書くというのは、二人称をつくりだす試みです。
書くことは、そこにいない人に向かって書くという行為です。
文字をつかって書くことは、目の前にいない人を、 じぶんにとって無くてはならぬ存在に変えてゆくことです。

                        ― 長田弘 「すべてきみに宛てた手紙」より ―

 

以前紹介した方法を用いて縦書きで記載。俳句や短歌をブログに掲載したい方は使ってみてね。スマホのAmebaアプリでご覧のかたは横スクロール不可です。「ブラウザで開く」で閲覧ください。

 

皆さん、こんばんは。

2023年も残り少なくなりましたが、いかがお過ごしでしょうか。

実は今日は他に書きたいことがあったのだけれど、縦書き箇所に引用する部分があやふやです。急遽北海道は小樽の古本屋さんに、あるヌーヴォー・ロマン作家の著作を注文してしまいました。

 

今は便利ですね。以下のWEBサイトで全国の古本屋さんの蔵書を検索できます。皆さんもブロガーさんですから、元は本を読むのが大好きというかたが多いと思います。昔読んだあの本、しかし今は絶版になり久しい、こういった本も難なく探せそうです。運営元は千代田区神田小川町なので、神田の古本屋街のある場所ですね。

 

 

何を書くつもりだったのかというと、“特別なひと”のことで悩むのは正しい(※)、という話をするつもりだったのですが、小樽から本日発送したとのこと。届くのは元旦になりそうです。届き次第記事にしようかと思っています。

※美咲さん宛てかな。

 

 

今回は前倒しで、明日の大晦日に投稿する予定だった記事にします。

前回に続き、詩人・長田弘(おさだひろし)の「すべてきみに宛てた手紙」からの抜粋。

 

本ブログは2013年から開始したものの、一年に数記事を忘れた頃に上げるのみで、本格的に書くのは今年からといっていいでしょう。

文章を読んだり、書いたりすることは元々好きですが、改めて読む・書くということを考えさせられる体験となりました。

 

以前の記事で「ものを書くとき、書き手は書かれているものの神様なのだろうか?」という問いを投げかけたことがありました。答えがどうであれ、書き手と書かれたものの関係が、神様と人間ほど隔絶しているのは自明でしょう。むろん書き手も人間です。多くの小説家がいうように優れた小説の登場人物は、小説家と対等に話をすることができる。しかし登場人物は小説を書くことができない。次元の異なる二重の目を所有しているのは、書き手だけなのです。

 

ブログを書く、小説を書くに限らず、人は回想しているとき、それを話すとき、書き手と同じ場所に立っているのではないか。回想して後悔したり嘆いたりするのは、“神様”の目を所有しているからです。しまったな。こうすればよかったな。こういう無力感は、“神様”の目を所有しつつも“神様”の力を持ちえないから起こるのではないか。もしも“神様”の目と無縁だったらどうでしょう。人は後悔したり嘆いたりすることのないただの自然です。

 

書くということは、こういう人間の有り様をわかりやすく示す行為かと思います。回想して少し前の自分を読みとる。なぜ読みとられなければならないか。それは人間は自分のしていることもわからず何かをするものだからです。不可解なものだからです。

 

何だか原始的な話ですが、自分が自分と疑いなく思いこんでいるものはその実、実体ではなく、ひとつの現象・関係のようなものなのかもしれませんね。

だから書く。どうせ書くなら愛情を持って。

書くことを思い出させてくれた本ブログならびに関わってくれている皆さんには、感謝の一言です。ありがとう。

 

 

こんな所感で、乱文失礼になりました。明日も何某か記事を上げますので、年末の挨拶は控えておきますね。