チェルミー図書ファイル187

 

 

今回ご紹介するのは、朝井リョウさんの「正欲」です。

 

こちらは、この世に暴露できない秘密を抱えた登場人物たちが多様性を問う物語になります。社会から浮いたり、疎外されたりする苦悩をテーマにした作品というのは、ここ近年で非常に増えてきていますが、一つ前の記事でレビューした三島由紀夫を読んだあとでは、「正欲」には教訓めいたものがやや強い気がしました。

 

 

あってはならない感情なんて、この世にない。
それはつまり、いてはいけない人間なんて、この世にいないということだ。

息子が不登校になった検事・啓喜。初めての恋に気づいた女子大生・八重子。ひとつの秘密を抱える契約社員・夏月。ある人物の事故死をきっかけに、それぞれの人生が重なり合う。しかしその繋がりは、"多様性を尊重する時代"にとって、ひどく不都合なものだった――。

「自分が想像できる"多様性"だけ礼賛して、秩序整えた気になって、そりゃ気持ちいいよな」

これは共感を呼ぶ傑作か?目を背けたくなる問題作か?

作家生活10周年記念作品・黒版。あなたの想像力の外側を行く、気迫の書下ろし長篇。(あらすじより)

 

 

人によって解釈が大きく変わる作品

 

冒頭の8ページまでを読むと、流行の「多様性」を活動の養分にした”なんちゃって”リベラルへ向けた問題提起作か?と思いました。そうなると、読者の中には「理解されることを望んでいない人間に、理解あります風にカッコつける流れが気持ち悪い」的な、単なるリベラル批判を生み出す結果になるのでは?と、警戒しつつありました。

 

なぜならそれは結局自分が敵対している人たちと別な方法で多様性論をふりかざしているだけにすぎないからです。時代の流れにストップをかけたり、我こそが正しいというのも、また”なんちゃって”リベラルたちと同じ現象なんですよね。

 

しかし、本書はそういった意見を二分するための安っぽい内容ではなく、多様性論の過渡期である現在に”多様な視点”からストーリーを展開させることで、読者に新しい見方を促すような構成になっているのが良かったです。(そもそも白黒つけさせたら多様性自体を語れませんもんね)

 

ポイントは、違う人間同士にきちんと喧嘩させていること。これは日本人の対話法として珍しいですよね。本書では違う意見を持つもの同士を直接対話させることで、互いの言い分を互いがどう受け取るのか、そしてそこから読者が何を感じるのか考える機会を与えています。

 

面白いですよ。ゲイに理解を示している風な人でも犯罪者の背景には理解を示さなかったり、マイノリティたちに「多様性なんておめでたいものは必要ない。社会からほっといてほしい!」と訴えさせたあとに、不登校の息子の気持ちをちっとも理解しない父親を欺くような描写があったり。双方の矛盾が描かれています。

 

問題を抱えた彼らは誰よりも繋がりを否定し、誰よりもそれを欲しています。本書が伝えているのは、「自分が想像できる"多様性"だけ礼賛して、秩序を整えた気になること」への怒りであって、多様性のまったくない世界を求めているわけではありません。だからこそ朝井さんもラストでは、登場人物それぞれに繋がりを持たせているのだと思います。(レビューを読む限り、多様性=悪と認識した人が多かったみたいなので)

 

 

多様性とは?

 

そもそも多様性とは何でしょう?近年あちこちで耳にするこの言葉に、ウンザリしている方も多いですよね。しかし、日本人はかつて世界でも稀な多様化と共に生きてきた民族であったと思っています。また、それを日本人自身が壊してしまったとも思っています。私が思うには、どうも欧米発の多様性と日本人のいう多様性には大きなズレがあるのではないかと・・。私たちは欧米の個人主義をうわべだけ真似た結果、少々拗らせているところがあるのではないでしょうか。日本人が生み出した過度な調和の中で、個人主義は独自にアレンジされ、歪な文化ができあがってしまっているような気がします。

 

さらに拗らせた部分を単に欧米批判をすることで納得しようとしている流れもあります。そうなると日本人全体が多様性の意味すらおかしな風に取り入れ、より誤った個人主義が強まらないか心配になりました。

 

 

共感と防御

 

人は多様性が整った世界に生まれていないからこそ、生きづらいのであって、だからこそ現在のような動きがあるわけですよね。本来、多様性の意味は「共感力」を持つことだったと記憶しています。それは弱者に対しての共感ではなく、すべての人が相手の立場になって考えてみようということでした。

 

正直、現在進行形の多様性とは共感力の育成ではなく、攻撃しないことです。せめて異物を攻撃しないでということ(動物の本能的にできるかは謎)です。「わかってくれなくてもいいから、傷つけないで」がボーダーラインであり、叩けない空気を作ることで防御が成立しつつあるのが今、世界がつくっている多様性。だから自身にはまだ理解できない、納得できない状況で、叩けない空気ができあがっていることに拒否感を持つ人だっています。ただ、これもやはり途中段階だから不完全なんですよね。ニンゲンの長い歴史の中でようやく多様性だの共感力が登場しているわけで・・。

 

本書でも核となる部分は「誰も人の気持ちなんてわからない」ということでした。

 

マイノリティだろうが、マジョリティだろうが、誰もが自分のことしかわかっていません。もちろん、他人のことなんてこれぽっちもわかっていません。弱者だけが傷ついているとは限らないし、悩みの大きさで苦しみの優劣が決まるわけでもありません。なのに人は、なかなかそうは思えない生き物で、自分の痛みには敏感でも人の痛みには鈍感です。そこで朝井さんは「わかってくれない」という気持ちを自分だけものだとは思うなと伝えています。

