唱歌・童謡「白鳥の歌」の作曲家である古関裕而の半生を紹介します。
唱歌・童謡 「白鳥の歌」
作詞・若山牧水 作曲・古関裕而(ゆうじ)
幾山河(いくやまかわ) 越えさり行(ゆ)かば
寂しさの 終(は)てなむ国ぞ
今日も旅ゆく
歌手の桜井健二は、高校3年の時に古関裕而と出会いました。
家に届いた郵便を開いて、目を疑ったそうです。美しい色紙が2枚も入っており、「桜井健二君の為に 古関裕而」と、憧(あこが)れの人物の名が記されていまました。1枚は『オリンピック・マーチ』、もう1枚は『白鳥の歌』でした。3番の歌詞と五線譜の下には、豊かな膨らみをもつ山並みが水彩で描かれています。そんな歌は知らなかったが、ひどく崇高なものに触れた思いで、健二はいつまでもそれに見入っていたそうです。
時は1965年。健二は千葉県市川市の高校のブラスバンド部員でしたが、1964年に開かれた東京オリンピックの開会式に演奏された行進曲のメロディーが、昼も夜も頭から離れません。一大決意を固め、作曲者の大先生に手紙を書きました。「弟子にしてください」。それが、こんな形で戻って来るとは思いもよらなかったそうです。
古関裕而は1909年、福島市の呉服屋の長男に生まれました。幼いころから音楽に親しみ、福島商業を卒業後に銀行員となりましたが、ほとんど独学でその道を志して上京。1930年に山田耕筰の推薦で日本コロムビアの専属となるという異色の経歴を持ちます。
『白鳥の歌』が生まれたのは、終戦直後の1947年春。NHKの連続放送劇「音楽五人男」(長谷川幸延作)の挿入歌として作られ、1948年に東宝が映画化した際にも用いられました。ラジオでは藤山一郎が歌い、レコード化する時は松田トシとのデュエットになりました。
3年後の春に正式に弟子入りを果たした健二は、最後の門弟として5年間を務めました。ドブ掃除、薪(まき)割り、庭の手入れから楽譜の清書まで何でもこなしまし。今も忘れられないのは、書斎の異様な光景でした。楽器類は無く、クラシック関係の書籍と楽譜が山積みになっています。バッハ、モーツァルト、ベートーベンから、ストラビンスキー、ウェーベルン--。
その中で、世に歌謡曲と呼ばれる曲が次々と生み出されていきます。仕事場で過ごす慈愛あふれる師との時間は、限りない潤いに満ちていました。短歌に曲を付けるというクラシックの作曲家でも至難の業を、この歌で見事に成功させた秘密も納得できまし。それは人間としての品格、すなわち「歌は心だ」と。
その後、健二氏は東京交響楽団のライブラリアン(楽譜の総責任者)を務め、故山田一雄と共に日本マーラー協会を再建し、音楽評論、執筆の世界で活躍することになります。そして50十歳を目前にした今、改めて古関との出会いの意味の深さを、日々痛感します。
古関は自らの最大の作品は、世界の桧(ひのき)舞台で演奏された『オリンピック・マーチ』だと語っていました。「大きい曲の代表がそれなら、小品の代表が『白鳥の歌』じゃないかな。この上なく大きな夢をもらった2枚の色紙は、先生の世界を象徴しており、ぼくはその両方にかかわっていた。幸せな半生だったと感謝しています」
冬の一日、その彼が顧問を務める福島市入江町の古関裕而記念館を訪ねました。窓の大きなサロンのソファに座り、館内に流れる古関メロディーに耳を傾けながら、庭のメタセコイアの幹にこぼれる午後の陽(ひ)を眺めました。記念館のすぐ背後には、古関が若き日に楽想を練りながら散策したという信夫山(しのぶやま)が連なっています。
その展望台に立つと、市街地を南北に貫流する阿武隈川が眼下に光り、雪煙が立つ吾妻連峰が西の空を圧してそびえていました。山河美しければ、人美し。牧水以上に牧水的なこの曲を作る時も、桜井少年に送る色紙を描いた時も、古関の胸の中にはこの北国の故郷の、清冽(せいれつ)な風景が流れていたに違いありません。
大畑亮介
参考:http://www.u-canclub.jp/