性たちが自分たちの加害性に無自覚か、もしくはそこから利益を得ているからとしか考えられないとのことです。

 

飛躍しますが、上野さんは、生きるとはエゴイズムと孤独に向き合うことだと言います。そしてエゴとエゴが対等に葛藤し合うような関係をつくることができて、初めて男女のあいだにまともな恋愛が成立するとアドバイスしています。私はここに上野さんが男に絶望しない理由があるのだと思いました。よくわからないけれど、深い。鋭い。

 

これが対談だったらもっとアッサリしたものになっていたのでしょうね。物書き同士が文通という形式でやり取りしたからこその奥深い話が聞けた感じがします。

 

気になったのは上野さん、この本で鈴木さんに小説を書くことをおすすめしていないんですね。でも、鈴木さん書いていますよね(笑)小説は尊敬する人物に出会える手っ取り早い方法というのも勉強になりました。他にも自己責任論は社会構造を強化すること、社会改革とはホンネの変化ではなく、タテマエ(世間)の変化だということ等いろいろな話が載っています。

 

女性にとって興味関心悩みのタネになるテーマがどっさりなので、若い子にも読んでほしいですね。きっと「あ、こんなに思いつめることもなかったのかも」と思うでしょう。

 

最後に上野さんが鈴木さんに宛てた「何者であったかよりも今何者であるかの方がもっと大事」という言葉が非常に印象的だったので共有します。

 

どうか男性のみなさん、「しょせん男なんて」とは次世代の子に思わせないで。

 

 

以上、『往復書簡 限界から始まる』のレビューでした。

 

 

 

 

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