ブログを休む事になりました。

 

 

 

それで、記事は最後に

聖書の摂理についての概論を

書くことにしました。

 

最後に大切な事を皆さまに伝えます。

 

超新未来神学 (最終回)

 

「私Yhoshuahの聖書概論:摂理の真実」

 

神様の摂理は救いの歴史です。

 

人類を救うために記録した書が聖書です。

 

人をどのようにして救うのか?救って来たのかの

記録が聖書です。

 

逐一をここに書くのは長すぎるので

概論としますがあからさまに記す事にしました。

 

さぁ、始めます。

 

創世記の記録で人類の始祖アダムとエバの時

 

蛇とあらわされた悪魔がエバとアダムを誘惑して

罪に堕としました。

 

園に在った善悪知識の木の実を食べなさい、と。

 

善悪知識の木とは、悪魔自身の事でした。

悪魔は元々は清らかな天使でした。

元もと悪魔だったのではありません。

 

ある教団では善悪知識の木とエバだと主張していますが、

それだとエバがエバの実を食すという論理矛盾になります。

 

 

食べるとは?

 

性的関係を持つということです。

 

一般に言われているリンゴの実をたべるとか

そういう事ではありません。

 

善悪知識の木の実を食べたあと、

人は原罪を帯び、その原罪が全人類に及んだことは

果物を食べたからといってそうはなりません。

 

子々孫々に原罪が及ぶのは性的な事でしか

説明ができないのです。

 

ただし、遺伝子は肉体にしかないです。

 

霊的存在の悪魔とまずエバが接触します。

 

エバは誘惑に負けて善悪知識の木の実を取って食べた。

 

それはエバは悪魔と霊的な性関係を持ったという事です。

 

エバの後エバはアダムに善悪知識の木の実を渡した。

アダムはその実を食べた、。

 

その意味はエバと同じで悪魔と性関係を持ったということです。

 

アダムとエバは悪魔と関係を持った状態で

ふたりは人として性関係を持って

子を産んだ。

 

当初霊の悪魔との性関係だったものが

肉体を持っているアダムとエバで

肉体的な関係を結んだことにより、

子供たちに波及しました。

肉体は霊と一体なので

霊の罪が肉体の罪に波及したのです。

 

霊は肉体と異なり創造物ではありませんでした。

霊は神様の霊の無限分の1で神様から

吹き入れられていた。

それはモーセの霊が時の長老たちに分けいれられた事に

似ています。

 

 

ここで人は霊肉ともに原罪を持つ事になりました。

 

聖書は罪について父の罪は子に及ばないとあります。

だから原罪もアダム以降の子には無いという人がいます。

 

人は肉体と霊と魂の三層構造です。

この三つは肉体が滅ぶまで一体です。

霊は肉体と一体なので霊の罪は肉体に及びます。

 

親の霊の一部は子に受け継がれるのです。

それは人が神様の似姿に創られたように、

神様の創造に似せられた事です。

 

罪には罰があります、でも最初の罪を犯したアダムとエバは楽園追放となりましたが、その子たちは原罪に特定して言えば罰は与えられていません。状態的に原罪を引き継いでいるという事だと思います。神様は言います。

罪が人を慕う、人はそれを治めなさいと。治めきれない時

人は自身の罪を犯してしまいます。 

まぁこの件はここまで、。

 

 

さて、それで、アダム以降子々孫々に原罪が及ぶ事になった。

 

そこからが神様の救いの摂理の始まり。

 

 

罪ある人が罪ある自身を救えないので

罪無きメシアがこの世に来て

救いをなす事になった。

 

そうでしょう?

