先日、江頭2:50分がDVDの発売イベントで全裸で観衆にダイブをしたことで、公然わいせつ罪として事情聴取されたそうだ。
裸になるくらいならまだ注意くらいで済んだのかもしれないけど、どうやら勃起していたようで事が大きくなったのだろう。
これに関してとやかく言うつもりはないけど、改めて芸人という職業は大変な仕事だと感じた。
社会が近代化するということは世知辛い世の中になることは当たり前で、逃れようのない事実。加えて、日本国民の民度は低下する一方だし先行き不安。
アメリカでは女性上半身の露出を求める抗議運動などあったけど、この点に関してはすごく寛容で羨ましい文化だなと。
その点、現在の日本には芸人を受けとめる寛容さはなく、冷たい目で傍観しているだけ。監視社会化している中で、これまで通用していた芸人のあるべき姿も消えつつある。
そもそも芸人のあるべき姿とは一体何なのだろう?
裸になったり、女遊びしたり、豪遊したり、などなど。
非常識な行いや破天荒な姿に生き様があり、それを笑うことで古き良き時代の関係性が成り立っていたのである。
つまり社会不適合者だからこそ悪行であっても正当化され、またそれが芸に繋がっていたのである。
差別を笑うことはある意味人間の真理であり、悲しい性であるが、芸人は差別されるか否かのグレーゾーンで、同情を笑いにかえていたのである。
だが、それは過去の話で会って、ビートたけしや松本人志などのカリスマが登場することにより、芸人の価値が高まってしまい、戯言は通用しなくなり、芸人に対する見方は変わってしまったのである。
最下層だった芸人という職業も、テレビタレントとして活躍することで芸がなくても食っていけるようになり、いつの間にか富裕層の仲間入りしてしまった。もちろん、売れてない芸人はたくさんいるが、一般人が認知しているのはテレビで売れている芸人なので、それ以外は自称芸人であるとしておく。
最下層の芸人を笑うという構図はいつの間にか崩壊し、芸人の方が上の存在になってしまった。芸人のあり方も、笑いの取り方も、何もかもが不利な状況になってしまった。
差別や暴力に対して敏感な世の中で、それを武器として生業としていた芸人は一体どうすればいいのか?
体を張ったり、無茶をしたり、数年前までの寛容なメディアが無い中で、薄まった芸を見せられても満足できないに決っている。
今回、江頭の話題を取り上げたのは理由があって、芸人が過激さを追求することが困難になっている中で、過激さを追求できるアンダーグラウンドな人たちが存在することだ。
例えば、以前話題になった、男性器を有名フランス料理店で調理して、それをオーディエンスを集めて食すというイベントである。
これを笑いと捉えるのはいささか無理があるが、笑いの法則にのっとれば笑いになりやすい環境は整っていると思う。笑いにならなくても、過激さに興奮し、面白がれる人たちはいるだろう。
ぼくは彼らをあんぐら芸人と呼ぶことにするが、彼らが現れることで、芸人は不利になることは事実だろう。
あんぐら芸人の追求する過激さに、芸人は指をくわえて見守ることしか出来ない。制限された中で、どう面白くするかという課題もあるが、それはパターンにも限界があるだろうし、建設的ではない。
テレビタレントになるか、芸を追求するか、という究極の選択をせざるを得なくなるだろう。
どう考えたって、先行き不安以外のなにものでもない。
とまあ、こんな感じで書いてきたけど、違う方向に向かって芸人は進化していることも事実だ。人を傷つけず、慣れ合いで笑いが取れる技術が磨かれていると思う。ある意味尊敬するし。
でも、ぼくはそんなこと求めてないし、期待していない。
過激さ、暴力、差別などの危険な匂いがするものに、ぼくらは飢えているのである。
倫理的にも道徳的にも判断の出来ないグレーゾーンの中で、彼らは責任をもって笑いを生み出そうとしていたのである。
昨年の教師による暴力問題ではこぞって暴力に対して線引していたけど、そもそもそんなもの無意味な議論であって、似非絶対主義の戯言でしかないだろう。
良い暴力もあれば、悪い暴力もあるし、それを極端に抽象化して悪を生み出す気持ち悪いさ。
絶望ですよ、まじで。
あんぐらで活躍する素人が、ネットの普及により、彼らの活動が容易く広まるようにもなった。
それと同時に芸人は言葉を失っていく。
とりあえずだけど、解決策はひとつしか見当たらない。
それはメディアというプラットフォームを放棄することだ。
てな、感じかな。
以上。