随分前のことですが、自分なりに自分の性格を分析してみたことがあります。
もちろん、まだ日本に関して、日本人に関して勉強をしていなかった頃の話です。
そして、その一つとして、「自分の中には、ソフトな面(温和な面)とシャープな面(鋭利で攻撃的な面)がある」ということでした。
今となっては、それは大雑把に言えば、縄文的要素(南方系の民族性)と弥生的要素(北方系の民族性)と言い換えることができます。
一般的に、日本人の遺伝子には7~8割に弥生系のDNAが混じっていると言われています。
ちなみに僕の外見は、特に幼少期は色白で典型的な弥生顔で、中学生になるまではいつも女の子に間違えられたほどでした。青年期に入ると、髭が濃くなるなどして(標準よりも濃い方)、今となっては弥生系をベースにしながらも縄文系の要素も混じっている外見になっているように思います(?)。
性格的には、よく「joyrideさんの怒ったところを見たことがない」と言われるほどですが、もちろん、職場で時には怒ったりすることもあるのですが、印象としてはそうらしいのです。そもそも、僕は真面目に一生懸命やっている人が失敗したからといって、すぐに怒ったりはしません。というのも、そういう人はわざわざ怒られなくても、既に自分で反省しているからです。僕が怒ったりするのは、自分勝手に適当に仕事をやっている人に対してです。そのため、両者から見ると、僕の印象は違うかもしれませんね。
ちなみに幼少期には短気なところがあったため、今でも母に「あなたは短気だから」と言われ、そのことを話すと、周りの人からは「え?joyrideさんが短気?」と意外に思われ、「うーん、昔は短気だったかな。でも、今も短気な面があるようにも思う。ただ、それを表に出さないだけかもしれない」と返したことがあります。
とはいえ、幼少期もそんなに我慢が利かない子供だったかというと、逆に忍耐強い面もありました。
例えば、5歳くらいだったと思いますが、友達が自転車に付けていた車のナンバー・プレートの玩具(100円くらい)がどうしても欲しくて、「買ってくれ」とせがんでも母親がお金をくれないので、玄関で抗議(?)のために数時間、ずっと立っていたことがあります(笑)。
あと、たまに「幼少期の記憶はほとんどない」と言う人がいるのですが、僕は2,3歳くらいからの記憶はほとんど残っています。
3歳になって、初めて保育園に連れて行かれそうになったときも、行く途中の電柱に必死にしがみ付いて「嫌だ、行きたくない!」と抵抗し、最終的には力づくで保育園に連れて行かれましたが、昼頃までずっと泣いていました(ただし、途中からは「いつまで泣き続けたら家に帰してくれるかなぁ」と思いつつ:笑)。
その後、母が迎えに来て、実家の隣の祖母の家に連れて行かれ、祖母に相談した母は「そんなに嫌なら無理に入れる必要はない」と言われて、僕には1年間のモラトリアムが設けられたのです(笑)。
さて、2,3歳頃の僕は何をしていたかというと、絵を描くのが大好きでした(そのため、「この子は将来画家になるかもしれない」と思ったのか、その当時の絵は今でも実家に保管されています:笑)。
しかし、その一方で、近所の1,2歳年上の男の子と一緒に野球をやるのも大好きでした(初めて野球をやったときの様子もよく覚えていますが、ここでは割愛します:笑)。
そのため、保育園や幼稚園に通っていた年上の男の子たちが帰ってくるまでは、家で絵を描いていて、帰ってきてからは一緒に野球をする毎日でした。
そして、1年後、4歳に「成長」した僕は母から「保育園、行く?」と訊かれ、「行く」と答えて、いわゆる「年中」から保育園に通い始めたのです(ちなみに、その時の様子も覚えています。近所のノリちゃんがどうしたとか)。
ちなみに「年中」「年長」と同じクラスで一番仲が良かった友達がいて、同じ小学校に通ったのに、5年生になるまで同じクラスになることはありませんでした。そして、ようやく同じクラスになって僕的には懐かしい気がして感慨深かったのですが、彼からは「お母さんが言っていたんだけど、僕とjoyride君は保育園のとき凄く仲が良かったらしいね。全然覚えてない」と言われました(笑)。僕は仲良くなったきっかけや初めて家で遊んだ様子も覚えているのですが…。
えっと、何の話でしたっけ?
