月の表面にはたくさんの穴があり、それはいわゆるクレーターという大きな窪みのことである。
どのようにしてクレータはできてしまったのか、それは諸説あるが、隕石が衝突したとか、火山の爆発だとか、うさぎが杵でつきすぎたとか、ウンタラカンタラ。
クレータは月面に何万とあり、表層を覆っている。
授業で習って、売る覚えであるが、なんとなく知っていることである。
昔のひとは、そのことを知らないため、遠くから月を眺めることしかできなかった。
ねえ、お父上、あの黒い模様はなに。月にはなにがあるの?
あれかい、あれは、うさぎさんがお餅をついているんだよ。
てな具合に、気の利いたことを言ったのだと思う。
あれは、プロセラルム盆地といってね、彗星が衝突してできたんだよ、と真面目に答える父親よりも、よっぽどユーモアがあっていい。
月と地球との距離は、約40万キロほどである。
手をのばしても届かない、肉眼では認識できないほどの距離である。
そこには想像力が働く。想像力で、そのアナを埋めようと試みるのである。
いつであっても、見上げれば、そこにあるはずなのに、それ以上知ることができない不気味なもの。
それを、身近なものに置きかえることで、それを馴染みなものとして、馴染みなものをもって、想像するのである。
そういった意味でも、月と地球の距離はとても絶妙な位置にあると思う。
手が届かないからあきらめがつき、想像力で誤魔化して、茶化すほどの存在である。
誰も月に行こうとは思はない。考えすらしなかっただろう。
だが、20世紀となり、科学技術の進歩により、月と地球の距離は縮まっていく。
ライト兄弟は、1903年に世界初の有人動力飛行に成功した。その60年後に、ロシアが世界初の宇宙空間での飛行に成功する。それから、6年後に、人類は月に到達することになるのである。
「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である」というアームストロングの言葉はあまりにも有名である。
現在上映中の「ファースト・マン」では、科学的知見と科学的史実に基づき、人類で初めて月面に着陸した男の話となっている。本作は、ある意味ハードSFとしても十分楽しめる作品でもある。
なぜ、月を目指すことになったのか。どのような訓練をして、どのような技術を利用したのか。そして、彼らの家族はどのような心境であったのか。それらをうまく絡めて描かれている。
そして、月への到達は、アメリカの思想的にも必然的なチャレンジだったといえる。
情報学研究者であるドミニク・チェン氏は、アメリカの幸福について、以下のよう説明する。
「アメリカ人にとって幸福とは、自身で獲得したステートである」のだそうだ。
つまり、チャンスを掴むことが、アメリカ人にとっての幸福の認識の仕方なのである。
西洋思想を起源とするその考え方は、神に近づくために、科学技術の成果と達成を目指し、いずれ人間自体が神となることを目的としている。
人類で初めて月に到達するというのは、アメリカにとっての地位を獲得するためであり、思想的にも重要な出来事であったのである。偉大な飛躍とは、神に近づいたといっても過言ではないだろう。
理数的に計算をし、確率を数で超越するというアメリカ的な発想も、進歩する上では仕方ないことではあるが、月への到達は、数々の事故と犠牲のうえで成り立っており、その点も「ファースト・マン」でちゃんと描かれている。
そのような思想があるからこそ、人類で初めて月面着陸というステートが獲得できたのである。
ちなみに東洋の幸福の認識には、福という文字があるように、そこにはラック(運)が介在する。
その定義は、今の幸福度は、運の巡り合わせによるものであり、運に基づく幸せであるそうだ。そのため、幸せな状態が続いているときに、次に不幸が訪れるのだと不安になるというのである。
うん、こっちのほうがいいね。