 

 罪人が罪人を赦したりはできません。

 

何の権威もありません。

 

救いを成す者はメシアだとか、キリストだとか

称されます。

 

メシアをこの世に神様が送るためには、

条件があります。

 

民は自身の罪の自覚が有り、

罪を悔いていなければなりません。

 

加えて神様を信じている事、それが必要です。

 

なぜなら、神様の、み言葉である

「善悪知識の木の実を食べるな」を

アダムとエバは信じなかった事は不信仰ですので

神様を信じる事から始めなければならなかったのです。

 

アダムの子カインとアベルは信仰の儀式を

しました。

 

父アダム自身が儀式を行わなかった理由は

不信仰をした本人だから自身では儀式は

できないからです。

 

カインとアベルは代理です。

 

カインとアベルは原罪を帯びた直接の本人では

ないけれど、父アダムからの原罪を受け継いでいたので

神様のみ前に直には立てません。

 

だから、、神様と自分の間に仲保として

 

供え物を置きました。

 

それが羊だったり土地の実りでした。

 

それらは、穢れてはいないので、神様との仲保とみなす事ができたのです。

 

カインとアベルの儀式自体は成功だったけれど、

 

カインはアベルを妬んで殺したことで

 

摂理は失敗となり摂理は次に進む事になった。

 

一度摂理は失敗したので10代後に再度

行われることになった。

 

10代とは一回転したという意味です。

 

10代後はノアでした。

ノアは皆に馬鹿にされても

洪水に備えて方舟を創りました。

 

実際洪水は来ました。

 

ノアの信仰を認めた神様はアダムを祝福した

同じ言葉をノアにも与えました。

 

創世記/ 1章 28節
神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて、これを従わせよ。海の魚、空の鳥、地を這うあらゆる生き物を治めよ。」

創世記/ 9章 1節
神はノアとその息子たちを祝福して言われた。

「産めよ、増えよ、地に満ちよ。

 

これは摂理的再創造だと思っても良いです。

 

そこまでは成功だけど、

ノアの子ハムがノア裏切りました。

 

ノアに葡萄酒と或る薬を入れたのでした。

 

それでノアは死にかけます。

 

アダムの時兄弟の愛の絆を失い、

ノアの時親子の絆を失いました。

 

当初アダムの時、信仰を失い、カインとアベルで兄弟の

絆、ノアとハムで親子の絆を無くした。

 

他にもありますが、ノアの預言を信じなかった多くの民は

死にました。神様は多くの民の命も失った、。

 

摂理は信仰の他、無くしたものを取り戻す事をしなければ

ならなくなった。

 

その上でメシアを送る事ができます。

 

こうして摂理は失ったものを回復した上で

メシアを送る歴史に変化したのです。

 

 

だから、ノアから10代後

アブラハムの時、まずは、この儀式。

なぜこれが行われたか?その理由は、

カインとアベル、ノアの儀式の失敗のため、

アブラハムがその回復のために行われたのです。

 

聖書歴史はつながっています。

上記の儀式は失敗でした。
以下のレビ記はアブラハムより後年の規定ですがアブラハムの時はすでに決められた規定だったと思います。
 

レビ記/ 1章 17節
翼を持って裂くが、切り離してはならない。祭司は祭壇の燃える薪の上で焼いて煙にする。これは焼き尽くすいけにえである。すなわち、主への火による献げ物、宥めの香りである。

 

アブラムは規定に反して鳥を切り裂かなかったのが

規定違反となって儀式は失敗したのです。

三歳の若い雌牛、三歳の雌山羊、三歳の雄羊、それに山鳩と鳩の雛の意味は何度も話したことです。

三歳の若い雌牛と三歳の雌山羊はエバの身代わり、

三歳の雄羊はアダムの身代わり、

山鳩と鳩の雛はカインとアベルの身代わりでした。

エバに二頭なのは、エバは善悪知識の木の実を自分でも食べ

アダムにも与え食べさせたから、です。

それは二度も戒めを破ったことになりますから、二頭で贖うのです。

 

 

それで、この失敗を取り戻すためどうしたか?

