チェルミー図書ファイル137

 

 

今回ご紹介するのは、ミン・ジン・リーさんの「パチンコ」です。

 

こちらは四世代にわたる在日コリアン一家の苦闘を描いた上下巻からなる作品です。

 

 

 

 

 

BOOK著者紹介情報より
リー・ミン・ジン
韓国、ソウル生まれ。1976年に家族とともにニューヨークに移住。イエール大学、ジョージタウン大学ロースクールを経て、弁護士となる。2007年のデビュー作Free Food for Millionairesはイギリスのタイムズ紙で同年のベスト10に選ばれた他、各紙誌で高い評価を受ける。2007年から2011年にかけて東京に在住。第2作『パチンコ』は、ニューヨーク・タイムズ、ガーディアン、エスクァイアなどの絶賛を受け、全米図書賞の最終候補作となる

 

なぜメディアではこういう本をもっと取り上げないのでしょうか。アメリカでは100万部突破のベストセラー。個人的には日本人も読んだほうがいいと思います。

 

あらすじ

(BOOKデータベースより)
 
上巻
日本に併合された朝鮮半島、釜山沖の影島。下宿屋を営む夫婦の娘として生まれたキム・ソンジャが出会ったのは、日本との貿易を生業とするハンスという男だった。見知らぬ都会の匂いのするハンスと恋に落ち、やがて身ごもったソンジャは、ハンスには日本に妻子がいることを知らされる。許されぬ妊娠を恥じ、苦悩するソンジャに手を差し伸べたのは若き牧師イサク。彼はソンジャの子を自分の子として育てると誓い、ソンジャとともに兄が住む大阪の鶴橋に渡ることになった…一九一〇年の朝鮮半島で幕を開け、大阪へ、そして横浜へ―。
 
上巻は1910年~1962年までのお話。下宿屋の娘ソンジャが既婚男性ハンスとのあいだに子を身ごもり、捨てられるところから始まります。父親の氏を持たない子どもを育てるなど許されない社会で、絶体絶命のソンジャ。そんな彼女を救ってくれたのが若き牧師イサクでした。昔から病弱で25歳まで生きられないと思っていたイサクは、結婚することも子を持つことも諦めていました。そんなとき、彼は宿泊先の下宿屋で結核を再発してしまいます。しかしソンジャ一家の手厚い看護で一命を取り留めたイサクは、恩返しにソンジャの子に自分の氏を与え、残りの人生をソンジャのために生きようと決心します。
 
二人は生まれて来た息子にノアと名付けました。
 
下巻
劣悪な環境のなかで兄嫁とともに戦中の大阪を生き抜き、二人の息子を育てあげたソンジャ。そこへハンスが姿をあらわした。日本の裏社会で大きな存在感をもつハンスは、いまもソンジャへの恋慕の念を抱いており、これまでもひそかにソンジャ一家を助けていたという。だが、早稲田大学の学生となったソンジャの長男ノアが、自分の実の父親がハンスだったと知ったとき、悲劇は起きる―戦争から復興してゆく日本社会で、まるでパチンコの玉のように運命に翻弄されるソンジャと息子たち、そして孫たち。東京、横浜、長野、ニューヨーク―変転する物語は、さまざまな愛と憎しみと悲しみをはらみつつ、読む者を万感こもるフィナーレへと運んでゆく。巻措くあたわざる物語の力を駆使して、国家と歴史に押し流されまいとする人間の尊厳を謳う大作、ここに完結。
 
下巻は1939年~1989年までのお話。ソンジャはイサクとのあいだにも息子を一人儲けます。名前はモーザス。長男ノアは勤勉で学業成績も優秀、一家の期待の星として育てられました。しかしノアには家族に言えない秘密がありました。それは「日本人になりたい」ということ。学校で朝鮮人と差別される度に、自身がそうであることに嫌悪感を抱いていたのです。一方次男のモーザスは兄とは顔も性格も真逆で、学校では日本人学生と喧嘩をしてばかりの日々。勉強嫌いで落ち着きのないモーザスは早々に学校を辞め、パチンコ業界で生きる決心をします。やがてまったく違った道を歩んでいく二人の人生は明暗を分けることになり――。
 
 

日本人が読むと・・

この本は図書館で借りました。私は上下巻揃ってから読みたいタイプなので、二冊同時に借りられるタイミングで読んだのですが、上巻が読み回された跡がある一方で下巻はほぼ新品同様でした。もしかしたら上巻でリタイアした人も多いのでしょう。確かに日本人が読んでいて不快に思う文章もあるかもしれません。これはちょっと違うんじゃないの?という部分が。しかしそれは上巻だけで判断しないでほしいと思います。なぜなら下巻の最後の最後まで読まないと見えてこない”気持ち”があるからです。
 
