チェルミー図書ファイル22
「空色勾玉」 荻原規子
今回ご紹介するのは、荻原規子さんの勾玉シリーズ第1弾「空色勾玉」です。
日本神話をモチーフにした壮大なファンタジー小説
美しい日本語の羅列に目を惹くこと間違いなし
児童文学が好きな私が大興奮の1冊でもあります。
同ジャンルの作家・上橋菜穂子さんが好きな人にもオススメです
私の中で萩原+上橋の作品は、対象年齢のない文学
ファンタジーが苦手な方も日本神話の世界を覗いてみませんか?
※対象は中学生~とありますが、この本をきっかけに『古事記』や『源氏物語』などに触れていく子も多いと思われます。
大人にとっては漢字量が多めの方が読みやすいかも?「空色勾玉」の構想は、延喜式巻第八の『祝詞』から生まれたそうです。
あらすじ
村娘・狭也の夢に出てくる昔の記憶・・「鬼」に追われた六歳の自分。一五歳になった祭りの晩に、その「鬼」は姿を現した。<お前は「闇」の氏族の巫女姫だ>と告げられ、憧れの「輝」の宮に救いを求める挟也。しかし、宮の宮殿で「輝」の末子、稚羽矢と出会い、狭也の運命は変わっていく・・・
この物語は、「輝」の氏族と「闇」の氏族の戦いを描いています。舞台は神々が地上を歩いていた古代の日本「豊葦原」
そこはかつて男神と女神が国を治める美しい地でありました。二人は、国中を八百万の神々で満たしました。
しかし、女神は火の神を生んだ時に命を落とし、怒り狂った男神は火の神を剣で斬り殺してしまいます。
その後、女神に会いにいった男神でしたが、黄泉の国ですっかり変わり果てた女神の姿を見ると驚き、地上へ逃げ帰ってしまいました。
それだけでなく、千引の岩で通い路を塞ぎ、永遠に縁を切ってしまったのです。
その時から二つの神様は、天と地に分かれて憎み合うようになり、どちらか一つが豊葦原を統一しようと戦になり・・・・・
「輝」の氏族は不老不死で、死を穢れとし、排除しようとします。
「闇」の氏族は八百万の神に仕え、何度でも転生します。
主人公の狭也は幼い頃「輝」に両親を殺され、「輝」の大御神が治める地、羽柴に住む夫婦に育てられました。
「輝」で育った狭也は、いつまでも若々しく、不老不死のまま輝かしく生きている「輝」の氏族に憧れてしまいます。
しかし、自身が「闇」の女神に仕える巫女・水の乙女であると知り、やがて自分の使命を果たすため「闇」を守ることを決意します。
実は闇の女神に仕える狭也と、輝の大御神の末子の稚羽矢は一心同体。狭也は剣の巫女であり、稚羽矢は大蛇の剣そのものでした。
剣が稚羽矢なら、鞘が狭也(どちらもサヤ)。最終的には二人が結ばれることで、光と闇が共に国を、神々を守っていくことのなります。
変わらぬことが美しいのか、変わりゆくからこそ美しいのか。
光と闇のせめぎ合いに、しばし考えられることの多いテーマとなっています。
チェルミーポイント
人は誰しもいつか死にます
人と限らず、すべての生き物に「死」が訪れます
なぜ、始まりがあって終わりがあるのでしょうか
なぜ、私たちは不老不死ではなく、「闇」の道を選んだのでしょうか
ポイントとして、「闇」の氏族の言葉から印象的だったものを集めてみました。(一部「輝」の氏族の言葉)
「そなたの一族は、実にころころとよく死んでくれる。少し分が悪くなるとあっけなく自害する。転生もいいが、わたしはそんなものを強さだとは断じて認めぬぞ。死ぬのは逃げと同じだ、弱さだ。われわれのように顔をそむけることを望みもせず、許されもしない立場に立ってみろ」
P86 「輝」の言葉
「これは、大きな流れのひとつじゃ。そのことが、今にそなたにもわかるときがくるじゃろう。流れに乗らなくては、流れゆく先を見きわめることさえかなわぬのじゃ」
P209 「闇」の言葉
「死ぬことを知らずに、真の恐れや、真の別れを、真の悲しみを心得ているはずがない。心と心のつながりや、気づかいや、いたわりを、理解できるはずがない。われわれはいつか死ぬ身であるからこそ、近くにいれば求めあい、遠くにあれば慕いあうのだ」
「だからといって、見返りがなければ酷くあたれるものでしょうか。情けとは、そういうものではないと思います」
P234 「闇」の言葉
「国つ神を怒り狂わせるのは、稚羽矢のもつ変若なのだ。輝の神が死を穢れとみなすように、八百万の神々にとっては変若こそ穢れであり、忌み嫌うものなのだ」
