「いいえ、誰でも」「こんにちは」 | 風に吹かれて マイ・ヴォイス

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なりゆきまかせに出会った話題とイメージで、「世の中コンナモンダ」の生態系をのんびり探検しています。これはそのときどきの、ささやかな標本箱。

 なりゆきまかせに出会った話題とイメージで、「世の中コンナモンダ」の生態系をのんびり探検する――という自分のスタンスを再確認して・・・、テレビの読書系番組で出会った「詩」に、純正の素人として触れて、自分の探検の整理をしてみたい。というのがホンネの楽屋裏――。

 

 金子みすゞという詩人。若き童謡詩人の中の巨星、とかいわれながら、1930(昭和5)年に26歳で早世し、本人が熱望していた(であろう)詩集が、遅く1982(昭57)年に世に出されたという。年寄りのぼくが読んでもいい詩が多い。とっくにご承知の方には申しわけないが、彼女の作品を一点だけ紹介させていただく。よく知られた「こだまでしょうか」という、たぶん彼女の代表作品のひとつといってもいい詩。

     「遊ぼう」っていうと/「遊ぼう」っていう。

     「馬鹿」っていうと/「馬鹿」っていう。

     「もう遊ばない」っていうと/「遊ばない」っていう。

     そうして、あとで/さみしくなって、

     「ごめんね」っていうと/「ごめんね」っていう。

     こだまでしょうか、/いいえ、誰でも。

――という詩。子どもの視点とよくいわれるような「素朴な」視点、素朴に「疑問符」をさしはさむ視点、にピントを向けている。さすが「童謡詩人」。

 これとは別の、子どもの作品(作者名はあえて伏せておきます)を一点(引用)。

     せんせい/うらしまたろうは/「さようなら」というとき

     みみや くちに/みずが はいると おもいます

 アンデルセンの「裸の王様」の寓話を思い出すし、神様が天からすべてを見ていらっしゃいますよと言った母親に「まあ(神様って)失礼ね!」とか言った女の子の話を思い出す。そういってよければ、おとながおいてきぼりにした、「新鮮な視点」である。

 

 舞台は変わるが、アメリカで書かれた自然をテーマにした話に――「サケは毎年秋になると川を遡ってきて、クマはそれを認めて、必要な分だけを取った。すべてがこんな具合だった。誰もが何らかの合意に従い、礼儀を尊重して生きていた。だがサケ族とクマ族は、川とは何の合意もしてはいなかった。忘れていたのだ。そんなことが必要だとは誰ひとり思わなかった。だが、必要だったんだ。——(以下略)——

という、(この先何が起こるかは想像の愉しみに)これもよく知られた話がある。

 

 素朴って、基本的ということだろう!(これはぼくのヘボ意見)。こういう詩や寓話をとおして、「あいさつ」とか「やくそく(合意)」などが、あらためて意識されるのはうれしい。とくにいまの世の中ではうれしいし、じっさいに有用だ。何を今さらといってもいられない。

 

 余談になるが、うちの近所でも(所によって)あることだが、とくに出かけた先の地方で、学童たちのお帰り時間に道で会うと、「こんにちは」と大声で挨拶してくれることにでくわす。こっちもあわてて「こんにちは」と返すが、学校の教育の反映かな、と思ったりもする。「知らない人に口をきいてはいけませんよ」もわからないでもないが、やっぱり「こんにちは」がいい。「いいえ、誰でも。」だし、竜宮城じゃないから口に水がはいることもない。