 

神様は子イサクを捧げよと命じたのです。

 

 

神様の贖いの儀式は最初は等価でなくても良いというのが

趣旨です。なんでもを等価で償えとなると、人はどんどん

死んでいかねばならなくなります。

 

愛の神様は人が悔いたなら赦したいのです。

 

だから、まずは動物での償いで等価とみなしました。

 

等価というのは目には目を、命には命を、、です。

 

アダムのとき食べたら死ぬという、み言葉でした。

それは人の命の事です。

 

アブラハムの鳥らの儀式で人の命の代償としたけれど、

儀式を失敗したので代償から等価の儀式に変更されたのです。

 

それがイサクの燔祭です。

結果的にはイサクは寸でのところで助かりました。

 

この燔祭の時、子イサクは自分が捧げものになるかもしれないと悟っていたけれど、父アブラハムを信じていたし、

アブラハムは神さまの命令を信じていた。

 

この事で信仰と親子の絆は回復し儀式は

成功しました。

 

 

摂理は進みました、

あともう少しでメシアが来臨する、、。

 

でも、まだまだ、残っています。

 

カインとアベルで失った兄弟愛もです。

 

それはまだ回復できていなかった。

 

それで、アブラハムの子イサクの子のヤコブの時代

それが行われた。

 

ヤコブは叔父の所に行く事になって

苦労の末、約21年めに帰ってきます。

 

そこで待ち構えていた兄エソウ。

 

エソウは長子権を奪い祝福も奪ったヤコブを憎んでいたでしょう。以下の事があったからです。

 


創世記/ 25章 31節
ヤコブが、「それでは今すぐ、兄さんの長子の権利を私に売ってください」と言うと、
創世記/ 25章 33節
ヤコブが、「今すぐ、誓ってください」と言ったので、彼は誓って、長子の権利をヤコブに売り渡した。

 

創世記/ 27章 19節
ヤコブは父に言った。「私は長男のエサウです。言われたとおりにしてきました。さあ、座って私の獲物を食べてください。そしてお父さん自らが私を祝福してくださいますように。」
創世記/ 27章 20節
しかしイサクは息子に尋ねた。「どうしてまた、こんなに早く見つけることができたのか、息子よ。」彼が、「あなたの神、主が取り計らってくださったからです」と答えると、

創世記/ 27章 30節
イサクがヤコブを祝福し終え、ヤコブが父イサクの前から出て行くと、ちょうどその時、兄のエサウが狩りから帰って来た。

 

創世記/ 27章 41節
こうしてエサウは、父がヤコブに与えた祝福のゆえに、ヤコブを恨むようになった。エサウは心の中で言った。「父の喪の日もそう遠くはない。その時には、弟のヤコブを殺してしまおう。」

 

その後、ヤコブはエソウから逃げてラバンのところに行きました。

 

で、母リベカの兄ラバンの所からヤコブが21年後

帰って来た時

兄エソウはヤコブを待っていたのです。

 

そのままだとヤコブとエソウに争いが起こります。

 

ヤコブはエソウに贈り物をする事にします。

 

創世記/ 32章 14節
その夜、彼はそこで一夜を過ごした。そして自分が手に入れてきたものの中から、兄エサウへの贈り物を選び出した。

 

その数は数百でした。

 

謝罪もしました。



創世記/ 33章 3節
ヤコブは先頭に進み出て、兄に近づくまで、七度地にひれ伏した。

 

多くの物を贈られ、謝罪も受けたエソウは、ヤコブを

赦します。

 

それは兄弟愛の回復だったのです。

 

ヤコブは

男子ら12人を儲けていました。それはイスラエル

12部族の始まり。

 

そして

 

エジプトに行ったヨセフ、

 

モーセ、

 

ダビデの時代になり、

 

イスラエル王国が成立、

 

分裂、、し

 

ユダ王国がローマに従属したころ

 

メシアイエス様が生誕する。

 

イエス様が来た時、救いの摂理は

一気に世界に広まる準備ができていたからです。

 

エルサレムには神殿がありました。

 

民の信仰もありました。

 

ユダヤの祭司を始め皆が、メシアを受け入れていれば

後のクリスチャンは迫害されず、一気に

救いの摂理は達成されていたはずです。

 

結果的には

イエス様が次善の策で十字架の磔刑に

敢えてかかってくれ、救いをなした。

 

イエス様を信じていれば罪は赦されることになった。

 

 

初臨のメシアは使命をなした。

 

だけれども、イエス様は再び来ると言った。

 

預言では、

最初は苦難の僕として、

次は栄光の王として、、と書かれていたけど、。。

 

 

実際最初は苦難が有った。

でも、結果的には

救いはなされている。

 

