「ニケア・コンスタンチノープル信条」はギリシャ語で作られました。 381年のコンスタンチノープル公会議で、325年のニカエア(ニカイア)信条を整備・拡充したこの「ニケア・コンスタンチノープル信条」では、聖霊の発出(〔ギ〕ekporeusis、〔ラ〕processio)に関しては、上記左のギリシャ語の線で囲んだ部分「」にあるとおり、「(聖霊は)父から発出して」と銘記されていました。 

 

 時代が下がってスペインでは、神学者アレイオスの「父と子の同一性批判」を受け継ぐ異端の「アレイオス派」を信奉する西ゴート王国が覇権をにぎっていました。 しかし正統を任じるローマ・カトリックが勢力を盛り返し、「アレイオス派」から三位一体の教義を守ろうとして、“聖霊は父「と子」から発出する” と、「と子」を挿入して信条を唱えることが多くなり、589年トレドの司教会議で成文化(ラテン語)しました。 同時にこのトレドの教会会議でレカレード王は王国のローマ・カトリックへの改宗を宣言したのです。 上記右のラテン語の赤字部分「Filioque 」(フィリオクェ、filius:子、qui:ともに(接尾辞))を追加して、「qui ex Patre Filioque procedit (聖霊は)父と子から発出して」と書き換えたのです。

 

 この書き換えられた信条はスペインからフランス-ドイツ(フランク王国)へと広まりました。 当初、ローマ教皇はこの挿入には、東方教会が認めていない以上、教会内の平和の維持のためには望ましくないとして、反対の態度をとっていました。 しかし9世紀には教皇レオ3世に教義としてこれを認めるよう要請がフランク教会からなされ、教皇は教義としては認めても信条に付加することは認めませんでした。(岩波書店:キリスト教辞典より)

 

 「と子」を信条に付加して唱える事に対し、コンスタンチノープル総主教は信条の新たな付加を禁ずる431年のエフェソス公会議の規則違反であるとして異を唱え、東西教会で「フィリオクェ問題」を扱う論争が始まりました。

 

 「フィリオクェ問題」は時代を経て、東西合同で行われた1431-1449年のバーゼル・フェラーラ・フィレンツェ公会議でとりあげられました。 その公会議で、一旦ギリシャ系の東方教会の主教らは「と子」を認めたのですが、後になってロシア正教会がその公会議に出席していたキエフ主教を破門し、決議の承認を撤回し、結局東方教会は「と子」を従来どおり認めないことになったのです。 これによって「東西教会の分裂」は歩み寄られる事なく、そのままにされることになってしまったのです。 西方のローマ教会では、その後、100年ほど後の 1545-1563年のトリエント(トレント)公会議で、「Filioque」を加えたラテン語の信条を改めて正式に承認したのです。