皆さまお久しぶりです。

 

以前ロトの事は以下のように記事にしていました。

興味の有る方は、ぜひご覧ください。

 

 

 

 

 
 
 

今回は、続編です。

ロトについて。続編 超新未来神学

 

ロトは聖書では義人と称されています。

 

知恵の書/ 19章 17節
この者たちは目をくらまされた。あの義人の家の戸口で人々に起こったように。

ペトロの手紙二/ 2章 7節
しかし神は、不道徳な者たちのみだらな言動によって悩まされていた正しい人ロトを、
助け出されました。
 

どうしてロトは義人と言われているのでしよう?

 

多くの牧師たちはこう言います。

 

ロトは娘を二人のみ使いの身代わりに町の男たち(悪霊)に差し出そうとしました。

 

創世記/ 19章 8節

聞いてください。私には男を知らない二人の娘がいます。その娘たちを皆さんに差し出しますから、好きなようにしてください。ただ、あの人たちには何もしないでください。この家の屋根の下に身を寄せたのですから。

 

それは神様の意に沿ったったから、、と。

ある牧師は神様のテストに合格したのです、、などと公言し賞賛している、、。

 

そしてなぜ、ロトが救われたのか?を

以下を引用して義人だったからだと、、か、、。

ペトロの手紙二/ 2章 7節

しかし神は、不道徳な者たちの放縦な振る舞いに悩まされていた正しい人ロトを救い出されました。

ペトロの手紙二/ 2章 8節

なぜなら、この正しい人は、彼らの間に住んでいたとき、その不法な行いを見聞きして、日々正しい心を痛めていたからです。

 

 

私はそれに同意できかねています。

娘を差し出そうとした行為を理由にロトが義人だとする、

既存の解説を私は認めません。

 

聖書上、ロトが義人と認定されたのはずっと後の事です。

 

ペトロの手紙二はロトが生きた時代から聖書歴で

約2000年後の書です。

 

 

ロトは元々は普通の人でした。

 

私は悪いものは悪いとハッキリ言います。

 

なぜなら、娘を差し出したというのは、

ロトは神様の要請もないのに、自分で良かれと独断で行った浅はかな行為だったからなのです。

 

アブラハムのイサクの燔祭とはわけが違います。

イサクの燔祭の時は神様が直に関与してイサクを

捧げよと言っていました。

ロトの娘の時は神様の直の関与はありません。

 

み使いが我らの身代わりに娘たちを差し出してくれ、とも

言ってはいません。

 

 

み使いは神様の使いなので強い力があり、自己防御できます。ロトに助けられなくても大丈夫な存在。

アブラハムのイサクの燔祭はこちらをご覧ください。

 

イサクの燔祭でまだ私が

はっきり言わなかった事があります。今回言及します。

燔祭で使われたのは以下。

「三歳の雌牛と、三歳の雌山羊と、三歳の羊と、山鳩と、鳩の雛」で、三歳の羊はアダムの身代わり、三歳の雌牛と、三歳の雌山羊はエバの身代わり、山鳩の雛はカインの身代わり、鳩の雛はアベルの身代わりでしたが、鳥をアブラハムが裂かなかったことで儀式は失敗に終わり、その贖いのため等価の人間で贖うことになってしまったのです。だから子イサクで贖うことになった。

 

 

私から言うなら、ロトはこの娘差し出し事件で有罪です。

 

しかし、聖書は上記に記したように義人だと言っています。

 

何かがおかしい。

 

 

聖書が義人と認定した人物なら、牧師らは、

ロトの行為の何でもが許され、良い事だと勘違い?

しているようです。

 

聖書がロトを義人だと認定したのには別の理由があるはずです。

 

さて、ここで別の話を挟みます。

 

ロトが門のところに座っていたわけは?