そうそう、僕の中の短気な面と我慢強い面の話でしたね(笑)。
縄文系とか弥生系とか考えていなかった頃は、僕の中のシャープな面は父系から、ソフトな面は母系からの影響という風に捉えていました。
僕の父系は厳格で現実主義的で親戚の中にはどこか気難しい感じの頑固者という人もいるんですけど、勉強は得意な家系です。
一方の母系は、楽観的で陽気な「人の良い」人たちが多く、悪意というものを感じさせない家系で、勉強よりクリエイティヴな作業が得意でデザイナー系(そんなに大それたものじゃないですが)の仕事をしている人たちが多く、そんな中、唯一、僕の母だけが学力優秀者だったみたいです。
(といっても、母は小学6年のとき、担任教師に「お前の実力はこんなものじゃない」と怒られたことをきっかけに真面目に勉強をし始めたら、「こんなに短期間に成績が上がった子は見たことがない」というほど成績が上がって、名古屋有数の私立中学に入学しただけですが)
この「こんなに短期間に成績が上がった子は見たことがない」というのは、実は僕にもあって、中学時代、大学入試前の急激な僕の成績アップは、聞いたところによると、それぞれ伝説になっているそうです(笑)。
こうした集中力も日本人特有のもので、それが明治維新や戦後の高度経済成長に繋がったのではないかと思います。中西輝政氏が、「日本人には保守的な縄文的感覚と、いざという時に急激な変化に適応する弥生的感覚がある」というようなことを言っていました。
ちなみに僕の弟は、あらゆる面で母系色が強く、実際、名古屋でインテリア・デザイナーをやっています。
それと、上述したように、僕の幼少期の絵描き好きも母系の影響かもしれませんが、実は小学3年生くらいから絵を描くのが苦手になりました。
いや、模写とかは得意なんですけど、それまでのように想像力・創造力を働かせて絵を描くのができなくなってしまったのです。
で、後から考えると、小学3年の担任の教師が非常に厳しかったので、創造力が削がれてしまったのかもしれませんね(?)。
ちなみにその担任の先生はおそらく定年間近の、典型的な戦前世代といった人で、給食においては、フライの残りカス一つが無くなるまで(皆に配り終えるまで)給食当番の仕事は終わりませんでした。
で、思いっきりマイ・ペース人間だった僕は、厳格な規律を求める、その先生に本当によく怒られました。ひょっとしたらクラスで一番怒られたかもしれませんし、朝から昼まで授業中、ずっと僕一人が教室の先生の前に立たされて、僕のお説教のために授業が潰れたこともあったほどです(別に悪さをしたということでもなく、一言でいうなら、僕のマイ・ペースぶりが転じた出来事が原因です:割愛)。しかも、僕は家では親父に怒られるときは殴り飛ばされて育ったので、学校の先生にどれだけビンタを浴びても泣きもしないので、面白くなかったのかもしれません(笑)。
ただ、随分と後になってから、母から聞いたのですが、僕の知能テストの結果が非常に高かったらしく、その高さの割りには成績がさほど良くなかったので、その先生なりに何とか発破をかけたかったのかもしれませんが(僕の母の場合はそれで発奮しましたからね)、僕の場合はそうはいかなかったです(笑)。
中学3年になるまでは、まあ、「中の上」くらいの成績のままでしたし、気にも留めませんでしたが、中学3年になって一気に成績が上がったのです(理由は割愛)。
その後、名古屋の「一流高校」に入学しましたが、高校時代は全く勉強しませんでした。教科書すらまともに開かず、テストの白紙答案すらありましたね(苦笑)。
そんな状態であるにも関わらず、保育園の件が典型的ですが、「この子は自分でやると決めないと、押し付けられてもやらない」と母が思ったのか、はたまた八木秀次氏が批判するような戦後家庭教育の「自由に育てる」という発想があったのかわかりませんが、母は「あなたの思うように自由に生きなさい」という「教育」でした(笑)。
えっと、また脱線してしまいました(笑)。
こうした僕の現実を無視したマイ・ペースっぷりに父は「うちの家系の血じゃない(母系が強く出ている)」と呆れたりしていましたが、基本的に、僕は6割父系(あるいは7割)、4割母系くらいだと思っています。
そして、父系ですが、名古屋の下級武士だったようです。
で、ここでまたちょっと脱線してしまいますが、実は僕の高校の英語の教師が僕の自宅から200mくらいにある寺の人で、僕があまりにも勉強しないので、「joyrideの家は『地主』だから、きっとその遺産だけで生きていけるから大学に入る気がないんでしょう」と高校の教師勢に話したことがあるそうです(実際は、僕の父から分家になっているので遺産は入ってきません)。
