記事UPするの遅れました(^O^;)
父が亡くなったのは2004年ですので、もう18年経ちます
わたしの親族で、唯一今のわたしを知らない人
知ったら、どうしただろうか??
でも戸籍の名を変え ・・・・ 一時期僧籍に入ったための改名で、還俗してもそのままにしたようです
除睾もしました ・・・・ 前立腺がんの治療のためです
もちろん、わたしとは理由は違うのですが
やったこと自体は、同じことをわたしより先にやっていました(^O^)
やっぱりわたしは父の子ですね!
さすがに”姓”と、さらには”性”までは変えることはしませんでしたが・・・
わたしが彼女(元奥さん)と結婚する時
何も相談せずに「姓は向こうの姓にするから」と言った時には
「そうか」と言って、反対こそしませんでしたが、寂しそうだったのは、今でも覚えています
一応”長男”だったのですのでね! ・・・・ 今は長女です
そんな父は絵を描いてわたし達を育ててくれました
”絵を描く”といっても画家と言うよりは
シルク地やキャンバスに油絵の具で、写真から写し取った肖像画を描く職人で
わたしも、コンピューターというキャンバスにシステムという絵を描く職人になりました(^O^)
この”コンピューターにシステムを描く”と言う言葉は
最初に勤めた外資系企業で(のちに初の生え抜き日本人社長になられた方)
辞表を呑み込んでの直談判した時の事業部長に言われた言葉ですが
私的にとっても気にいって、父の葬儀の時の喪主挨拶で
父から受け継いだ職人魂みたいなもののお話の中で披露しました
今はずいぶんと雰囲気も変わってしまっていますが
横須賀のどぶ板通りという米軍の兵隊さん相手の繁華街に店を出していたので
チョクチョクとお店には寄っていました
そしてある時、基地司令からの依頼で基地の中に入ったこともあったようです
当時はまだまだ外人さんがあちこちの街にいるような世の中ではなく
特に黒人の人々に合うことのほとんどなかった人達には一種独特な感じがあったようですが
そういうわけで、わたしは特には何も感じずに育ってきました
そして当時は年に何回か独立記念日やら何やらで米軍基地の公開がありました
その時々で空母や駆逐艦、潜水艦等々ちょうど寄港している艦船にも乗せてくれて
帰りには、穿孔された紙テープやパンチカードを大事に持って帰っていました
今思えば、業務で使った後の単なるゴミだったのですが
当時の子供達からしたら、最先端の科学の片割れみたいな感覚でいたのです(^O^;)
ちょうどそのころ、父から鉱石ラジオから進化した?ゲルマニュウムラジオのことを教えてくれて
なけなしのお小遣いをはたいてパーツを買ってきて組み立てたり
いろいろなコイルを巻いたりしていました
でもそれらに影響されたのかはわかりませんが
中学一年の時に、日本短波で放送された「電子計算機入門講座」を聞いたりしていました
このころはまだ真空管式だったりするのですが・・・
そしてこの時は、HWとしてのコンピューターを意識していたのですが
そのあとSWへと軸足は移していくのです
それでも完全に移るのではなく、半身を残したままでの取り組みでしたし
またブルー(現場)とホワイト(後方)の架け橋になれるようにと意識し続けました
いつもわたしは境界の狭間に居る、というか跨いで立っているのですよね!
そして勤めて48年、わたしの産み、育てて、育んだシステムを43年
天職と思えるものに辿り着き
最後は、曲がりなりにも想いの性で、天職をまっとうできたのは
わたしもいつか生の灯が消える時、多分笑って逝けるのかな、と思っています
父に感謝ですね!