ロトはソドムに住む内にこの地の有力者となっていて、

門番のような役目や仲裁の役目をもつ役人になっていたからです。

エステル記のモルデカイが門に座って仕事をしていた事と

同じ事です。


絵は門に座るモルデカイ

 

ロトが役人になっていた事実は、この汚れたソドムの地に

ロト自身がどっぷりと浸かっていた証拠です。

 

だから、み使いが来た その日、門に居たのはロトにとっては

日常の事でした。

 

 

ヤシャルの書19章46節では門に入ってきた二人を最初から天使だと記録しています。

 

ヤシャルの書

(ヤシャルという人が書いた書という事では無く

正しい人の書という意味です。)

 

ロトは天使だと認識して自分の家に誘っていたのです。

 

土地の言わば名士のようになっていたロトは、

優等生的に自分の娘さえ差し出して旅人(み使い)を

守ろうとすることによって、これ見よがしに

自分を奢っていた(誇って)

のです。

 

ソドムの男たちが来た時、ロトはこう言っています。

創世記/ 19章 7節

「兄弟たちよ、どうか、ひどいことすはしないでください。」と。

兄弟たちよ、、というのはロトが日常ソドムの人らの仲介をする時の決まりきった慣用句です。

日常的に使っていた言葉です。

 

ロトは事の緊急性をまだ認識していなかったのです。

 

ハッキリ言いますと、旅人のためではなく、

自分の名声のために娘を使おうとしたのです!

 

偽善です。

 

だから、今まで牧師や神父らが解説していた

み使いを救うためという犠牲的動機ではなく、

ロト自身の醜い自己愛でしかなかった、、のですよ。

 

 

本当に守ろうと思っていたら、ロト自身を差し出すと

言うべきでした。

 

ちなみにヤシャルの書によればロトの娘の一人の名は

パルテまたはパルティスで、

ロトの妻の名はアドです。

 

 

役人だとわかる理由は、聖書協会共同訳では、

創世記/ 19章 9節

だが彼らは言った。「引き下がれ。」

「こいつはよそからやって来ていながら、取り仕切ろうとしている。

 

ですが、原語をみるとロトは裁く者(裁き司)のようにしている、と書かれています。

さて、、

ソドムとゴモラが滅ぼされる前にこういうやり取りがアブラハムと神様とでありました。

 

50人から10人

 

50人の正しい者がいたら、滅ぼさないという神様の宣言に対して、アブラハムは、45人なら?40人?30人なら・・滅ぼされるのですか、とやり取りを重ね、最後に10人の義人が

ソドムにいれば滅ぼさないという言葉を受け取った。

 

なぜ10人だったのでしょうか?

ソドムにはロト家族が住んでいたからです。

ロトの家族は、ロトとその妻と娘4人と婿2人までは聖書ではわかっていますので、

ここまでで8人。そして恐らくもう2人家族がいたはずです。

だからアブラハムは最後に10人の義人がいれば、、と言ったのです。

2月28日加筆

ロトに、8人のほか、別途二人家族が居たことが解りましたのでここに加筆し挿入ます。

聖書を読んでみましょう。

創世記/ 19章 12節

二人(の天使)はロトに言った。

「まだほかに誰か身内の者、婿や息子や娘がここにいますか。町にいる身内の者は皆、ここから連れ出しなさい。

 

この聖句の婿や息子や娘の語句を考えてみましょう。

婿とはロトの実の娘二人の婿二人の事です。

洞窟でロトと一緒に居た娘(塩の柱になった妻の連れ子)とは別です。

 

注目は天使が息子と言った事です。

天使はロトに息子が居る事を知っていたので、

ここに居るのか?と聞いたのです。

それで、原語を読んでみます。

ヘブライ語聖書のこの部分で使われている語句は、

ו:בני:ך

(ウ・ヴァネィ・ㇰハ)です。

この意味は、「そして、あなたの息子たち」です。

英語なら、And: your sonsです。

つまり複数形の息子という語句を使用しています。

 

