今回ご紹介するのは、川上未映子さんの「ヘヴン」です。
こちらは1990年代前半の中学校が舞台となっている壮絶ないじめをテーマにした本になります。
主人公の「僕」は斜視が原因で「ロンパリ」というあだ名をつけられてイジメられています。「僕」のクラスでは、もうひとり「コジマ」という女子生徒がいじめに遭っていて、ふたりはいつしか運命共同体として交流を深めていきます。
「僕」の家庭は少し複雑で、まずお父さんがいるけれど、いません。ほとんど家に帰って来なく、「僕」はいつもお父さんの再婚相手である義理のお母さんとふたりで過ごしています。けれどもお母さんは「僕」を子ども扱いも大人扱いもせず、ひとりの人間として見てくれる信用できる大人でもあります。
一方、「コジマ」の家庭も母親が再婚し、現在は裕福な暮らしをしているのですが、なぜか「コジマ」だけ不潔でみすぼらしい恰好をしています。それは実の父親が現在貧しい暮らしをしていることを知り、自分だけ幸せになってはいけないという「コジマ」の罪悪感からきている行動でした。
「僕」と「コジマ」はふたりで支え合いながらいじめを耐え抜くのですが、そのやり方はどんどんエスカレートしていきます。「僕」は何とかこんな日々を終わらせることはできないかと考えますが、「コジマ」はいじめを受け入れ、抵抗しないことこそが強さだと言います。しかし、「僕」にはどうしてもそれを理解することができません。
ある日、「僕」が斜視の手術をすることを「コジマ」に伝えると、いじめの象徴だった目を治すなんて逃げることと一緒だと絶好されてしまいます。「コジマ」はずっと”自分はいじめに従っているのではなく、相手の弱さを受け入れてあげているだけだ”と主張していました。辛い仕打ちにも耐えてきた「僕」を見て、自分の仲間だと思っていたのです。
「コジマ」の言葉を受けて「僕」は手術をすべきかわからなくなってしまいます。そんなとき、ふたりが密かにやり取りしていた手紙がクラスのいじめっ子たちに見つかってしまい・・・
感想
「僕」の斜視は本人にはどうしようもないものでしたが、「コジマ」は自らの手で不潔さを作り上げています。「僕」のいじめは斜視を治すことでやむかもしれませんが、「コジマ」の場合は父親との問題が解決しない限り続いてしまうわけです。難しいのは「僕」は選択できない状態で選択でき、「コジマ」は選択できる状況で選択できないこと。彼らは中学生という大人未満の年齢だからこそ、相手を尊重することが本当の意味でできずにいます。
「コジマ」は「僕」に自身と同化してもらいたいし、そのためなら「僕」が前向きになることさえ阻止したいし、いじめと立ち向かうなんて言われたら裏切られたような気持ちになってしまうんですね。一方、「僕」は「コジマ」を救いたくて、何とかふたりで闇から抜け出し、堂々と笑い合える日が来ないだろうかと願っていて・・うーん難しいです。
「コジマ」はいじめの原因だった斜視を「僕」の強さだと言い、好きだとも言ってくれています。斜視を含めて君であり、それを抱えて生きている君は正義だとも言ってくれています。斜視であったからこそ、「僕」は今の優しさを手に入れ、他人の痛みがわかる人間であると信じているんですね。それなのにもし目が治ってしまったら、きっと「僕」もこれまで得たものを忘れ、その他と同化してしまうのではないか・・。「コジマ」はそこが心配なのです。
本書に登場するいじめっ子(加害者と言った方がいいかも)の言い分は、大人だったら論破できるものですが、同年代相手には絶句するような内容です。実は「僕」は勇気を持っていじめっ子のもとへ話し合いをしにいくのですが、相手が絶望的にいじめに特化したマインドを築き上げていて話が通じず終わってしまいます。(コジマは彼らのこういうところを可哀相な子たちと言っています)
このいじめっ子、百瀬という男子は、「僕」がいじめをやめてほしいと訴えるのに対し、「いじめないでほしいというのは君の勝手だし、周りがそれにどう答えるかも勝手」だと主張します。百瀬は「自分がされて嫌なことからは、自分で身を守ればいい」とさえ言います。問題はそれができるかどうかで、自分を殺したければそうすればいいが「僕」にはそれができないのだから仕方がないと言うのです。
百瀬は、自分も「僕」も、自分の都合に従って世界を解釈しているだけだから、身を守るためには力をつけるしかないとアドバイスもしてきます。
なんだか頭が痛くなってきますね。百瀬は善悪の判断がわからなくなるような発言をし、煽ってきますが、簡単にいうと「ボクは何も悪くないもん」です。実はよく読むと「僕はそんなことに興味がないけれど、二宮(友人)がいじめが好きだから」と言うようなニュアンスで逃げてもいます。
百瀬と「コジマ」はこの若さで歪んだ哲学を持って、それゆえに目の前が塞がっている印象を受けました。他のいじめっ子や「僕」には、個人的な哲学などなく、このふたりの世界観が理解できません。ただ、それでいいのだと思います。その方が世界は、視野は広がるのですから。
残念ながら、最後まで苦行の末には楽園があると信じていた「コジマ」は、幸せにはなれないでしょう。虐げられて弱さを受け入れることが正義なんてあるわけがない。「僕」と「コジマ」が美術館で一緒にヘヴンの絵を見ることができなかったのには、そんな理由があるのだと思います。
もっと早くに「コジマ」を救い出せていれば・・とも思うのですが、中学生の子にそれを見抜くなんて難しいですよね。周りの大人は何をしていたのだろうと思いますが、リアルで起こるいじめもほとんどがそんな感じですよね。
ラストは未来が開ける期待とそこへたどり着けなかった者への絶望が入り混じっていて切ないです。色々と語ってしまいましたが、深い読み方ができる本なのでじっくり考えて読んでみてください。
以上、「ヘヴン」のレビューでした!
オススメの一冊