たとえば在日コリアンにとっていい日本人とは、この国で上手く生きられず、自分たちと同じように社会から弾かれた人たちのことなんじゃないか、と思うかもしれません。結局日本の文句を言っている日本人が良き理解者になるんだろう、と。しかし下巻の先の先まで読んでいくと、日本で長年働くイタリア人が登場します。すっかり日本人化した彼は在日コリアンを馬鹿にしたような発言をするのですが、それについて日本人キャラクターがこんな台詞を言います。
 
「ジャンカルロはただの世間知らずだ。自分の国に居場所がなくて、しかたなくアジアで暮らしている白人の一人にすぎない。ずいぶん長く日本にいるせいで、日本人にちやほやされるのは自分が特別だからと勘違いしてる。(中略)日本にいる人間は、日本人でなくても、コリアンに関しておよそ馬鹿げたことを言う。俺がアメリカにいたころは、アジア人について阿呆かと思うようなことを言われたものさ。アジア人はみんな中国語を話すとか、毎日朝から寿司を食うとかな」(P287より一部抜粋)
 
自分の人生が上手くいかなかったのを国のせいに転換しちゃう人っていますよね。でもそういう人は、似た立場の人を集めて自分を慰めているだけで、本当の理解者ではありません。真の理解者とは、やはり心の痛みを共感できる人でしょう。モーザスやその息子のソロモンが愛した日本人は、確かに日本社会では生きづらい立場の人でありましたが、決して国への不満で繋がった友情ではなく、心の理解者としての友情でした。つまりは心の痛みを知っている人が良き理解者となっていた、ということなんですね。その区別が書かれていたのはとても良かったです。
 
 

結論は出さなくていい

人によっては「日本や日本人の悪いところばかり書いてある」と感じるかもしれません。それについても最後の最後まで読んでいってほしいなと思います。ソンジャの代からモーザスの代へ、モーザスの代から息子ソロモンの代へ・・と時代が移り変わっていく中で、彼らが出した答え。それは長年の時をかけて出していった答えであり、そうかといって結論でもなく、とても難しいのですがここまで考えるにあたり、色々なことがあったという意味でラストまで出てこない言葉があります。
 
それはソロモンがアメリカ留学中の彼女を日本に連れてきたときのシーン。
 
大学でフィービーと出会ったとき、彼女の自信に満ちたところや冷静さに惹かれた。アメリカにいたあいだは、何があっても動じない点が彼女の一番の魅力と思えたが、東京に来たとたん、同じ性質が冷淡さや傲慢さとすり替わって見えるようになった。
 
彼女は日本での生活が嫌だ、日本なんか嫌だとソロモンに訴えるのですが、その度にソロモンは複雑な気持ちを抱くようになります。
 
それに、”日本人はみな悪”という思い込み。もちろん、日本にはいやな人間もいるが、それは世界中どこに行ったって同じだろう。(P333)
 
ソロモンは彼女からプロポーズされたとき、はっきりと自身が「アメリカ人にはなりたくない」ことに気づきます。
 
カズはクソ野郎だった。しかし、だから何だ?彼はたまたまいやな人間だった。たまたま日本人だった。もしかしたら、アメリカで教育を受けた結果なのかもしれない。たとえ百人の悪い日本人がいても、よい日本人が一人でもいるのなら、十把一絡げの結論は出したくないとソロモンは思う。悦子は彼にとって母親代わりの存在だ。初恋の人は花だった。外山春樹のことはおじのように慕っている。三人とも日本人で、そしてとびきり善良な人たちだ。フィービーはソロモンほどには三人のことを知らない。なのに、理解しろというほうが無理だろう。
 
知らない人間に理解を求めることの難しさ、これがすべてを物語っていますね・・。
 
日本人はそう考えないとしても、ある意味ではソロモンだって日本人なのだ。フィービーの目にはその事実が見えない。人が何者であるかを決めるには血だけではない。(P334)
 
もちろん逆だってあります。すべての在日コリアンがソロモンのような人間ではないことも同じです。
 
 