ですから、ロトには最低二人の息子がいたのです。

日本訳聖書は単数のように訳していますが、正確には

複数でした、日本訳聖書は何かと不正確ですね。

 

だから、ロト家族は、ロトとロトの妻と

妻の連れ子の二人の娘とロトの実の娘二人と、その婿二人と

実の息子二人で、合計10人だったのです。

                    加筆:終わり

 

話をもとに戻します。

ロトは娘を男らに差し出そうとしたのに、

義人だと聖書は書いています。

 

娘らの件は明らかに罪です。悪行為です。

 

神様がそんな事を願ったり喜んだりはしないです。

 

では何を以てロトが義人か?

 

神様はソドムが滅ぼされるとき、ロトらに、

戒め的な条件を

与えていました。それはたったひとつ。

後ろを振り向かないで逃げよ、でした。

 

これは、

アダムとエバが知恵の木からは取ってたべるな!という

一つの戒めを与えられていた事の再現です。

(夫婦でひとつの戒めを守りなさいという

再現。 ) 

 

この再現を以てロトらを救う条件としていたのです。

 

ロトはアダム、ロトの妻はエバに見立てた再現です。

アダムとエバはどちらも戒めを守れませんでした。

 

 

 

ロトの妻はその戒めを守れませんでしたが、

ロトは神様の言う事を信じ守った。

 

それです!

 

義人認定の類似として、、。

アブラハムについて聖書はこう言っております。

創世記/ 15章 6節
アブラムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた。

 

すべてに於いて完璧な人はいません。

でも、、

神様を信じたから義を認定されているのです。

 

アブラハムでも動物の燔祭で失敗しています。

 

ロトも同じです。

失敗したり間違ったりしても信仰により

義と認定されたのです。

 

人間はすべて罪びとです。

しかし

信仰によって義と認められる事を聖書は記録した。

 

 

神様の救いの摂理で、聖書では兄弟とか義兄弟とか

で摂理を進める事が多いです。

 

最初はカインとアベルで、次がエソウとヤコヴで、

モーセとアロン、、ダビデとヨナタン、他、

イエス様と洗礼者ヨハネ、、。。

 

多数あります。

 

アブラハムの時も摂理はアブラハムとロトを使おうとしていたようです。過去の使命者がやり残した事を

その時代、その当代でやりきるため。

 

この事に気づけば聖書を読むとき理解が

深まります。

 

正しい人だからとか、義人だからとかの理由で

神様が救うのだという事は少し違います。

 

人が罪有りだから救うのです!

罪があるからこそ、神様は人を救いにくるのです。

 

 

もうひとつ書いておきます。

 

なぜロトはアブラハムと行動を共にしていたのでしょうか?

 

まずロトとアブラハムの関係を再確認します。

聖書 創世記/ 11章 27節

テラの系図は次のとおりである。テラはアブラム、ナホル、ハランをもうけた。ハランはロトをもうけた。

 

(アブラムは後のアブラハムの事です。)

 

と有るのでアブラハムとロトは叔父と甥の関係です。

 

 

・・・

或る時アブラハムは神様から指示された土地に行くように

促されます。

そして、カナン、そしてネゲブ、そしてエジプトへ進みます。

 

こうした時、まだアブラハムには子が居なかったのです。

つまり相続人がいなかった。

それで、アブラハムはロトを養子にしていたのです。

 

だから、ロトはアブラハムに付き添って旅をしていたのです。

 

エジプトではファラオといざこざが有ってエジプトから

追い出され、再びネゲブを目指します。

 

こうして旅をしている途中事件が起こります。

 

アブラハムとロトは共に非常に多くの家畜を所有していたため、牧草などをめぐって使用人同士で、もめごとが起こるようになりました。それでアブラハムはロトにここで別れることを提案し、先に好きな行き先を選ぶようにと告げます。
ロトは良い土地が有るソドムを選んで別れました。


アブラハムには、神様が現れて、「わたしは、あなたが見渡しているこの地をすべて、あなたに、そしてあなたの子孫に永久に与える」と約束します。アブラハムはヘブロンに

住みました。

 

イサクが生まれたのはその後です。

 

神様はそんなアブラハムに「あなた自身から生まれ出てくる者が、あなたの跡を継がなければならない」
と明言したからです。

 

 

 

 

.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

真実の愛が大切です。

 

 

上の方で案内した以前の記事もご覧になったでしょうか?

