大好きな人の弾き語りツーマンに行ってきた。
現実から逃げたくて、仕事に行くのが嫌で、でも勇気を貰いたくて、大好きな二人のライブに行ってきた。
峯田の主張はときに過激である。
なにしてもいいから、とにかく生きろ!
そうすれば、いつかまた会える!
絶望している人だけでなく、犯罪者や殺人犯でさえ、肯定する言葉を彼は投げかける。
峯田にとって愛とは受け入れるということである。それはつまり、究極の包摂である。
語るように、叫ぶように、嘆くように、歌い。煽り、飛び跳ね、駆け巡り、狂気と化し、歌う。
カネコアヤノは日常を歌う。声高らかに歌い上げる。
それは、所謂、日常系というものだ。
繰り返す日々に見過ごしてしまうほどの微かな喜びにさえ、メロディーにしてキラキラと輝かせてしまう。
小柄な体。だけど、力強い歌声に、ぼくらは心を鷲にされ、ぼくの知らない日常に連れ去ってくれる。
さえずるように、囁くように、吐息のように歌い。音階を超えて、音域も広げて歌う。
ぼくは、彼らの歌を聴いて、崇高と美を思い浮かべた。
それは、哲学者のカントの感受性に対する考え方である。
崇高とは、とてつもなく大きな物や存在、ものすごく大きな力を前にして、それ自体を認識することすらできず、自身の限界を感じることで生じる快である。
そこには信仰心が発生する。峯田に対する熱狂はそこに関係がある。
彼の言葉、行動に対して、ぼくらは圧倒され、崇高を感じてしまうのである。
美の発生は、理性に備わっている自然の資質に対する関心によって、自然自体へと向かう。そして、その対象を前にして、構想力と悟性が一致することで、美的な感覚が発生する。
自然な資質とは、花や海などの純粋な自然もあるが、音などにもそれは見いだせる。
カネコアヤノには、その資質が備わっていると感じる。自然体な彼女に、ぼくらの理性は美を見出そうと試みる。花や海などと同列に彼女は美しいと感じる。
今回のライブは本当に最高だった。
コラボはなかったが、それでも崇高と美を同時にして感じられた、カントも嫉妬してしまうほどのライブだったと思う。
来月は、あいちトリエンナーレで、サカナクションのライブがある。
崇高と美を感じられたらいいな。
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