の記事にbarso様から質問がありました。

 

応答が長くなりますので記事として回答する事に

なりました。

 

親愛なるbarso様へ。コメントありがとうございます。

久しぶりですね、お元気でしたか?


あなたのお尋ねにお答えします。


barso様)ユダヤのGod秘主義カバラでは、聖書の文章の持つ数値にGod秘的な意味が隠されていると考えたようですが、。。

 

Yhoshuah)カバラ数秘術の事でしょうか?

私の記事のいくつかで数的な記述をしていますけれど、カバラ数秘術を意識して書いた事はありません。

私の数的記事はそうしたものでは無く、私の内から出て来たものです。




barso様)またまた独自の解釈ですね。
興味深く読ませていただきました。

 

Yhoshuah)そうですか、ありがとうございます。

独自の解釈> はい、私はこういう記事を書く度に

批判される事があります。ハハ。




barso様)ちょっと気になった点を挙げていいでしょうか。Yhoshuah)どうぞ。

barso様)どう聖書的に説明するかに知的な関心があります。

1.カインとアベルが神様に儀式を捧げたが、
「しかし、失敗しました」とあります。
(確かに原罪の解消はできていませんが)
アベルの犠牲は神から是認されたのではないですか。
ヘブライ11:4
「信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを
神様に献げ、その信仰によって正しい者である
と証明されました。
神が彼の献げ物を認められたからです」

 

Yhoshuah)はい。記事で、アベルの捧げ物の儀式自体を

特定して失敗とは記していません。

カインも儀式自体に失敗はありません。


そこの所は簡略して書いていましたので、勘違いされたのかもしれません。



ヘブライ11:4で、アベルを正しいとした理由は犠牲の捧げものが優れていたからでは無く、

信仰によってです。それは聖句の通り。

但し捧げものについては、神様はアベルの捧げものに目を留めただけの事です。

ヘブライ人への手紙を書いた聖書記者が元記事に無い優れた生贄だとの語句を書き加えたのです。


ヘブライ11:4の根拠は創世記/ 4章 4節
「アベルもまた、羊の初子、その中でも肥えた羊を持って来た。主はアベルとその供え物に目を留められたが、」
でしょうが、そこには優れているとかの語句はありません。




それで、私が失敗と記したのは、アベルとカインの儀式が有って、その後カインがアベルに嫉妬して殺害した事が

あったからです。

まず、これを知ってください。

両者の儀式がなぜ行われたのか?です。

何の意味も無く儀式が行われたのでは無いのです。


アダムとエバが戒めを破って堕落(原罪を負って神様からの離反)し、罪を負ったので、

その贖いのために二人の息子は父の代わりに儀式を行ったのです。母エバも罪を負ったのは事実ですので
エバも儀式を行うべきだとは、人の思考では思います。でも女性は能力が有っても
祭司のような立場にはなれない神様の不文律があります。
それは差別とかの思考では無い事をお断りしておきます。イスラエルの儀式ではそういうものなのです。


儀式をさせたのは神様でした。

新共同訳他ではカインもアベルも自発的に捧げものを持って来たように記されていますが、

ヘブライ語訳では神様が、もって来させた(使役)と書かれています。



さて、創世記の堕落の場面、蛇と暗喩された悪魔とアダムとエバがいました。

本来なら罪を犯したアダムがまず償いの儀式を行うべきだったけれど、

罪を犯した本人が神様の前に出る事はできませんので、子どもに摂理は移ったのです。

儀式の目的は罪が人に入ったので聖別を成す事です。

アダムの代わりがアベルで、悪魔の代わりがカインです。

カインが悪魔の代わりになった理由は元天使だった悪魔の方が神様の創造上、人より先に存在したから、

長男のカインが悪魔の代わりとなっていました。見立てたという事です。

これはカインが最初から悪というのではなく、儀式上のみなしとして行われたの事です。

神様はアベルの捧げものには眼を留めたけれど、カインの捧げものに留めなかったのは、

最初からカインの捧げものには眼を留める事になっていなかったからです。

罪の元となった悪魔側に見立てられた者の捧げものは神様は受け取らないのです。

カインはサタンの立場に置かれたので、サタンが自制できなかった嫉妬心を治める必要がありました。


カインがすべきだった事は、認められなかった儀式の後、怒りが有ったにせよ自制してアベルを仲介として神様を信じ

再び神様の御前に立つ事でした。元天使のサタンが堕ちた理由は、後から生まれた人間に神様の愛を取られたと勘違いして

嫉妬した事でした。


カインがアベルを仲保者とする事は、4000年後、メシア・イエス様をを仲保者として人が救われる型です。


アベルとカインの儀式は別々に行われたけれど、摂理的には一体の儀式です。

儀式の後のカインの行動も含めて摂理だったと思います。

もしも、カインが自制できてアベルを仲保者としていたら、摂理は成功となり、ほどなく

メシアが来臨し、原罪の赦しを得たのです。

そうなると、聖書はその時点で終章となったでしょう。







barso様)2.「イエス様は神様との霊通を一旦切っていた」です。
空腹になったぐらいで、霊通は切れて、
「神様のみ言葉が受けられない」のですか。

 