感想

上巻の最初のほうに出てくる牧師イサクの言葉「愛するのが難しい相手を愛せ」
 
イサクの行いはまさにそうで、他人の子を身ごもった女性を結婚というかたちで救い、その子どもを我が子として育てました。
 
「愛するのが難しい相手を愛せ」
 
「パチンコ」を読み終わったとき、もう一度この言葉を考えてみて、本当に簡単なことではないと思いました。きっと互いにそうですよね。
 
実はこの本を読み終えたあとは、しばらく感想が書けませんでした。今もそうなんですが、どう言葉にして伝えていいのかわからないのです。
 
本書を読んでいたとき、学生時代に観たドキュメンタリー映画『ディア・ピョンヤン』を思い出しました。この作品から在日コリアンが祖国にも日本にも居場所がないことを知ったのですが、いまひとつピンと来るものがなかったことをよくおぼえています。どうしてそう思ったのか自分でもよくわかりませんが「彼らは帰れる場所がないのではなく、本当は帰りたい場所がないのでは?」という疑問が残ったのは確かです。
 
しかしこの「パチンコ」からは、あのとき抱いた疑問にすべて丁寧に答えてくれるようなスッキリとしたものがありました。明らかにこれまでの韓国文学とは一線を画す作品。翻訳書としても珍しいくらい読みやすいですし、在日コリアンと限らず世界各国にいる日系人も共感する部分が多いかと思います。
 
「パチンコ」というタイトルに拒否感がある人もいると思いますが、これ以上のタイトルはありませんね。どの道に進んでも結局運命が流れ着く場所は決まっている。ここはぜひ本書を読んで確認していただきたいです。
 
最後に、Amazonレビューで見つけたこの文章を紹介させてください
 
パール・バックの「大地」や山崎豊子の「大地の子」を思いださせる国境を超えた壮大なドラマ。女性を軸としながら2組の兄弟、家族を掘り下げていく。国籍だけでなく、性別、先天的、後天的な疾患やしょうがい、性的指向、貧困など、さまざまな弱者、マイノリティも丁寧に描くところに筆者の視点の自由さ、温かさを感じる。
 
あぁ私がこの本に受けた印象は「大地の子」に少し似ていたのかもな・・と気づきました。中国人から見た「大地の子」は私たちが見る「パチンコ」なのかもしれないと。
 
解説には、この小説がアメリカで受け入れられたのは移民の物語で共感できたからとあります。そしてこのレビューにもある通り、本書ではマイノリティや多様性といった日本人が毛嫌いするテーマも多く含んでいます。こういったテーマをそんなの気にしずぎたと根性論で語れるうちは日本もまだ平和だなぁと思いますが、どうなんでしょうね。
 
色んな人がいるけれど、そんなの当たり前だし”みんな違うんだからいいじゃない””いちいち騒ぎすぎ”の言葉には、その問題についてだけの小さな視点しかありません。でも、そのみんなが同じでいたい、全員が他の全員と同じでありたいと思っている社会で起きている問題だという大きな視点を無視して、それらを語るのは乱暴すぎます。「気にするな」は、気にしなくていい状況になってはじめて通用する言葉だと思いますね。
 
私の住んでいる地域には外国人が多く住んでいます。コンビニもスーパーも外国人客のほうが多いんじゃないかと思うくらいです。昔だと日本に来た外国人は四方八方からジロジロと視線をあびて不快だったと思いますが、今は逆に私のほうがジロジロ見られますからね。レジに並んでいても日本語が聞こえてきませんもの。たまにここドコ日本?ってなりますよ。時代は変わったな、と思います。本当に変わった。私たちも変わっていかないと頭の中が絶滅危惧種になりそうです。
 
と、言っても実際は、本の中のような素晴らしい人間というのはなかなかいません。日韓互いにおもうところは多いです。北朝鮮に関してはいまだにミサイル、拉致、貧しい国民といったネガティブで危険なイメージしかありません。祖父世代の体験談からは「朝鮮人はかわいそうだった」という話もあれば、イラっとくる話までありました。
 
日本がだめなのは、戦争に負けたからじゃないし、何か悪いことをしたからでもない。日本がだめなのは戦争が終わったからだ。この国では平和な時代になると、だれもが月並みな人間になりたがる。人と違っていることに怯えるんだよ。
 
ミン・ジン・リーさんがこの言葉を書いたと思うと驚きです。日本人は「しょうがない」をよく使ってごまかすという台詞もありました。確かにね。災害国としてはその言葉が時として必要で、その精神で生きることが求められますが、それをいかなる場合にも応用してしまって正しいのか。
 
しょうがない
 
しょうがない
 
しょうがなくない時にもこの言葉で逃げてしまっていないか
 
ただ変わるのが面倒なだけで・・・
 
私の中ではしばらくこれが課題となりそうでしす。
 
以上『パチンコ』のレビューでした。