超新未来神学
「神様の三位一体」
今回は三位一体についてです。
詳しく書こうと思えばどこまでも難しくなりますから、
簡易に書きます。
三位一体とは、「父(神)と子(イエス)と聖霊」は三つの位格をもつが本質的に一体であるという教理です。
この教理が認定されるまでいくつかの宗教会議が
ありました。
最初は325年のニケーア公会議です。
議論の末、子なる神様としてのイエス様の神性を
正統と認定し終わった。
次は381年の第一コンスタンティノープル公会議。
この会議では聖霊の神性を認定された。
神様は父と子と聖霊なる三つの位格(ペルソナ)を持つ、
自存存在であるが、三者の神があるのではなく、
存在するのは一つの実体だと認定された。
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二回の公会議で確定された教義なので、
「ニケーア=コンスタンティノポリス信条」
と呼ばれることになっています。
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反論者もいました。
私は議論する事が悪いとは思っていません。
真摯な信仰を持つ上で自分の思いを語る事自体は
悪では無いと思います。
431年のエフェソス公会議での議論。
ネストリウスの主張。
ネストリウスは
「神様の母マリア」と唱えることに疑問を持ち、
マリアは人の母であるので、その子イエス様
の本質は人性であると主張した。
彼はイエス様が受肉によって神性を帯びるようになった
のだと主張した。
私Yhoshuahからいえば、ちょっと変な
主張だとは思います
けど。
ネストリウス派は、この三位一体説の両性説を
否定したので、議論の最終面でネストリウス派は
異端とされました。
(注:両性説とは、イエス様が神性と人性の両性を
持っている事)
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一般に「キリストに神性だけを認める」教説を
単性説と言います。
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単性説については、
451年カルケドン公会議で、
議論されましたが、結果は、三位一体説が認定されました。
他、反論者はいました。
カタリ派、ワルド派など、。
しかし、ローマ教皇の決定で反論者は少なくなっていった。
反論すると異端審問があって厳しい裁定が下されるからです。
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東方教会と西方教会では、「三位」と「一体」のとらえ方が
違うようです。
西方は三位一体を「一体」から思考し「三位」に発展する。
それで、難題の「フィリオクエ」問題が発生した。
信条に、
聖霊は子からも発すると書き加えたことで、
東西は分裂しました。
私の見解は以前記事にしています。
私の見解を簡単にいいますと、
聖霊が子からも発するとしますと、なんだか主従関係が
神様の内である事になりますので、私は否定します。
神様の内では主従関係はありません。
聖霊は自らの意志で同時に父なる神、子なるイエス様の
一体不可分の意志で業を現すのです。
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ここでキリスト教の母体となった、
ユダヤ教の神観をみましょう。
ユダヤ教では、唯一絶対の神様ヤハウェを信仰する
一神教です。 三位一体の教理はありません。
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キリスト教の三位一体の位格というのは、
人で言うなら人格です。
位格はラテン語では「ペルソナ」と言います。
このペルソナの語句を初めて神学で使ったのは、
なんと、3世紀から4世紀に異端とされたサベリウス主義の
様態論者でした。正統な教義に異端の用語が使われているのは、何とも皮肉なのかもしれないです。
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さて、ここからが大切な事です。
神様の三位一体、。
過去の宗教会議で決定されたから
信じているのでしょうか?
私は偉い人や権威があるとされる会議がそういうから
と言って
簡単には信じません。
私は自分自身で信じる者や事を決めます。
たぶん、過去の信徒も同じだと思います。
信条というものは、他人に強制させれるものでは
ありません!
信条は生死をかけたものなのですから、
個人個人で心底信じた事でしかないのです。
信じられないものは信じない、信じられるなら
命をかけて信じる、、、それが真の
信仰です。
個人の内心を他人が押し付ける事は有ってはなりません。
ただし、こういう教理がありますよ、と教えるのは
有りです。後の事は本人次第です。
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公会議以前の信仰者たちは自身の長い信仰生活に於いて、
神様とはどんな方かを感じ取って行ったのだと
思います。
神様の神性の根本は愛なのですが、
そのペルソナは、?
その答えは自分の信仰生活の中で
発見というか感性で悟るのです。
結論として私は三位一体は正統な教義だと確信しています。
自分の信仰生活と言いました、加えて、
信仰の先輩たちの信仰遺産があります。
信仰の先輩にはその先輩がいます、、。
私の言う遺産とは文章とかの証しでは無く、
形のない霊的遺産です、。
形は無いけど、人に受け継がれるものです。
どういって良いのでしょうか、
言葉にするのは難しいけれど。
私は、
自身の実体験で心霊的に感じ取れています。
加えて、
聖書と照らし合わせたりします。
確信的な聖句はありました。
創世記/ 1章 27節
神様は御自分にかたどって人を創造された。
神にかたどって創造された。男と女に創造された。
この聖句の「かたどって」という言葉は、
ヘブライ語では、似姿に、という意味です。
似せて創ったのですから、完全一致では無いけど、
神様自身に似せて人を創造したのです。
もう少し言いますと、
カメラマンが写真を撮ったとします、。
その写真のごとくに人を創造した、、のです。
70人訳のギリシャ語では画像という言葉が使われて
訳されています。
それで、私は悟りました。
逆にいえば人を見れば完全では無いけれど
元になった神様がわかる、と。
人は親から生まれ、成長し親になって、
妻を得て子供を儲けます。
その場合、人は父が存在します、母である妻がいます。
子が存在します。
神様の三位一体は、人間の家族で再現されている!
家族は人格は別だけど、家族としては一体です。
そうか、神様はそうしたお方なのだ、と
私は納得したのです。
家族というの家族愛でむすばれています。
そうなのです、神様の本質も愛だからです。
今回はここで終わります。
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鹿さんが聴いている!