ホールの販売機で買ってきたコーヒーを前に、武部さんは行った。
「一年前から情報収集。OG、OB訪問に資格取り。何回電話をかけて、何枚書類を書いたのかなんて、もう数え切らない。いつでも頭の中は就活で一杯で、どうやったら受かるかってことばかり考えていたの」
********************************* 坂木司著「僕と先生」-差別と区別 -より ****
今のご時世多少は売り手市場に傾いてはいるようですが、学生さんの就活も大変そうですね!
このお話の主人公の一人で極度の怖がり屋で人が殺される小説は読めないくせに
推研に入った大学一年生の二葉
見つめれば写真のごとく丸ごと記憶できる特技を使って大学に入って上京してきたが
ひょんなことでミステリの大好きな先生と知り合います
そんな二人が身の回りにあるいろいろな謎にであい
二葉の記憶と先生の推理で謎を解消していきます
そんな謎の一つが推研の先輩のレムさんが意地悪されたエントリーシート紛失事件
「私はこの会社を前から調べていた」どうしてもその会社に入りたい人と
「この業種を目指していて、この会社を目指していたわけではない」必ずしもここでなくてもよい
心に余裕のある人
ここで”しか”の人と、ここで”も”の人
この余裕に嫉妬した結果の意地悪(^o^;)
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~
「そう。でも一番キツいのは、正解がないことかな。何をどうしたら受かるかなんて、誰にもわからない。だから、いつ終わりが来るのかもわからない」
「私、ゴールの見えないマラソンは走れないかも」
落ちるたびに自分を否定されたような気になって、受かった人との差を考えるの。どうして自分は落ちて、あの人は受かったのか。 ・・・・そんなの、考えたって意味がないのに」
~
しかしそん中、レムさんが明るい声で言った。
「心配しなくたって、まあ、なんとかなるさ」
「なんですか、その無責任な発言は」
「だって皆、今ちゃんと生きているじゃないか」
「正解がなくて、いつ終わりがくるのかもわからないのは人生と一緒だ。そして今、ちゃんと生きてるってことは、似たようなことに出会っても大丈夫。そう、思えるんだけどな」
~
「誰しも『あなたの人生の物語』を、自分で生きるしかない。『しあわせの理由』を探しながらね」
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わたしも、「どんなに煮詰まっても明日は来るさ!」という気持ちで
最後の最後には”わたしの領分を超えた!”と、こころの安全弁を開放していますし
自分の人生は”自分を生きる”ために生きるのであって、決して他人の為に生きていません
ですから、ジェンダーのことは別に置いて、今も今までもいつでも自己は肯定しています
そしてその肯定感の源泉はお仕事を通して感じえた自分の能力においてです
それは天職と思えるお仕事に巡り合えた、就活への考え方が間違っていなかったのだと思います
わたしが就活した時代は、求人も多かったけれど応募人数も多かった(^o^;)
そんな中でその時の流行の業種でもなく、国内大手企業でもなかった!
単にやりたかったお仕事(^O^)
さらには私を含めて同じゼミの同期三人は
みんな先生の紹介も関係なく勝手に全員外資に就職!
先生、翌年からしばらくは困っただろうなぁ・・・ ごめんなさいm(_ _ )m
そう言っても、わたしの就活は一社のみなのです(^o^;)
その会社は工業デザイン的にはそれなりに有名で
美術の教科書にも製品が載るような会社でした
まだまだ紙テープが生きているころに
初めてデスクトップ・パーソナルコンピュータをNASAに納入したと言っても
コンピュータ業界では後発で、その意味ではほとんど名前が知られていない会社でした
わたしが三年生の今頃の時期、そのパーソナルコンピュータを使って
(PC88やFM8が出てくるのは、その10年後くらいです)
たしか三日間の「学生を対象にしたコンピュータ講座」が
学校の掲示板で募集されていました
募集要項を見ると担当部署は「人事選考科」
”これは罠だ!”と思いつつも、顎足つきでコンピュータが触れるというので
ゼミの同期三人で受講してきました
要は今で言えば、短期インターンシップの様なものですね!
この講習の中でも(短いのが良いプログラムとすれば)積極的に手を上げて
先生の模範解答よりも短い回答を出したりして、とりあえずは目を引いたりして
講習の終わりには声をかけられました
ただその時は「少し考えさせてください」と即答はしなかったのですが
GWが終わって学校に行ったら、何人かが内示をもらい出していたので
わたしも受験しなくちゃと、やりたいコンピュータSWのお仕事だし”いいか!”と
たまたま、その時の選考科担当がOBだったので、その人にお電話しました
本来は一次選考は日本各地の事業所で行い
それに通ると全国八ブロック単位で20人くらい集めてのグループディスカッション
そして最後の三次選考が目黒雅叙園ホテルでの一泊合宿選考!
これが有名で、当時は週刊誌にも毎年取り上げられていました
わたしは、上のような経過がありますので一次二次はパスで、三次の合宿選考に臨みました
当時は今のようなリクルートスーツではなく、学生服の人が多かったのですが
わたしは普段から学生服を着ていたのなら良いのですが
就活だから学生服と言うのもなんだかなぁ・・・と
ブレザーにタートルネックのセーターでした(^o^;)
そして本社での集団自己紹介では
「□大自動車部卒です!余暇で経営学をかじってきました」と挨拶
おかげさまで?!人事部長面接では勉強のことは一切聞かれませんでした(^o^;)
そのあと本社からホテルに移動して、お食事やお風呂タイムをはさみながら
5人ずつ3チームに分かれてのビジネスゲームバトルです
若気のいたりで会社の考え方の穴を突っつこうとしたのですが
却って会社側の反撃を食らってしまいましたが
内のチームは全員合格していたようです(^O^)/
この時わたし達のチームは、他のチームが来ないのを幸いに
お風呂場でこの問題を討議したのですが
このことは選考担当の印象が強かったようで
後の選考会で私たちのことが話されたそうです
そんなこんなで、わたしの就活はこの一回だけなんです(^o^;)
でもこの選択は間違っていなかったのです
時は流れて、いつしか二回の転勤で、初めて家を離れてこの地に流れ着きました
ここで(直接)役に立ったのは、教室で身に付けたものではなく
車庫で身に付けたものでした(^o^;)
それは今わたしが天職と感じている生産管理のシステム構築にあたって
ほとんどのお客様が車やバイクの工場ですが
そこで造られる部品はほとんどわかるのです
そうするとお客様は、(本来システム作りには関係ないのですが)
「○○さんはよく(私達の造っている物を)知っているねぇ!」と評価してもらって
その後の仕事がしやすくなるのです(^O^)
その意味では私のやってきたことに無駄がない
というか全て有機的に結合させていってしまうのです
ですから男の子の時もわたしはわたし
いつのわたしも封印することなく認めています
人は生きるため(の糧を得るため)にお仕事をします
でもそれは私であるためにもお仕事はしていたいと思います
わたしは給料は付いて来るものであって
そのためにお仕事をするという気持ちは少ないと思います
自己実現する場と言うのは
お仕事の場以外でもあるのだとは思いますが
現実的には一番表現しやすい場なのかなとも思います
わたしは現場にこだわり、お客様の声を直接聞くことにこだわっています
そのお仕事を現場でやり続けるために会社を二回移り
結局同じお仕事を(一部の同じお客様とは)40年継続してさせていただいています
は多少なりともなれたのかな(^O^)/
あと10年、次は想いの性で、やり続けてきた天職と思うお仕事を全うできたなら
と思っています
ガ ン バ ! わ た し (^O^)/