また、(下級)武士と地主がどう関連するのかどうかわかりせんが、確かに祖父母家は土地をたくさん持っていて、アパートや借家も所有しているので、その英語教師は「地主」と勘違いしただけかもしれません。
さて、ここでようやく本題(?)に入ります。
今、読んでいる本「坂の上のヤポーニア(平野久美子・著)」に興味深い記述があったんです。ちなみに、この本は今から100年以上前に日本に憧れたリトアニア人、ステポナス・カイリースが書いた日本論を紹介しながら、著者が解説を加えているものです。
ちなみに、このリトアニア人は日本を訪れたことは一度もなく、あの憎っくきロシアを日露戦争で打ち負かした日本という国に興味を持ち、いろんな情報を元に記した日本論で、意図的かもしれませんが(リトアニアを日本のような大国にするための啓蒙書ですから)、若干、事実に反する記述もあります。その中の一つが日本の農民観で、著者は以下のように解説を加えています。
<彼(カイリース)は幼い頃からそうした不条理を聞いて育ったから、日本の農民について大きな同情を寄せるのはごく自然だが、奴隷状態のロシアの農奴と日本の農民の立場はかなり違う。
西洋事情に精通していた福沢諭吉は、日本の地主と小作人の関係を「父子の如く、また親戚の如し」と評した。農民が小作米を納められないと地主は自分の蓄えを恵んでやったり、病気になれば薬を与えたりするので、農民たちは日頃の恩に報いようと、天災や冠婚葬祭にいたるまで地主のためにボランティアをする。地主たるものは小作人に尊敬されるようにふるまい、小作人は自分たちの地主を誇りに思っている。そんな両者の関係は、およそ「西洋人などの夢にも知られざるところなる可し」と書いている>
以前にも書き記したことはありましたが、父の最も古い記憶の一つが、先の大戦中、アメリカによる無差別空襲(名古屋大空襲)から逃れるため、祖母と一緒に名古屋市郊外に避難していた夜のこと。
そこから、眺める名古屋は火の海だったそうだ。
そして、空襲が落ち着いてから(戦後?)、自宅に戻ると、奇跡的にほぼ無傷の状態で家が残っていたそうです。
実は、アメリカの大空襲のときに火の粉が移って、燃え始めたそうですが、避難せずに残っていた近所の人が、「joyrideさんの家だけは燃やしてなるものか!!」と命がけで消火活動を行ってくれたそうなのです。
そんなエピソードがあったので、上述した平野久美子さんの記述にピンと来たのです。
もちろん、僕の家系は元々、武士だったので、いわゆる「地主と小作人」の関係のような地主ではなかったようにも思いますが、下級武士で俸禄が少なかったために農民に近い、身分上、「地主」のような暮らしをしていたのかもしれませんね。
ちなみに戦前、ある外国人が記した日本人観の中に、「日本人は少しくらい無理な要求をしても嫌な顔をせずに応じてくれる。しかし、ある一線を越えたとき、日本人は怒りを一気に爆発させる」というようなものがありました。
これ、何となく僕の中にもあります(笑)。
温和な縄文気質でにこやかに対応しつつも、一線を越えると鋭利な弥生気質の爆発させるという感じでしょうかね。
僕は激しく忙しいときとか、大変なときに「いやぁ、大変だなぁ」と笑顔でいることがあります。
これはよく言われる日本人特有のもので、外国人には理解不能の行動様式ですが、身近にいるニホン人の多くはそういう時はよく周りに八つ当たりしています。
ただ、1年ほど前だったか、テレビを見ていて衝撃というか感動したことがあります。
テレビで紹介されたこともある(らしい)子供が10人くらいいる、ある家族の家が火事で全焼してしまったのです。
そして、火事が鎮火した後、テレビの報道記者が、その家族を訪れ、そこのお母さんにテレビ・カメラを向けると・・・。
まるで、“今が人生で一番幸せな時です”とばかりの笑顔で、「皆さん、ご心配をおかけしましたぁ! 家族は皆、無事です!!」と笑って言っていました。
衝撃というか感動しました。
苦しいときに、険しい表情で嫌なことを考えてばかりいても将来が暗くなるだけだから、気持ちを切り替えて、明るい未来を夢見ようという日本人の楽観性が表れているだけでなく、心配してくださっている周りの人に余計な心配を与えてしまっては申し訳ないという日本人の気遣いから来る、苦しいときに見せる日本人の笑顔なのです。
さあ、日本人の皆さん!!
先日の大地震で東北地方沿岸部は壊滅的な被害を受けましたし、福島原発の事故は予断を許さない状況です(僕は当初からメディアが煽り過ぎているだけだ、と楽観的ですが)。
人類史上最大規模の地震が起き、近代国家としては未曾有の被害を受け、被災者の皆さんは大変苦労されています。
しかし、そんな時だから、楽観的に笑顔で明るい未来をイメージしましょう!
日本はまた立ち直る!!と。