Yhoshuah) はい。

barso様)「切っていた」ですから、

自分で切ったのですね。
詩編23:4文語訳を思い出します。
「たとひわれ死のかげの谷をあゆむとも
禍害をおそれじ、なんぢ我とともに在せばなり」

 

Yhoshuah)なるほど。


barso様)3.「罪なきメシアなので本来はサタンの

試みは
受ける必要はなかったのですが」について。
わたしは、荒野での40日間の試みについては、
最初のアダムがされたのと同じ誘惑が
最後のアダムにもされたのだと思っていました。

 

Yhoshuah) そうですか。

barso様)(※両者とも「神の子」です。

ルカ3:38でアダムを
「神の子」と訳している聖書は、文語訳、新改訳、
KJV欽定訳、ASV、RSVなどがあり、そう訳せます)

 

Yhoshuah)神の子との表現はそれで良いと思います。

なぜなら、人の創造の時、物質の肉体と物質ではない神様の霊や命の息を人は与えられているからです。


だから、あなたも神様の子です。

ただし、イエス様は神の子であり神様です。ここは見解の相違があるかもですが、、。


barso様)すなわち、
アダムは禁断の木の実を食べるかどうかで、
「食べたら、神のようになれる」と誘惑され、
神への忠誠を(サタンを通して)試された。

 

Yhoshuah)忠誠という表現が間違いとは言いませんが、

神様と人との本来の関係を思いますと信仰とか信頼が良いと思います。 人と神様との関係は主従関係では無く、

本来親子の関係だと認識しています。

堕落したので、主従関係のようになってしまいました。

サタンを通して? ですか。サタンが存在しなかったなら

取って食べるなの戒律は無かったです。

試されたというより、警告でしょう。親は子に危険が及ぶ可能性が有ったなら危険から遠ざけたいのです。



barso様)一方、イエス様は断食を守れるかどうかで、

「神の子なら、奇跡力を発揮すれば、

神のようになれる」と誘惑され、神への忠誠を(サタンを通して)試された。

 

Yhoshuah) その説明なら神様がイエス様を

試した事になりますね。

イエス様は忠誠というより、神様を父と呼んでいますので愛に於いて信頼と思った方が良いと思います。

barso様)神のようになれる」と誘惑

 

Yhoshuah)イエス様は元々神様なので改めて

神様になる必要は無いです。

そこ、あなたと見解が分かれるかもしれません。

ここで最初の悪魔の試みについて。
マタイによる福音書/ 4章 3節
すると、試みる者が近づいて来てイエス様に言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」

この石とは暗にモーセの石盤を指していたのです。

モーセはイスラエルの民の為に命がけで神様に祈りこの石盤を神様から受け取りました、

石盤自体に尊さが有るのではなく、刻まれたみ言葉に

価値があります。


石盤の主体はみ言葉なので、み言葉の実体であるイエス様も石盤がイエス様を象徴したとも言えます。

命がけで受け取った石盤はモーセの象徴と言っても

良いでしょう。


この場合のパンとは後の聖句であちこちに書かれているようにイエス様の体の象徴であり、

すなわち神様と同等な神聖なものを意味(象徴)しています。



申命記にモーセは神の人と記されています。

石盤はみ言葉があり既に神聖なものです、それをもう一度、神聖なものになれと悪魔はイエス様に命令しなさい、

ということになりますので

石盤の神聖さの否定となります。


イエス様はそうした事を解ってはいましたが、そしらぬ顔でマタイによる福音書/ 4章 4節

「『人はパンだけで生きるものではなく/神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる』と書いてある。」と答えられた。

この場合のパンは食物のパンを指して言いました。 


barso様)二、三番目も同様で

「神の子なら」と言われています。
「神の子なら、神の子らしい奇跡力を発揮して、
神のようになり(神から離反し、独立して)みよ」
と誘惑されているように思えますが。

しかしイエス様は「神の言葉によって生きるべき」、
「神を試してはならない」「神だけに仕えるべき」
と言ってサタンの誘惑を三度退けました。

つまりサタンは、イエス様が全能の神から離反し、
独立して生きるように誘惑した、とは考えられませんか。

 

Yhoshuah)はい、サタンは神様への反逆者ですから

何とかしてメシアを引きずり落としたかったのは

事実でしょう。

ただし、独立は無いでしょう。神様の実体は三位一体で

唯一なのでイエス様もその一位格で一体。

一体とは切っても切れない関係があるという事です。

だからいくら悪魔が誘っても独立は無いです。



barso様)『十戒』の第一戒は、"他の神に仕えるな"です。
神様の最大の関心事は人間の忠誠(忠実)でしょう。
(黙示2:10, 2:26、コリ第一3:2、ルカ6:10など)
だから最初のアダムも最後のアダムも
神様への忠誠を試されたのだ、とは思えませんか。