P238~9 「闇」の言葉
狭也がどこかでいまだに輝の光を、若さを、美しさを、永遠の命をうらやみ、望ましいものに思っていることを。老いを拒否した司頭と同じように、実は輝の御子を賛美していることを。
P242 神から見た狭也の姿
「あなたもこの木を美しいと思うでしょう?もうじき木の葉は目のさめるような黄金色に変わるわ。それはすばらしいけれど、葉が落ちたあとの冬木立も、また、おごそかで美しいの。そして春がめぐってくれば、赤ん坊みたいにかわいい若葉がにぎやかに芽吹くのよ。たとえば、この泉の水は澄んでいるでしょう。こんなに清らかなのは、ここの水がたえず新しくわいて出て、いっときも淀んでいる暇がないからだわ。豊葦原の美しさはそういうところにあるの。生まれては亡びて、いつもいつも移り変わっていくところに。どんなになごり惜しくても、とどめようと手を出してはならないのよ。そうしたらその瞬間に、美しさも清さも、どこかへ失ってしまうから」
P254 「闇」の言葉
「あやまるって、何をすることだ?」
なぜ神の機嫌を損じた巫女は、みずから命を絶つほど重い責めをおわされるのか。それは、天つ神には許すという行為がないからなのだ。しくじったら、やりなおすことはできない。二度めはない。輝の御子にはそれが当然なのだ。
P298 「あやまる」という言葉を知らぬ稚羽矢に狭也が衝撃を受けるシーン
日本では昔から八百万の神様がいなくなった土地は朽ち果てるといいますよね。
本当にその通りだと思います。
幼い頃に見ていた春夏秋冬の景色、嗅いでいた花のにおい、雨のにおい、風のにおい、聞いていた虫たちの声は今も健在か?と、聞かれたら、そうだとは言えません。残念ながら消え失せたものがありました。
命は儚いから・・といってしまえばそれまでですが、悲しいものです。
しかし、その記憶は似たようなにおいを嗅いだ時、似たような音を感じた時に、一瞬でフラッシュバックする強烈さを持っています。
まるで現在もそこに、そのままの姿で存在しているかのように。
不思議ですね。人間の記憶の構造はなぜそんなつくりをしているのでしょうか
生き物の在り方はすべて同じなんだと思います。
目の前にあるものに向き合い、悲しみ、嘆き、気づき、感謝していくことで生かされている。
互いを大切にしていく、人の生き方こそが、他を守ることに繋がっていく。
八百万の神様は、人の心から生まれていく。
以前、外国の方が「日本の文学や映画は幼稚。すべてを善悪で判断し、必ずどちらにも”そのようになった理由”をもたせ、最終的には両方悪くないという結末に持っていく」と痛烈に批判されていました。「悪にも理由があるなんて甘い」とも。
そうでしょうか。
私は光は闇がなければ、その輝きの美しさもわからない
嬉しさも楽しさも素晴らしさも、悲しみや憎しみやみすぼらしさを知らずにはわからない
愛が愛を知らなければわからないと同じように・・
もちろん、悪役に華を持たせる必要はありません。悪いものは悪いです。
ただ、「なぜ」を考えるだけ
そこに「なぜ」を問うだけなのです
だって、私たちはもともと「無」で生まれてきたのですから
それが自然なことです。人は自然には逆らえないのです。
だから生き物は老い、必ず死ぬのでしょう。
「死」がなければ、人間は「無」から勝手につくりあげた苦しみに永遠に縛られることになる
己を、相手を、考え続けなさい
そう教えてくれている気がしました。
「空色勾玉」には、「水に流せ」という言葉が何度も出てきます。
どんなことも水に流せば自然に還っていく・・
憎むより愛する
そんな風に考えられたらどんなに素敵なことだろうと深く思いました。
おまけ
私がファンタジー作品、特に児童文学を愛するのは「幼少期に感じた気持ちを残したままだから」です。
「空色勾玉」には自然に対するありとあらゆる守りの言葉が出てきます。
同じような言葉の響きを私は宮崎駿監督の作品からもよく聞きます。
環境保護、動物保護、民族紛争
どんな強い言葉で問題を訴えるよりも、本1冊が放つ力の方が大きいと改めて思いました。
もし、同じことを感じる方がいたら、きっと貴方も児童文学が好きかもしれません。
勾玉シリーズ第2弾のレビューはコチラ