ロトと娘(妻の連れ子)との事、、つまり二人の娘が

ロトとで子を儲けたことが書いてあります。

それは、従来の近親相姦という事ではなかった内容もあります。 娘たちはそんな愚かな女性で無かったのです。

 

 

 

 

 

私は、当初の思いより今まで長い期間ブログを記してきました。と言いますのは、そんなに長くブログを続ける予定はなかったからです。しかし、神様の導きと言いますか、、神意なのでしょうか、 聖書のいろんな謎や秘密を明らかにするうちにここまで長くブログを続けている私がいます。

 

その記事の中では、実は私だけでは無く精霊と共に記した記事がいくつもあります。

 

ですので、後から・・数か月後、、読み返した時、この記事は自分で書いたのか?と思う記事がいくつかあります。

 

その中のひとつ、

 

超新未来神学「霊の成長と老い。」を紹介します。

既に過去記事ですが、改定して今回

最新記事として公開します。

 

重ねて証言しますけれど、これは精霊の助け無しでは

書けなかった記事です。

★★★

 

超新未来神学

「霊の成長と老い。」

2025年 2月10日 最新版

 

今日のお話は、霊の成長と老いです。

この事は霊に関する事なので、邪悪な者から邪魔

されないようにお祈りし、聖別される事とします。

 

 


御名・・は、

 

天・地・に於いて、いかに力強い・・

 

ことでしょう。

あなたは、天からの御業をこの地上に置き、

私は、あなたを仰ぎ見、あなたが備えた

日と月と星を見て思います。

あなたは誠をもって祈るすべての人の近くおられ、

あなたを畏れる人たちの望みをかなえ、

救ってくださいます。

あなたを愛す者に聖霊によって神霊の深みをさえ

示唆し心に留めてくださる。

人とは何者なのか、人の子とは何者なのか、

人の霊とは、、。

あなたは人を、あなたに僅かに劣る似姿に造られました。

私のために清い心を造り

私の内に新しく確かな霊を授けてくださいます。


あなたの恵み深い霊が私を導いてくださいますように。

私はあなたの愛ある栄光の輝きと奇しき業の数々を

思い巡らします。

私はあなたの豊かな恵みを受け、あなたの義に

感謝をします。

神様の虹に招かれ、煌めく12の光に包まれ

守られて、、私は証します。

さぁ、始めましょう。

 

★★★★★★

 

超新未来神学

「霊の成長と老い。」

 

霊は成長し霊は老いるのでしょうか?

人類の最大の謎の中のひとつを

今日、話します。

 

まずこれを言います。

人は霊と魂と肉体の三層構造です。

 

根拠になる聖句は以下です。
テサロニケの信徒への手紙一/ 5章 23節
どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。
また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、
わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。

 

人が3層構造なので、預言者エリヤの時こういう事が

ありました。

エリヤが一時的にお世話になっているやもめの所に

居たとき、やもめの子供が死んだのですが、、。

列王記上/ 17章 21節
彼(エリヤ)は子供の上に三度身を重ねてから、また主に向かって祈った。「主よ、わが神よ、この子の命を元に返してください。」
列王記上/ 17章 22節
主は、エリヤの声に耳を傾け、その子の命を元にお返しになった。子供は生き返った。

 

人が体と霊と魂で生きているので、エリヤは神様に

祈り願う時、3度身を重ねたのです。

これも以前話した事がありましたけど、

当時世界初の言及でした。

 

