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詩人・長田弘の「すべてきみに宛てた手紙」より。
ギターについては、弾いていない時期こそあったものの、やめたり、わすれるようなことはなかった。馬鹿の一つ覚えのように瓦礫のなかから出てきたのがギターだったのだ。なんなら本当に瓦礫のなかから拾ってきたギターだって持っている。
若い頃のある友達によるふじねこ評。
「その攻撃的趣味は良いよ」
攻撃的趣味と言われると、その逆の受動的趣味とはなんだ?という疑問がわきおこるが、頭を働かせ、体を動かし、なによりハート・イン・モーション(動くこころ)だったからこそ、やめることがなかったのだろう。
しかし、今年の最後にアンジェリコギターを弾くことをやめるとは思わなかった。これは手放してみて感じることで、手元にあっていつでも弾けるのに弾いていない状態を続けていれば感じることはなかっただろう。いつでも弾ける=弾いていると錯覚するのは簡単なことだ。
今、そこにあるはずの場所に、アンジェリコのギターケースはない。これは紛れもない事実だ。あるのが当たり前で、あることに寄りかかっていた自分がいたかもしれない。久しぶりにないことを楽しんで、ないということはまた新しいギターがほしくなるかもしれない。坂をのぼるところを楽しんでいけたらと思う。
ギターひとつも持っていないけれどギター弾きだよ、というのも素敵かも(笑)。
今、苦しい、悩んでいる、そういう方にも、たとえ終わったとしても、そこからまた始まりだよ、と付け加えて本記事の締めとします。
ぶすぶす燻ぶっているのではない、弱々しかろうが確かに燃えている小さな炎が、灯が、「そのあとに、それでもそこに、なおのこるもののなかに」あるはずです。