 

私たちは自分の気持ちなんて誰にもわからないと言いながら、いちいち話さなくてもわかっているでしょという矛盾した考えも持っていますよね。自分を語るということは、相手を知るということにもなる。

 

これもつまり共感力を指しているのではないでしょうか。

 

 

感想

 

本書では、放っておいてほしい人たちも心の奥底では理解を求めています。多様性を憎んだり、求めたりを繰り返して生きています。そして、彼らも放っておいてもらう唯一の方法が多数派に染まることだというのはわかっています。だから一層苦しくなるし、SNSでよりどころを探す人は多いのでしょう。また、多数派に身を置く人も、互いが安全な場所にいるのか確認し合わないと不安だからこそ、集団行動(みんなと同じレールを歩む)をしているのです。

 

多様性といえど、世の中にあるすべての問題を受け入れろ、理解しろなんてのは無理な話。けれども「知る」を増やして理解に発展させようとするのは何も考えないよりはマシ。知っても理解できないものはそれでいいし、疑問を呈することと攻撃は違うと思います。確かに理解するなんて甘っちょろいことです。しかし、「わからない」こと自体は悪ではなく、わかっている風な人にもわからないことだらけなのが当然で、そのわからない部分を「知る」ことは愚かなことではないと思います。

理解ではなく知る。というのは、人間にとってそんなに悪い欲なのか。そこまで否定してしまうと、ちょっと極端で、問題がこじれてしまいそうです。

 

だって多様性なんてバカらしい!人のことなんてわかりっこないのだから、そのままそっとしておけばいい。キレイごとなど汚らわしい!という人も、当事者がすべてから繋がりを絶って、その孤独から社会への復讐心・攻撃心を引き起こしたり、死んじゃった時には「これだから頭のおかしいやつは」というのでしょう。

 

もし本書に登場するような異常性癖を持った人が「理解されないからほっといてほしい」といってそのまま放置され、被害者を生んでしまったら?そうならないためにはどうしたらいいのか。これは弱者のためだけでなく、被害者をつくらないためのものでもあります。

 

普段BLM運動を冷めた目で見ている人も、日本人が差別されたときには必死に抗います。これもまた、本人が自覚しないところで多様性を否定しながら、多様性ある世界を訴えているのではありませんか。

 

多様性が指すみんなとは、社会全体のことではなく、同じものを抱えた人同士が繋がりを持つための言葉として使われている部分も大きいかと思うんですよね。そこが発展していくとLGBTのように新たな問題認識になるのではないかとも思います。仲間同士ですら声を上げてはじめて繋がりができるかできないかのもの。そして、その一歩が恐ろしくてたまらないことは確かです。

 

隠していることを知られるのはイヤですよね。コワいですよね。わかってもらえないことを話すなんてバカらしいし、傷つくのはこりごりですよね。

 

でも、誰にも救われなくて、ひとりで一生を闘うのはもっと酷だし、自信がなくなってきますよね。

 

多様性を語ることは難しい。肯定、否定も難しい。けれどそれらを衝突させていくのは絶対に必要な過程なので、もう少し我慢がいるのかなと思いました。

 

 

<総括>

”多様性病に罹った賢くいたい人”に刃をふりかざすこの一冊の中にも、たくさんの”わからない”が存在しているところが見どころ。もしかすると朝井さんは、水フェチではなく小児性愛者を題材にしたかったのではないかな?と思いました。そのせいか最後の繋がりの持たせ方も少々苦しいように感じました。だからといって、この作品が正しくなくなるわけではなく、そうやって”わからない”を集めて考えていくところがいいのではないでしょうか。多様性と限らず、肯定も否定もしまくった中から生まれるものが大切なので、一冊読んで何かに偏る必要はないと思います。何度も考えを変えてみたり、別な視点から見たら考え方に違いが出るのか、試すことに意味がありますしね。幸い本書では色んな視点を体験できるので、読者の感想を誘導するようなキャッチコピーは全無視して読んでほしいです。(あれはせっかくの思考体験を台無しにしている!)

 

以上「正欲」のレビューでした。

 

 

<冒頭の答えあわせ>

冒頭の8ページは、薄っぺらな多様性観だと問題の本質に気づけないよという警告でした。(世の中で受け入れられつつあるLGBT+Qなどの問題の他に、まだ見えていない問題がごまんとあるだぞ的な)

 

私は多様性のうたい文句「みんな違ってみんないい」を攻撃されないための防御手段or牽制としてこれまでのレビューでも使ってきました。みんな違うものだから、違いに意味を求めても答えなどない、治せない違いをどうしろというのだ?という皮肉として捉えていたといったほうが正しいかもしれません。調和に価値を置き過ぎた結果、多彩なメンバーで支え合っていたはずの共同体が死んでしまったことの皮肉。しかし、この言葉は聞く人によっては、偽善者が考案する学級目標のようにも捉えられますよね。

言葉とはそれを読んだときの精神状態によって、どうにでも解釈が変わるものというのもある種の難しさだなと感じています。だからこそ、「正欲」の捉え方は人それぞれなんですよね。

 

多様性=何でもアリと受け取っちゃうのは、都合の良いすりかえかな~と思います。もしそれで多様性の意味が変わってしまっているのなら、世の中はすりかえ仮面にすっかり支配されてしまったのでしょうね。

 

『正欲』の続編的な小説はコチラ