雨だれ。 | 風に吹かれて マイ・ヴォイス

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なりゆきまかせに出会った話題とイメージで、「世の中コンナモンダ」の生態系をのんびり探検しています。これはそのときどきの、ささやかな標本箱。

 ここ数日、雨だったり、みぞれだったり、パラパラ雪だったり、いろんな形で空から降ってくる。

 「最近、雨だれの音、聞かないわね」

 「雨どいがバッチリあるからだろう」と言って、そういえば「雨だれ」とか、「雨やどり」は死語になりつつあるのかな? などと考えた。そう言ったら、

 「ショパンの有名な『雨だれ』だってあるのにね」と返ってきた。

 ショパンがつけたわけじゃないだろうが、たしか雨音のような連打音が「雨だれ」の俗名の由来だろう。「それもあるし、死語じゃないだろう」と、中途半端に応じた。

 

 もう何年か前になるが、あいにくの雨が降っていた日に、所用で地方の町の駅から少し山側に上ったところにある遠い親戚の、小さい加工工場に行った。そこで、作業場の窓を開けたとき、縦模様の暖簾(のれん)のように「雨だれ」が、目の前を音をたてて落ちていた。開けた茶色い木製の窓枠がフレームになって、雨だれはそのフレームの中で、周りの物の輪郭を浮き上がらせながら、生きていた。

 というのは、雨だれの暖簾(というかカーテン)を通して、工場の外に無造作に置かれているクマやタヌキなどの動物やお地蔵さん(だったと思う)をかたどったいくつもの焼き物を見たとき、それらがたしかに生き生きと見えていたが、雨が止んで同じ窓から同じ焼き物たちをみたとき、何の印象もなくただの濡れた焼き物にしか見えなかったからだ――こんなことを思い出した。

 

 自然のありようを風情として、ときとして心情にまで届くかたちで受け取るのは日本人の常だが、「雨だれ」はその受け取りを、情況によっては際限なく増幅するものらしい。

 雨だれが、「雨」そのものだけではなく、もとになる「水」のイメージや視覚や触覚までももたらすことは、考えてみれば、日ごろ実感するところだ。

 

 そういえば、二十世紀の奇蹟といわれた人、ヘレン・ケラーが、ミス・サリヴァン先生によって、すべての物が名前を持つこと、そういう物から成る世界が大きくあることを知ったのは、「……先生は私に、水の流れ出るところに手を出させました。つめたい流れが手の上をほとばしっているとき・・・・(以下略)」(『自叙伝』)というすさまじい体験からだったわけで、底知れない水の力ともいえばいえる。

 『雨あがる』という山本周五郎の小説の映画(小泉堯史監督)で、寺尾聰演ずる三沢伊兵衛夫婦が大雨で川を渡れず足止めをくらった宿での、どしゃ降りの雨の「雨だれ」の映像が、象徴的にというほどはっきりと思いだされる。

 激しい雨だればかりではなく、ポタリポタリと落ちる雨だれが何かの(男女のあいだの)メタファーだった映画もある。題は忘れたが、突然の雨で、高校生の男子が、どこかの軒先で「雨やどり」をしていたときの、庇から容赦なく落ちる雨だれが印象に残る映画もあった。「雨やどり」だって死語にしたくない。

 

 人の、水や雨に寄せる想い、ときには、水や雨に託す気持ち・・・・不定形の水は、人の心のありようや、

精神の構えの形を、自在にとるものらしい。

 いろんな形で空から(水が!)降ってくるのもわるくない。そう思うことにした。