センテンスサワー -9ページ目

センテンスサワー

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大好きな人の弾き語りツーマンに行ってきた。

 

現実から逃げたくて、仕事に行くのが嫌で、でも勇気を貰いたくて、大好きな二人のライブに行ってきた。

 

 

峯田の主張はときに過激である。

 

なにしてもいいから、とにかく生きろ!

 

そうすれば、いつかまた会える!

 

絶望している人だけでなく、犯罪者や殺人犯でさえ、肯定する言葉を彼は投げかける。

 

峯田にとって愛とは受け入れるということである。それはつまり、究極の包摂である。

 

語るように、叫ぶように、嘆くように、歌い。煽り、飛び跳ね、駆け巡り、狂気と化し、歌う。

 

 

カネコアヤノは日常を歌う。声高らかに歌い上げる。

 

それは、所謂、日常系というものだ。

 

繰り返す日々に見過ごしてしまうほどの微かな喜びにさえ、メロディーにしてキラキラと輝かせてしまう。

 

小柄な体。だけど、力強い歌声に、ぼくらは心を鷲にされ、ぼくの知らない日常に連れ去ってくれる。

 

さえずるように、囁くように、吐息のように歌い。音階を超えて、音域も広げて歌う。

 

 

 

ぼくは、彼らの歌を聴いて、崇高と美を思い浮かべた。

 

それは、哲学者のカントの感受性に対する考え方である。

 

崇高とは、とてつもなく大きな物や存在、ものすごく大きな力を前にして、それ自体を認識することすらできず、自身の限界を感じることで生じる快である。

 

そこには信仰心が発生する。峯田に対する熱狂はそこに関係がある。

 

彼の言葉、行動に対して、ぼくらは圧倒され、崇高を感じてしまうのである。

 

美の発生は、理性に備わっている自然の資質に対する関心によって、自然自体へと向かう。そして、その対象を前にして、構想力と悟性が一致することで、美的な感覚が発生する。

 

自然な資質とは、花や海などの純粋な自然もあるが、音などにもそれは見いだせる。

 

カネコアヤノには、その資質が備わっていると感じる。自然体な彼女に、ぼくらの理性は美を見出そうと試みる。花や海などと同列に彼女は美しいと感じる。

 

 

今回のライブは本当に最高だった。

 

コラボはなかったが、それでも崇高と美を同時にして感じられた、カントも嫉妬してしまうほどのライブだったと思う。

 

来月は、あいちトリエンナーレで、サカナクションのライブがある。

 

崇高と美を感じられたらいいな。

 

 

関連ページ:

カネコアヤノと小山田壮平

松本信者論 令和バージョン

大切なものだけが失われていく。

 

最終的に、地球にはガラクタばかりが残っちゃうんじゃないの。

 

愛という概念を神が作ったロジックであるなら、

 

どうにかしてそれを論破できるくらいにならなくては、

 

ぼくらは愛に縛られて、彼らの餌食になってしまう。

 

萌でいい。愛は、嘘くさいから、萌でいい。

 

ぼくは、萌え続けたい。情操を超えて、萌が生き続ける。

 

星になるまで、もっともっと萌え続けていたい。

エンド・ゲームを観た後、MCUは今後どのように展開していくのか、いささか不安であったが、スパイダーマンの最新作を観て、それは払拭された。

 

前作であるホームカミングは、ぼくはとてもお気に入りの作品で、MCUの中でも一二を争う作品だと思っているが、ファーフロムホームは、それを超えるほどの出来栄えだったと思っている。

 

エンド・ゲームにしろ、本作にしろ、マーベル・スタジオは他の映画製作会社よりも、数年先をいっているように思う。

 

それは技術的なレベルだけではなく、脚本、キャラクター、どれをとっても秀逸であり、潤沢な資金力も重要なポイントである。

 

それは、トニー・スタークの莫大な資金力による圧倒的な強さを彷彿とさせる。

 

今は亡き、トニー・スタークの後を、後継者としてピーター・パーカーは、MCUの中心人物として活躍していくにちがいない。

 

 

さてさて、そろそろ本題に移ろうかと思うのだが、本作は先日公開されたばかりということもあり、内容には触れず、スパイダーマンと父の不在というテーマで書いていこうと思う。

 

ピーター・パーカーには両親がいない。諸説あるが、事故で亡くなっているというふうに説明されているだけである。

 

両親の不在自体がとても重要なことであるが、MCUで描かれるものは、父親をテーマにしたものが多いため、あえて、父の不在ということに着目した次第である。

 

まず、ホームカミングでは、トニー・スタークとの師弟関係を中心に描かれており、それはヒーローという存在としての父という関係が見受けられる。

 

そして、物語自体に着目すると、ウィング・スーツを身に纏った怪人バルチャーが、また父として関係している。これはネタバレになってしまうが、前作の内容なので目をつぶってほしいのだが、バルチャーは、ピーター・パーカーの恋を寄せる女性の父親である。

 

また、ファーフロムホームでも、トニー・スタークというヒーロー界の父の死から物語ははじまる。

 

同様に物語自体に着目すると、トニー・スタークという経営者としての父権制からの抑圧から生まれた悪というものがテーマとなっているため、それもまた父という存在が関係してくる。

 

スパイダーマンに纏わるのは、やはり父親の不在である。それは、父親の不在による、ピーター・パーカーの自立というものが物語の鍵であり、見どころなのである。

 

 

併せて注目したいのは、トニー・スタークにも同様のテーマが存在するということである。冷徹な経営者であるトニー・スタークも、若くして父親を亡くしているのである。

 

双方に父の不在が関係していると思うが、それが師弟関係に絶妙なぎこちなさをうんでいる。トニー・スタークからしてみれば、ピーター・パーカーに対して父としての接し方に苦闘し、ピーター・パーカーからしてみれば、トニー・スタークに息子としてどのように接すればいいのか苦闘しているように思うのだ。

 

MCUの第一フェーズの後期に登場し、第一フェーズの最後の物語として公開されたスパイダーマンは、間違いなくトニー・スタークから引導を渡された次世代の中心人物となるだろう。

 

第二フェーズがどのような形で幕を開けるのか検討もつかないが、ドデカイ花火をかましてほしいと思っている。

 

 

最後に、MCU版スパイダーマンの見どころは、ピュアな青春ドラマであろう。

 

ここから判断するのは時期尚早かと思うが、MCUはおっさんが好きなパターンばっかりだけど、第二フェーズからは、若者が好きな要素をどんどん取り入れていくんじゃないのかということだ。

 

だは。