ただし、それはクリスチャンになれば、、の話です。

 

本来二度も来る必要は無いはずです。

 

一度目に全て行えばよかった事です。

 

でも、再び来ると言われた。

 

摂理というものは、神様だけで行うものでは無いです。

 

人も関与します。

 

人が関与した最大の間違いは、

 

イエス様を殺した事、、と

 

私は、はっきり言います。

 

しかし、これは言っておきます。

 

イエス様はそれでも人を救おうとし、救いの道を整えた。

 

神様が赦さないという事はありません。

 

 

 

他方、

十字架があったからこそ

 

救いは成されたと皆さん言います。

 

それは勘違いです。十字架は次善です。

 

神様が自身の血を流さないでも人の救いはできます。

 

イエスさまが神殿の聖所と至聖所に入り、

大祭司として、ヨシア王が行った時のような

大規模で神聖な過ぎ越しの祭り儀式を民と一緒に

行なえれば良かったのです。

この事は不等倍の贖いです。

 

しかしイエス様は民の不信でそれができなかった。

 

アブラハムの小鳥らの燔祭で失敗した時

等倍のイサク燔祭で贖わされた故事のように

十字架の磔刑になったのでした。

 

 

だから、自身を捧げ物として

ヨシア王の時のように、

過ぎ越しの祭りの最中に十字架にかかっていたのです!

 

 

最善策の聖所・至聖所での儀式ができていたら

後のクリスチャンへの迫害は無く、多くの人が死ぬ事は

無かったのです。だから当初、最善策を望んでいた、、。

もし十字架が絶対だとすれば、または、メシアが血を流して死にさえすれば人の救いに成るとするならば、

イエス様はマリアの胎から生まれた瞬間に死んだ方が

救いは十字架の時よりもっと早かったとなります。

 

実際は命をねらうヘロデ王から逃れるため、神様の指示によってエジプトに一時避難していました。

 

神様の摂理がメシアの死なら、神様はイエス様の父

ヨゼフに避難せよとの指示はしなかったはずです。

 

だから、メシアの死イコール絶対の摂理では

無いのです。

 

以前も話ましたが、イエス様が聖所に入る事は

預言されていました。

 

新共同訳マラキ書/ 3章 1節

見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。あなたたちが待望している主は/突如、その聖所に来られる。あなたたちが喜びとしている契約の使者/見よ、彼が来る、と万軍の主は言われる。

 

道を備える使者とは洗礼ヨハネの事です。

 

待望している主とはメシアであるイエス様の事です。

 

聖所に来られると書いているではないですか!

 

イエス様が連日神殿の境内に来ていたのは、聖所、至聖所に

入るためだったのです。

 

境内ではありませんよ、境内は神殿内部ではありません。

 

聖所は内部です。

 

しかし、当時の祭司らが内部にイエス様が入る事を

認めなかった。

 

洗礼ヨハネもその時にはこの世にはいなかった。

 

 

ヨハネさえいれば、マラキの預言どおり

神殿内部に入れただろうと思います。

 

さて、上でも話しました再臨。

 

 

私は本来メシアの臨在は一度で良いと思っています。

 

それが、どうしてかもう一度となってしまいました。

 

 

それは、どうして?

 

いろんな説がありますけど、

 

それらは一度目にできる事で、敢えて二度来て

しなくてもできる事ばかりです。

 

 

どうしても二度来る必要があるのです。

 

あるというか、そうなったと言うべきでしょう。

 

 

この答えは以前簡単には話した事はあります。

 

 

イエス様はメシアです。

 

メシアはある特定の人たちだけの救い主では無いです。

 

メシアは全人類の救い主です。

 

善人も悪人も、、全ての人の救いが使命です。

 

宗教がどうのこうのだとか、関係無い。

 

神様のメシアはそんな小さな器であるはずが無いです。

 

 

ひとりの人の罪により罪が広がったように、

 

ひとりの人から救いが広まるのです。

 

 

では実際どうやって?

