ある瞑想会に参加しました

 

覚者や賢者に交じって

凡人の私もいるけれど

みんな違って みんないい

 

心からそう思える場が

生まれていました

 

翌々日の早朝

起き抜けのお白湯を飲みながら

一昨日のことを思い返していたら

 

当日お会いした方たちのイメージが

次々と浮かんできて楽しくなりました

 

求道者の雰囲気を身にまとい

人ではなく暗闇を「たわけ者!」と

切り裂いているサムライのような人

 

福の神のような優しさを漂わせ

関西弁の機転の利いたおしゃべりで

周りを幸せにしている大黒さまのような人

 

一人ひとりへの気遣いが爽やかで

ハートから愛が溢れ出ている

第三の目が開いた観音さまのような人

 

キリっとしたキャリアウーマンなのに

意外にもお茶目でひょうきんな

悟りを開いた一休さんのような人

 

吸い込まれそうな深い目をした

覚醒への物語の主人公を演じている

異国の王子さまのような人

 

慈愛に満ちた優しい笑顔が魅力的な

七福神で唯一の女神さまである

弁財天のような佇まいの人

 

純粋だから傷つくことも多いけれど

幸せへ導かれる物語を演じている

美しい白雪姫のような人

 

ファンタジーの世界に住んでいるような

柔らかでしなやかな感性に恵まれた

白い百合の花のような人

 

・・・・・・

 

そして、ある覚者の方を思い浮かべて

どんなイメージが出てくるかなあと思ったら

 

あれっ、まったくイメージが浮かんでこない・・・

 

むしろその方を思い浮かべていると

なぜか背景に溶け込んでいくように

輪郭があやふやになっていく・・・

 

おかしいなあ

どうして? 

 

と思っていたとき

数か月前に見た夢を思い出しました

anythingの夢

 

その夢の中の私が好きな言葉は

「anything」でした

 

なぜなら

「あらゆるものでもあり

 特定の一つでもあるから」

 

「anything」は本質の世界を表している

と、夢から覚めた私は感じていました

 

そしてその時と同じような感覚が

蘇ってきました

 

その覚者の方は

この現象世界に居ながらにして

anythingの世界に住んでいるのでしょう

 

anythingという本質の世界は

あらゆるものを生み出す前の

「空」の世界

 

粒子たちが微かにうごめきながら

何かを生み出そうとしている世界

 

「何者でもなく何者にもなれる」世界

 

そんな「空」の世界に住む人は

「ただ在る」がゆえに

 

特定のイメージに固定されず

どんなイメージにもなれる

のかもしれません

 

個の自分へのこだわりがないから

曇りのない鏡のように

目の前の人の本質を映し出せる

のかもしれません

 

その方とおしゃべりしていると

神社に祀られている鏡の話になりました

 

みんな神さまに祈るために神社へ行くけれど

本当は神社の鏡に映った自分と出会っている

 

自分の姿が映った鏡(かがみ)から

我(が)を取ったら

神(かみ)になる

と聞いたことがあります

 

でもその覚者の方は

鏡の真ん中に「我」があるのは

「神」が「我」を大切に包み込んで

「いいよ、この世界で自由にやりな」と

見守っているんだよ、と言われました

 

その覚者の方に会うと

心をわしづかみにされてしまうのは

「我」を排除しようとしない究極の優しさで

周りの人たちを見つめているからなのでしょう

 

そしてその方を通して映し出される

本質の世界の「自分自神」に気づき

心をわしづかみにされている

のかもしれません