五年前の二月に上京してきた。その時も、今日と同じように雪が降っていた。その数日前まで、雪害と呼ばれるほどの豪雪だとニュースで取り上げられていたため、あれやこれや心配していたのだけど、思いのほか葉が舞い落ちる速度で小雪がちらついている程度だった。道沿いに集められた雪の塊は、豪雪の傷跡をそれとなく教えてくれていた。
子供の頃、雪が降るという朗報は、無条件に気持ちが高まり、うっひょうーと空を見上げながら、いつ降るかわからない雪を、今か今かと待っていた。愛媛県では、数年に一度降るかわからない程度の確率で雪が降る。そのため、雪にまつわる文化や言語は、実感としてあまり馴染みがない。そのためか、「国境のトンネルを抜けると、窓の外の夜の底が白くなった」という川端康成の冒頭の一文は、未知の文化圏へと足を踏み入れる、素晴らしい表現だなと感じていた。
昨日、会社の先輩から「明日雪が降るらしいよ」と言われて、「へえー」とそっけない乾燥した言葉で返事をした。当時のように嬉々とすることもなく、心が一ミリも動かない自分に驚きすらしなかった。子供の頃は、背が低かったためか、すべての世界を見上げていた。目線の先にはなにもなく、上から与えられたモノやコトが、ぼくを魅了し、そのたびに世界が広がっていく気がした。その中でも雪はぼくにとって特別な存在だった。
はじめて触れるまで雪が冷たいものだとは知らなかった。温かいものだと思っていた。手のひらに触れた瞬間に溶けた雪の儚さに愛しさを覚え、それを固めてぶつけ合う雪合戦の暴力性に快感を覚え、そんなことをしながら、雪の輪郭にメイクを施していった。「風邪をひくわよ」は、雪遊びの終了を告げるホイッスルである。それを聞くと寂しくなったのを今でも覚えている。
どこの誰が、雪のことをロマンチックだと表現し、解釈を加えたのだろうか。もはや、なにかを売るための記号であり、商売道具の一つだと感じざるおえない。雨は夜更け過ぎに雪へと変わり、その瞬間に付加価値を帯びる。資本主義の化け物に変わるのである。
ロマンチックを餌に、欲望が渦巻き、ラブホテル街に灯がともる。「国境のトンネルを抜けると、窓の外の夜の底が白くなった」という川端康成の一文を先ほど取り上げたが、もはや下ネタにしか聞こえない。「雨は夜更け過ぎに雪へと変わるだろう」という素敵な歌詞でさえ、もはや下ネタに聞こえざるおえないのである。
「雪やこんこ、あられやこんこ」と口ずさみながら、夜のまちを歩いてみようと思う。留まらない、留まれない雪の儚さに、葉が舞い落ちる速度だけ、うっひょうーと雪が溶けない温度で高揚しようと思う。頭の中を真っ白にして。