 

動物や植物にも人の霊や魂には劣るけれど、

体、霊、魂があります。

 

根拠になる聖句を読みましょう。

 

創世記/ 7章 22節
乾いた地のすべてのもののうち、その鼻に命の息と霊のあるものはことごとく死んだ。
創世記/ 6章 17節
見よ、わたしは地上に洪水をもたらし、命の霊をもつ、すべて肉なるものを天の下から滅ぼす。地上のすべてのものは息絶える。

コヘレトの言葉/ 3章 21節
人間の霊は上に昇り、動物の霊は地の下に降ると誰が言えよう。

 

動物にも霊があると聖書は証言しています。

 

肉体の体と霊と魂の違いはなんでしょうか?

 

体は創造物で霊と魂は創造物では無いということです。

 

霊と魂は創造の神様の無限の内なるものの

無限分の1のものです。

 

だから、霊と魂は被造物に分け与えられた、と

表現します。

 

人の体は年を経ると、、つまり年齢を重ねると

老いていきます。しかし霊と魂は創造物では無いし

物質では無いので神様が永遠なように、

永遠に存在します。

 

霊と魂に終わりは無いという事です。

 

でも、ここで人は立ち止まって考える事があります。

 

 

人は生まれる時、肉体に、霊、魂、を吹き入れられて

3層構造になるのだけど、

 

霊と魂は永遠だというものの、老いは無いのだろうか?

 

霊と魂は老化しないのか?

 

さぁ、皆さま

 

どう思いますか?

 

聖書を参考にしましょう。

でも、霊の老化を直接的に記している

聖句はありません。

 

でも、、諦めずに読んでみましょう。

 

 

まず、ダビデはどう思っていた?

ダビデはいわば隠れ祭司です。

神様に祈る時、祭司の衣装のエフォドを身に着けました。

だから、

神霊と霊通もできていました。

 

エフォドは祭司の衣装のひとつです。

 

エフォドは袖の無いエプロンのような胸に当てる

祭司衣装です。

 

ダビデの詩編/ 77章 4節
神様を思い起こし、呻き、思い巡らそう/

私の霊が萎え果てるまで。
 

ダビデは霊は老いると思っていたようです。

 

モーセを見てみます。

民数記/ 11章 25節
主は雲の内にあって降り、モーセに語りかけ、モーセの上にある霊の一部を取って、七十人の長老に分け与えられた。
霊が彼らの上にとどまると、彼らは一時の間だけ預言者のようになった。

 

直接には書いていませんが、長老にモーセの霊を

分けたら、一時的に預言者のようになった、という事は、

モーセの霊は赤子のままではなく、、

モーセのように預言者の霊になっていたという事です。

つまり、霊は成長する、、という事です。

 

イエス様から見てみます。

ルカによる福音書/ 1章 80節
幼子は成長し、その霊は強くなり

イスラエルの人々の前に現れるまで荒れ野にいた。

 

体も成長し、霊は強くなったと、いうことなので

霊は成長すると聖書は証言しています。

 

さて、ここで霊が成長するなら、

徐々に老いていくのでは?と考えるかもしれませんね。

 

それが、ちょっと違うのです。

 

霊は体と合わさっているので、体と共に

成長しますが、最後に体が滅んでも霊は滅びません。

 

霊は体が滅んだら離れるだけなのです。

創世記/ 6章 3節
主は言われた。「私の霊が人の内に永遠にとどまることはない。人もまた肉にすぎない。その生涯は百二十年であろう。」

 

人が死んでも霊で生きているという証明聖句。

イエス様も引用した有名な聖句です。

出エジプト記/ 3章 6節
さらに言われた。「私(神様)はあなたの先祖の神、

アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」

 

と、現在形で言われています。それは肉体はこの世には無いが、霊と魂は生きているという意味です。

 

ここで皆さま、問題にするのが、死後、霊で生きている者は

肉体で言うなら、、この世で言うなら、

年齢はいくつ?、、ですね。

 

