今回も有意義な質問があったので記事にします。

 

元になった記事はこちら。

 

 


barso様)おはようございます。
逐語訳のような丁寧な回答をありがとうございました。
つまらない質問に対して、有難いことです。

Yhoshuah) はい、こんにちは。つまらない質問では決して無いと思っています。

私とあなたは信仰・教義の違いはあっても、長い信仰生活をされた、あなたに敬意をもっています。

詳しくは言えませんが、私は家族もお金も全てを捨てて、

キリスト教の世界戦士の誇りをもって献身しました。


たった100円を使う事さえ、感謝の時がありました。

 

え、、今日100円も使えるの、、と。

そうした年月を過ぎた後、ある日突然 神様から、あなたは普通の人の世界にもどれ、

その中ですべきことを成せと指示され今があります。


barso様)なるほど、そういう解釈もあるのかと思い、

大変興味深く読ませていただきました。

Yhoshuah)どの事を言われているのかは? 解りませんが、役に立てていれば幸いです。

私、神様を意識したのは3歳ぐらいの時です。

祈ったのもそれくらいから、、。

 

だから神様の存在は私にとっては日常でした。

聖書はたしか、5歳くらいの時から読んだのだった

と思います。

解らない語句はありましたけど、、。

barso様)以下の2点について関連聖句を幾つか

思い出したので、
今回はちょっとそれを書いてもいいでしょうか。

Yhoshuah)もちろん、良いです。

なんでも訊いて下さい。

barso様)(1). ヘブライ人への手紙を書いた聖書記者が元記事に
無い優れた生贄だとの語句を書き加えたのです。

アベルの捧げもののほうがまず物理的に優っていると
創世記4:4は強く示唆していませんか。
すなわち、カインは単なる「土の実り」ですが、
アベルは「羊の群れの中から肥えた初子」新共同訳、
「羊の初子の中から、それも最良のもの」新改訳です。
「肥えた初子(の血)」は最良のものでしょう。
そうしたのはアベルの信仰が優っていたからですが。

Yhoshuah)はい、創世記を読みますと、羊の群れの初子たちの中の肥えたものをアベルは持ってきました。
それは聖書で記されています。しかし、それが神様からして最良だと聖書は記していません。
カインの捧げものが劣っているとも記録されていません。

なのに神さまがアベルの捧げものに目を留めた
理由は前に回答したように最初からカインの捧げものには目を留めないと決めていたからです。

後年ヘブライ人への手紙他で羊の犠牲がもっと良いと言われているのは、新約聖書以降で羊の犠牲を
高評価しているからでしょう。私からいえば刷り込みです。

捧げ物はあくまでも、みなしの儀式なのです。

最良のもの、と言うのなら、アベル自身を捧げるのが

最良ではないですか?

捧げ物はあくまでも、身代わりです。神様は罪の等価でなくても、悔い改めと信仰によって人の罪を

赦したいのです。戒めを信じなかった不信仰からの罪なので、神様を信じること(信仰)によって

赦しが与えられるのは原理原則に則っていると思います。



barso様)そして罪の贖いは「血」を流さなければ成立しません。
レビ17:11「血が贖罪を行なう」
ヘブ9:22「血を流すことなしには罪の赦しはありえない」
とある通り、
カインは「土の実り」では駄目と知っていたはずです。

Yhoshuah)はい。ふつうのクリスチャンは血のあがないだけを赦しの必然だと思っています。

それは勘違いか、不勉強です。


血を流す事だけが贖罪とは限りません。

あなたがレビ記を引用したので私もレビ記を引用します。

レビ記/ 5章 11節
もし山鳩二羽か若い家鳩二羽さえ手に入れることができないなら、
その人は違反したことのための献げ物として上質の小麦粉十分の一エファを携えて行き、
清めのいけにえとする。