 

Yhoshuah)はい、上記でも記しましたが、

本来は信頼です。

忠誠と言いますと主従関係が前提となります。 

神様の願いは人が家来のように成る事では無いと

私は信じています。

神様の最も大きな願いは、人が神様の友のような存在になる事だと思っています。

神様の創造の目的は被造物から喜びを得るため

だったのですから、。

その喜びの最大の対象は人です。

ですから神様は自分に似せて人を創造した、、のです。

人で例えますと、、人が友と交友し語らう事は人の喜びです。主従関係の交遊ならそれに劣ります。

それと同じで人が霊肉共に成長し神様と完全には同等にはなれないけれど、それに近いところで神様と友人のような関係が

できたなら、、それは神様の最大の喜び、、となるのです。 

人は神様の友と成りえる事は可能です。

出エジプト記/ 33章 11節
主は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた。

イエス様は裏切ったユダにさえ友と言われました。
マタイによる福音書/ 26章 50節 イエス様は、「友よ、しようとしていることをするがよい」と言われた。


barso様)3.もう一つ、

これはわたしの分からない点です。
ガドがダビデに対して「三つから選べ」と言い、
ダビデが「人の手には陥りたくない」と答えたら、
「イスラエルのうち七万人が倒れた」ことです。
ダビデ個人のために国民が責任を負わされたのは、
愛と公正の神のすることとは思えませんが、
これはどう受け止めたらいいでしょう。

 

Yhoshuah)はい、その聖文は難しいですね。

 

愛の神様がそんな悲惨な事をするはずが無いと思うのは

当然です。このダビデの件は

元々サタンにそそのかされてイスラエルの人口を

調べた事でした。それは人頭税を徴収するためです。

サタンにそそのかされた事がダビデの罪となったのですが、

先に言っておきます。ガドから提示された三つですが、

ダビデは三つとも拒否すべきでした。

ダビデはそれをしなかった。残念な事です。

自分の罪を子孫が負った事は聖書ではままあります。

ノアの時、その子ハムの裏切りでノアの孫カナン以降が

呪われた事、

アブラハムの鳥や動物の燔祭で儀式を失敗したため、

後の子孫が400年も苦しんだ事、。

ダビデの件に話を戻します。
聖書にふたつ同様な記述があります。人口調査を指示したのは神様とサタンとの違いがありますけど、


私はサタンが関与したのだと思っています。

以下。

サムエル記下/ 24章 1節
主は再びイスラエルに向かって怒りを発し、ダビデを感動して彼らに逆らわせ、
「行ってイスラエルとユダとを数えよ」と言われた。

サムエル記下/ 24章 9節
そしてヨアブは民の総数を王に告げた。すなわちイスラエルには、
つるぎを抜く勇士たちが八十万あった。ただしユダの人々は五十万であった。

歴代誌上/ 21章 1節
サタンがイスラエルに対して立ちはだかり、イスラエルの人口を調べるようにダビデを唆した。
歴代誌上/ 21章 5節
ヨアブは調査した民の数をダビデに報告した。イスラエル全土には剣を扱うことができる
男子が百十万人、ユダには剣を扱うことができる男子が四十七万人いた。

歴代誌上/ 21章 14節
主はそこでイスラエルに疫病をもたらされ、イスラエル人のうち七万人が倒れた。


二つを観ますと人数が違います。

そしてこれ、飢饉の期間が違う。
歴代誌上/ 21章 12節
三年間の飢饉か、三か月間敵に蹂躙され、仇の剣に攻められることか、
三日間この国に主の剣、疫病が起こり、主の御使いによってイスラエル全土に破滅がもたらされることか。』
わたしを遣わされた方にどうお答えすべきか、決めてください。」


サムエル記下/ 24章 13節
ガドはダビデのもとに来て告げた。「七年間の飢饉があなたの国を襲うことか、あなたが三か月間敵に追われて逃げることか、
三日間あなたの国に疫病が起こることか。よく考えて、わたしを遣わされた方にどうお答えすべきか、決めてください。」


サムエル記下/ 24章 15節
主は、その朝から定められた日数の間、イスラエルに疫病をもたらされた。

ダンからベエル・シェバまでの民のうち七万人が死んだ。


飢饉が三年と七年の違いがある。


ここまで応答して悪いのですが、ダビデの件は

謎のままとします。

ただ、言える事は7万という数字は変だと思います。

端数も無くピッタリ7万とは何かの意図を感じます。

実際に死んだ人の数では無いと、、私は思っています。

何かの象徴的な数でしょう。


その何か?は、、今回は謎としておきたいです。

だから、この件はいつか、、またの機会に、、。