 

 

奥義です。

 

 

イエス様が最初に来てできなかった事、

 

それは、

 

婚姻です。

 

イエス様は婚姻する事ができないまま帰天しています。

 

罪は霊肉で負いました。

 

最初は霊の性的罪でしたが、

 

アダムとエバは肉体を持っていますので、

肉体を持った同士での性関係によって

霊的原罪は肉体に波及したのです。

 

それで子々孫々へと、、。

 

霊的な原罪のみだったなら、肉体を持ってこの世に

メシアは来臨する必要はありません。

 

霊界で救えば足りる事だから。

 

肉体だから、メシアはこの世に来て

婚姻し子孫を産み増やす事で、

 

罪ある民の霊肉の罪を消すのです。

 

イエス様はパンを私の体葡萄酒を血といいました。

それは象徴的表現だったのですが、

それは罪なきメシアの血筋になるという事です。

 

悪魔の血筋から神さまの血筋、、子孫に転換(回復)

するという事です。

 

 

時間はかかるでしょう。

 

罪人とメシアの子孫が婚姻する、

 

その子孫がまた他の罪びとと婚姻する。

 

それが続けば、ある時、すべての人には

 

メシアの血が入ります。

 

以上を言いますと、なんだかカルトぽいと

言われる方もいるでしょうけど、それは

イエス様が言った事です。

だからカルトではありません。

 

一部カルトは本当に血を飲むのだとか、、。

血を飲む必要はありません。

再臨のイエス様が来るまでは象徴的な葡萄酒で良いのです。

再臨のイエス様がきたら、その後自然と神様の

血筋になって行きます。

 

宗教が違っても

いつか、そうなります。

 

メシアにとって、実際は宗教は関係ありません。

カルトと言われる信者も、必ずメシアは救います。

 

第一、メシアは罪人のために来るのですから、、。

 

聖書を否定するつもりは無いけれど。

 

聖書では再臨する様子が書かれてはいる。

 

しかし誰もその時は知らないとも書かれている。

 

もし空中再臨だったら、

 

化け物だとか言って、

 

メシアを殺しにくる者がいるでしょう。

 

そうで無くてもキリスト教に反対者は世界に

 

無数に居る。

 

 

だから、再臨のイエス様は

 

誰にもわからないように

 

盗人のように来る。

 

マタイによる福音書/ 24章 42節~44節
だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が来られるのか、あなたがたには分からないからである。

このことをわきまえていなさい。家の主人は、盗人が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、
目を覚ましていて、みすみす自分の家に忍び込ませたりはしないだろう。

だから、あなたがたも用意していなさい。

人の子は思いがけない時に来るからである。」

 

結局は誰も解らないという事です。

 

しかし、解らなくても良いと思います。

 

民が知らないまま、メシアは婚姻し、子孫を残します。

と思います。

 

初臨の時の轍は踏みません。

轍といってもメシアの失敗ではなく民の失敗で、

民が失敗しないように神様は事を運ぶはずです。

 

世の中に自称メシアという者はたくさん居るし

過去も居ました。名乗る者は本物では無いと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 🌙 

 

端折りましたが、書き終わりました。 

 

今まではっきり話さなかった事もあかしました。

 

長くブログを書いて来て

楽しかった。友人もできました。

 

皆さまに永遠の幸いがありますように、、。

 

このブログ、一旦、、一旦と言っておきます。

 

私は離れますが、

 

或る方に、管理を任せています。

 

 

 

 

最後の最後に、、、これを口ずさみたい、、。

 

父神様は私の羊飼い、私は乏しいことがありません。

父は私を緑の野に伏させ、憩いのほとりに伴われる。

父は私の魂を生き返らせ、御名にふさわしく、

 

正しい道へと導かれる。

たとえ死の陰の谷を歩むとも、

 

私は災いを恐れません。

 

あなたは私と共におられ、あなたの鞭と杖が私を慰めます。

私を苦しめる者の前で、あなたは私に希望を整えられる。

 

あなたは慈愛の油を注ぎ私の杯を満たされる。

命あるかぎり、恵みと慈しみが私に降り注ぐ、、。

 

私は父の内に在り命の続く限り、いや永遠に、

そこに住まう。

 

 🌙 

 

 

 

 

 

 

完了。