と記されています。この真意は、神様は動物の犠牲のみを

必要十分だと思っていないということです。

小麦粉は血はありません。大切なのは捧げる時の悔い改めと信仰なのです。





barso様) 「神様が持って来させたと書かれています」のなら、
神はアダムとエヴァを追い出したときに、
当然、罪を贖う方法を教えたと考えられますね。

むろん、カインは行いが悪かった点もあります。

Yhoshuah)はい。

「当然、罪を贖う方法を教えたと考えられますね。」

それは、わからないです。

 

どの時点で儀式の やり方を教えたのかは、聖書では

不明です。アダムとエバに教えたかも不明です。

 

ただ言える事はアダムとエバは、罪を犯した自覚が

あったので何かの償いはしたいとは、思ったはずです。

アベルとカインの儀式では、通常アベルが主人公だと皆さんは教えられています。

でも、本当の主人公はカインだったのです。

悪魔に見立てられたカインが如何にして、悪魔の思いを治める事ができるか?

神様は祈るようにして、実はアベルよりもカインに注視

していたのです。

何とか、怒りを治めてくれよ、と。

実は二人の儀式の中心は儀式の供え物ではなく、

 

カインとアベルの心情であり

儀式の結果がどんな事になっても、神様を信じ切る事ができるか?だったのです。

悪魔になった元天使ルシフェルは、いわば弟分の人が生まれて嫉妬し、何があっても

神様への信仰と信頼、、それができなかった。

後年、イエス様は十字架上という大変な

 

状況であっても、

 

神様を最後まで信じ切る事ができました。


barso様) アベルを「なぜ殺したのか。自分の行いが悪く、
兄弟の行いが正しかったからです」ヨハ第一3:12

Yhoshuah)はい、なぜ殺したのか?はカインは神様に見捨てられたと勘違いしたのです。

 

ヨハネの第一の手紙/ 3章 12節 口語訳

をもう一度読みましょう。

カインのようになってはいけない。彼は悪しき者から出て、その兄弟を殺したのである。なぜ兄弟を殺したのか。彼のわざが悪く、その兄弟のわざは正しかったからである。

 

悪しき者はギリシャ語では邪悪という意味です。

それから出たと言うのは、原罪を示唆したのでしょう。

つまり悪魔から、、です。

「彼のわざが悪く、その兄弟のわざは正しかったからである。」はこの聖書記者の主観です。彼のわざとはカインの

捧げ物の事を指していますが、創世記のどこにもカインの

捧げ物自体を悪いとは書かれていません。

カインは何でもが悪という刷り込みがあります。

前回も記しましたけど、神様がアベルの捧げ物が良かったから目を留めたとは創世記には無いです。

ただ、目を留めただけの事。

もし神様が良いと認めたならその場でアベルを祝福した

言葉が有ったはずです。

 

儀式の目的はカインが儀式後、どう行動するかだったのです。


重複するかもですが、、。
自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです」は、具体的には聖書は書いていません。

アベルを殺した事は罪ですが、捧げ物の儀式についてを

指摘していません。

アベルを殺害したからといって、元々が悪人だったとはその証拠がありません。聖書記者の主観が入っています。

皆さんは、カイン、イコール元々悪という、すりこみをされています。

もちろん殺人をした事は悪なのは言うまでもありませんが、。


barso様)(2).
> 罪を犯した本人が神様の前に出る事はできません
ので、子どもに摂理は移ったのです。
なるほど、考えたこともなかったです。興味深いです。

Yhoshuah)そうですか。 聖書を読むと摂理は移って行ったのが解ります。

カインとアベルを失った神様は、セトをアダムに与えました、その子孫の

ノア、そしてアブラハム、イサク、ヤコブ、モーセ、

、ダビデ、、他へと、、最後イエス様へ、。

摂理は救いの歴史です。

前者が失敗や間違いを犯せば次の摂理者に移っていきます。



barso様)しかし、エゼキエル18:20を思い出しました。
「罪を犯した本人が死ぬのであって、子は父の罪を負わず、
父もまた子の罪を負うことはない。
正しい人の正しさはその人だけのものであり、
悪人の悪もその人だ けのものである」
親の罪はその親(だけ)が負うべきというのは
現在の法律でもそうですから、
「子どもに摂理が移る」ということはあり得ますか。
(この聖句は、アダム一人の罪が全子孫に移ったという
「原罪」そのものを否定しているように思えますが)

