聖書を読んでみましょう。

途中途中で私の解説が入ります。フフ

 

ルカによる福音書/ 10章 1節~20節

その後、主は別に七十二人を選び、行こうとしておられたすべての町や村へ、ふたりずつ先におつかわしになった。

 

 

はい。ここで「別に」というのは12弟子の事でした。

12数はアダムの12人の息子が元の数です。

カインとアベルとセトの他に9人の息子が

居たのです。

 

そして「七十二人を選び」と有ります。

なぜ七十二人だったのでしょうか?

 

過去に、いろんな説があります。が、それは割愛し私の解説をします。

 

七十二人は七十人プラス二人です。

それで、七十人の元になった数はヤコブ(イスラエル)から生まれた者の数です。

二人はヤコブと兄エソウです。

 

出エジプト記/ 1章 5節

ヤコブから生まれた者は全部で七十人で、・・・。

 

12弟子と70人を示唆した聖句もあります。

出エジプト記/ 15章 27節

こうして、彼らはエリムに着いた。そこには泉が十二、なつめやしが七十本あった。彼らはその水のほとりに宿営した

 

エリムの地は水が豊富にある土地で

旅人の水分の補給地でした。エリムはやしの木という意味があります。

 

そしてこのヤコブの七十数はモーセも踏襲しました。七十人の長老たちとモーセと兄アロンの二人で七十二人。

出エジプト記/ 24章 1節

また、主はモーセに言われた。「あなたはアロン、ナダブとアビフ、およびイスラエルの七十人の長老たちと共に主のもとに登り、遠くからひれ伏しなさい。

アロンの息子ナダブとアビフを入れたら、七十二人と二人になりそうですが、ナダブとアビフは祭司規定を守らなかったので

除外されています。

民数記/ 26章 61節

ナダブとアビフは、規定外の火を主の前に献げたときに死んだ。

 

こういう故事があってイエス様は七十二人を選んだのです。イエス様は、、当然ですが

そうした故事を知っているのですね。

使徒行伝には七十五人とあるけれど?。

使徒行伝/ 7章 14節

ヨセフは使をやって、父ヤコブと七十五人にのぼる親族一同とを招いた。

 

これはステファノの弁明中での言葉です。

 

ヨセフの息子はマナセとエフライムの二人とマナセの息子マキルとその子たちを合わせて五人だからステファノはそう言ったででしょうか?。

 

元になった出エジプト記では、マナセの息子以降は扱いが違っていたようですから

七十人。

 

が、しかし、マナセとエフライムたちは

そもそもヨセフ側に居るので招く必要はないので、使徒行伝中ステファノの弁明を書いたルカの方が何か勘違いをしていたか?または別途の口伝または別資料を

持っていたかのどちらか?でしょう。

 

しかし、ルカは時々、旧約聖書と異なる記述をしている事がままある、、。

けれど、、これ以上は言いません。

 

そのとき、彼らに言われた、「収穫は多いが、働き人が少ない。だから、収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい。

 

さあ、行きなさい。わたしがあなたがたをつかわすのは、小羊をおおかみの中に送るようなものである。

 

財布も袋もくつも持って行くな。だれにも道であいさつするな。

 

どこかの家にはいったら、まず『平安がこの家にあるように』と言いなさい。

 

もし平安の子がそこにおれば、あなたがたの祈る平安はその人の上にとどまるであろう。もしそうでなかったら、それはあなたがたの上に帰って来るであろう。

 

それで、その同じ家に留まっていて、家の人が出してくれるものを飲み食いしなさい。働き人がその報いを得るのは当然である。家から家へと渡り歩くな。

 

どの町へはいっても、人々があなたがたを迎えてくれるなら、前に出されるものを食べなさい。

 

そして、その町にいる病人をいやしてやり、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。

 

しかし、どの町へはいっても、人々があなたがたを迎えない場合には、大通りに出て行って言いなさい、

 

『わたしたちの足についているこの町のちりも、ぬぐい捨てて行く。しかし、神の国が近づいたことは、承知しているがよい』。

 

あなたがたに言っておく。その日には、この町よりもソドムの方が耐えやすいであろう。

 

わざわいだ、コラジンよ。わざわいだ、ベツサイダよ。おまえたちの中でなされた力あるわざが、もしツロとシドンでなされたなら、彼らはとうの昔に、荒布をまとい灰の中にすわって、悔い改めたであろう。

 

しかし、さばきの日には、ツロとシドンの方がおまえたちよりも、耐えやすいであろう

ツロとシドン港町で当時、風俗的に乱れた

街でした。

 

ああ、カペナウムよ、おまえは天にまで上げられようとでもいうのか。黄泉にまで落されるであろう。

 

あなたがたに聞き従う者は、わたしに聞き従うのであり、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。そしてわたしを拒む者は、わたしをおつかわしになったかたを拒むのである」。

 

七十二人が喜んで帰ってきて言った、「主よ、あなたの名によっていたしますと、悪霊までがわたしたちに服従します」。

 

彼らに言われた、「わたしはサタンが電光のように天から落ちるのを見た。

 

わたしはあなたがたに、へびやさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けた。だから、あなたがたに害をおよぼす者はまったく無いであろう。

 

しかし、霊があなたがたに服従することを喜ぶな。むしろ、あなたがたの名が天にしるされていることを喜びなさい」。

21節でイエス様は喜びあふれて、と記されています。このように直接的にイエス様が
喜んでいる様子を記した聖書箇所はここしかありません、。
 
この21節は知者や賢者の持つ知性だけでは今まで隠されていた真理は明かされないという事です。知性を頼りにして何でもできると思っている事は間違いです。
隠されていた真理は神様の計らいでしか
明かされないのです。
 

ルカによる福音書/ 10章 22節        すべての事は父からわたしに任せられています。そして、子がだれであるかは、父のほか知っている者はありません。また父がだれであるかは、子と、父をあらわそうとして子が選んだ者とのほか、だれも知っている者はいません」。それから弟子たちの方に振りむいて、ひそかに言われた、「あなたがたが見ていることを見る目は、さいわいである。

 

23節

あなたがたに言っておく。多くの預言者や王たちも、あなたがたの見ていることを見ようとしたが、見ることができず、あなたがたの聞いていることを聞こうとしたが、聞けなかったのである」。

過去の預言者や王は、願いに願い祈りに祈ったけれど、見る事も聞く事もできなかった事がイエス様の時実現したのです。

 

そして現代の人は聖書を読むことによって

再体験できています。

 

 

イエス様の喜びの聖句を読みましたので

楽しい歌動画を見ましょう。