答えは、、。

 

その前にこれを話しておきます。

 

人が死んだとき、どうなっているのか?です。

 

体から霊と魂が別れるとき、

 

一瞬で生まれてから死ぬまでの人生すべてを、

見返します。

 

それは事実です。

というのも、、私は7歳と7ヵ月の時、川で神様の手によって死に、

神様の手によって生きた事があって、

その時、それまでの人生すべてを観ました。

 

2度目が10歳ぐらいの時、交通事故で死んでいて、

死んだ自分の体を上の方から観ていました。

不思議な気持ちでした、。(その上、見ている自分を更に

見ていた)

 

なぜか、さいわいにも、2度とも生き返ったので、

今、私は生きています。復活というか蘇ったというか、

それは、神様が関与していました、

ので、私が証人です。

 

それで、何が言いたいのか?ですが、

 

人の人生は霊と魂に刻みこまれているという事です。

 

脳にでは?・・・それもあるかもですが、

私は事故の時、頭を打っていたので、

そのとき頭の脳は復活までの一時的に機能していなかったからです。

それじゃあ、脳以外のところに有る記憶を

観るしかないのです。

 

体は動かないのだから、霊と魂です。

いや、霊か魂のどちらかだと思います。

 

どちらにしても、刻み込まれた全人生の記憶は

消えません。

通常忘れた事も霊や魂での刻みにより

消えません。

 

 

だから、全人生の時のどの姿にも

なれます。

 

 

青年の時も、老年の時も、、少年の時にも、

 

霊では、なれます。

 

ですから、霊は成長し老いたりできるけど、

それは、肉体のような老いではなく、生きている時の肉体に合わせた変化だと、今のところ思っています。

 

だから、霊と魂は滅ぶ事はないです。

 

永遠に生き続けます。

 

栄光の神様と共に、、。

 

死後、生きていた時の、どんな姿にもなれます。

 

ps:この記事を書き終わりつつある時,

どうしたわけか、

フッと意識の近くに

この女性が

来ていたので、ここに掲載します。

最初、誰?と思いましたけど、。

 

その女性とは、

リジューの聖テレーズさんで、

19世紀フランスのカルメル会の修道女さんです。
本名はマリー・フランソワーズ・テレーズ・マルタン。


修道名は「幼きイエスと尊き面影のテレーズ」。

残念な事に24歳の時、結核に冒され帰天した。

テレーズは自分の天与の使命は「愛」であると語っている。

 

彼女は今も生きている。

 

 

真実の愛が大切です。

 

 

 

 

 

★ 

書き加える事になりました。 

どうしてリジューの聖テレーズが来たのだろうか? とずっと思案していました。 解らない!、思い当たる事が私自身にはぁ、、無いのだけど。 ・ ・ ・ はーぁ、。 わかりました。

 

 誰かに似てる、、とは思っていました。 誰、、? 誰、、?

 

 私事ですが、私の実母に似ています。 お顔が、、似てる。 しかも、、 私の母も、と言いますか、若い時、 20歳代の時、、結核を患った事がある。 さいわいにも、 母の場合、助かった。 老年になって、何かの検査で、 肺をレントゲンすると、結核の白い線、複線が 見えた。 それは、若い時の結核だった証拠。 なるほど、、そうかぁ。 私が気に留めなかっただけで、 いつも母と一緒にいたんだ、、ね。 ごめんなさい、、やっと気づいたよ。 これからも、母を頼みますよ。

 ★ 

老いてもいつまでも 少女のように純粋な母でした、、。

 

リジューの聖テレーズは24歳で帰天しましたが、

私の母は結核を克服した後、24歳で私を身ごもり25歳で

私をこの世界に現わしてくれました。

 

母は一度も私を叱った事が無かった。

 

実を言いますと、、 母、、実母は、、一昨年、

帰天しました。