Yhoshuah)はい、あなたが指摘した聖句、、私もずっと

以前、その聖句をはじめて読んだ時、考えました。

かなりの時間をその事に割いた記憶があります。

親の罪は子はそれを負わない、、そのとおりです。

通常の罪は本人のみの責任ですね。

しかし、人は罪を生まれながらに負っている。

それは原罪です。この聖句を読むとあなたが指摘したように原罪も子孫には及ばないと思うかもしれないです。

しかし、原罪は子々孫々に及んでいる。

ローマの信徒への手紙/ 5章 18節
そこで、一人の過ちによってすべての人が罪に

定められたように、・・・。の

聖句があります。



原罪は神様から与えられた直接の戒めを破った事に起因しています。

プロテスタントとカトリックでは原罪を罪への

傾向性というのですけど。
それは罪の結果であって、原罪の原因を

言い表してはいません。

彼らは原罪の原因を知らないからです。

 

性的な罪だった原罪を赦し、そして消せる存在は

メシアしかできません。

 

ですから、日々エルサレム神殿で行われた

贖罪の儀式では原罪を除いた罪の贖いしか

できなかったのです。

前にも言いましたけど、原罪の起点は悪魔とエバ、

そしてアダムの時で

悪魔はエバを誘惑した事からはじまりました。

その罪は性に関係すること、、です。

性的な罪だったので、アダムとエバ以降、子々孫々に原罪は受け継がれたのです。

 

barso様)アダムの子どもは、親アダムの罪を受け継いだので、自分の罪を贖うために捧げものをした、ということなら
分かりますが。

 

Yhoshuah)はい、原罪は受け継いでいます。

でも原罪の贖いは

人ではできません。だからカインとアベルの儀式は

失った信仰のための儀式でした。

barso様)アベルやノアや律法下のイスラエルが

献げた犠牲は、
原罪を贖うことはできず、罪を思い出させただけです。
ヘブ10:3「これらのいけにえによって年ごとに
罪の記憶がよみがえって来るのです」とある通りです。
動物の犠牲はイエスの贖いの必要性を教えました。

Yhoshuah)はい、そうですね。

原罪を赦せるのはキリストしか

できません。

だから前の応答で、成功したならまもなくキリストが

生まれて来ると書いていました。


barso様)「命には命、目には目、歯には歯を」と

あるように、
贖いには、それ以上でも、それ以下でもない、
"同等のもの" で贖うことができますから、
完全な人間の命には完全な人間の命が求められます。

Yhoshuah) 本来同等=等価で贖われるべきでしょう。

しかし、上でも書きましたが、それだけでは無いです。

神様は慈愛の神様です、神様は人が悔いたなら、

それを条件として赦したいのです。

罰を与えるのを好む神様ではありません。

だから等価でなくても良いから動物や穀物で、

 

あなたの精一杯の誠実をもってきて

捧げものとしてくれ、、と。

「完全な人間の命には完全な人間の命が求められます。」との事ですが、

原罪については、原罪の無い存在でしか赦す権威はありません。

だから全く罪の無い、キリスト・メシアが必要だったのですね。


イエス様は生まれながらにしてキリストなので、赦す権利も権威もあります。

しかしイエス様が血を流さないでも

その権利権威はあります。

違いますか?

 

十字架の磔刑の前でもイエス様は民を赦しています。

いくつも有りますがたとえばこの聖句。

マルコによる福音書/ 2章 5節
イエス様は彼らの信仰を見て、その病人に、

「子よ、あなたの罪は赦された」と言われた。



血を流すと言う条件を、神さまである、キリストに

条件をつけるのですか?

旧約での十字架預言は、そうならないように、との

警告預言です。


キリストが生まれるずっと前から、

神様は警告的預言民に与えていました。

 

神様の御心はこうです。

 

いつの日かキリストが生まれるが、あなた達の

信仰が弱かったなら、キリストは悲惨な最後を

迎えるだろう、。

 

もし、あなた達が不信をしても、

キリストは最後の力を振りしぼって

あなた達の救いを完成することには成る。

 

それでも、良いのか。


赦しの条件は人の悔い改めと信仰です。

だから、洗礼ヨハネもイエス様も、公生涯の初めに

悔い改めよ、と発言しました。



通常クリスチャンは、十字架で血を流すのが必要条件だと言います。

旧約預言でもそう預言されてはいますけど、

私はそれを否定しています。以前の記事にも書いています。

十字架は次善の方策だと、、。最善策は何だったのか?

それは既記事に書いています。

 

いや、ここに簡単ですが書いておきます。

 

イエス様の最善の策は、神殿に行き、

内部の聖所、そして至聖所に入って、

メシア宣言をし、民の信仰を確かめて

救いをする事でした。

 

その預言はありました。

マラキ書/ 3章 1節
見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。

あなたたちが待望している主は/突如、その聖所に来られる。あなたたちが喜びとしている契約の使者/見よ、

彼が来る、と万軍の主は言われる。

 

イエス様は神殿の境内までは入れたけれど、

当時の祭司たちが許可しなかったため、

内部の聖所や至聖所には入れてもらえなかったのです。

 

ですので、次善の策である、十字架の磔刑の道を

甘んじて選んだのです。

 

聖所に入れば至聖所にも入れます。

至聖所は年に一度大祭司しか入れない規定でした。

もし大祭司では無い者が入ればそれは

死です。イエス様が至聖所に入っても

真の大祭司であり、大預言者でありキリスト

なので死にません。

死なないイエス様を反対者たちが観た時、

イエス様が大祭司の資格有りの存在だと

認識することになります。


もし、十字架無しでは赦しは無かったと言い続ける人は、

再臨、した、する、、キリストにも同じ事をするでしょう。


私は、二度キリストを殺すのですか、、と言いたいです。




barso様)つまり「神の子」アダムが罪を犯したので、
対応する「神の子」イエスだけがその罪を贖える、
と、公正の原則から私は考えているですが、

Yhoshuah)はい、原罪についてはキリストだけが赦せます。

カインとアベルの儀式はその前段階の儀式です。

まず、失った信仰を儀式で見せるという事です。


barso)いや、神様自らが贖いをしてくださったのだから、
有難いことだ、と考えているのでしょうか。

Yhoshuah)はい、。「神様自ら」というより、キリストしか原罪は赦せません。

この世の人は全て原罪を負っています。罪あるただの人、たとえ祭司であっても

罪はあります。祭司は儀式において罪がないものとみなしているだけです。

みなし、なので実際は有るわけでして。


真の祭司であるキリストでしか、真の原罪の赦しはできません。

真の赦しなので、一度で良いのです。


まだまだ、あなたは納得できない事もあるでしょうが、

今回はここで終わります。


続けてのお尋ねや疑問は、どうぞ、
関連した質問も、えんりょうなく訊いて下さい。

 

ずれた回答だった場合、それを指摘して下さい。


私も、昔、疑問に思った聖句を思い出せて楽しかった。


私は、聖書を読み始めて、当初、多分誰よりも疑問を持った人たちの中のひとりだった。


聖書は信頼できる書だけど、疑問だらけ、、

問題有りと思っていました。

 

つまり、と有る大学の司祭(教授)と喧嘩するくらい

問題児でした。フフ。

 

え!? 今でも、と言う人は誰ですか。ハハ。

 

 

聖書の謎や秘密を解決するために、

自身で考え続けました。そうすると、

フッと聖霊が来て協力してくれました。


★★★

 

 

 


聖書を読むのは楽しいですね。

 

楽しいついでにこれを、、。


私よりずっと上の世代が熱狂したシンガーを

聴きましょう。楽しそうです。